第四十四話:反撃の狼煙(二)
スダチが強引にノエルの部屋へと突入した時、部屋の外には微妙な……なんとも言えない、重苦しい空気が充満していた。
空気の発生源は、壊れた髪飾りを手に立ち尽くすアデリーネだ。普段から冷静な彼女にしては珍しく、言葉も無く俯き、小さく震えているようにさえ見える。
「あ……アデリーネ殿」
雨音だけが支配する室内。何と声を掛けて良いかわからず所存無く座り込んでいた太郎丸であったが、いつまでもこうしていた所で埒が開かない。何でも良いから、思い切って声を掛けてみよう――そう考え、口を開く。
「その髪飾りは、ヤマトに貰っ……」
そこまで言った瞬間だ。ギッ! と鬼のような形相でアデリーネに睨みつけられ、太郎丸は慌てて口を噤む。この話題は、かなりホットな地雷であるようだ。地雷原の数歩手前で危うく踏み留まった事に気付き、肝を冷やす。何か他の話題を探さなくては――。
「そ……そうだ、アデリーネ殿。せっかくスダチ殿が作った飯が冷めてしまう。早々に頂くとしようではないか、なぁ?」
白々しく言ってみた太郎丸だったが、アデリーネからの反応は皆無。無視されているというよりは、耳に入っていない感じだ。
「……あ、アデリーネ殿? 如何なされた?」
恐る恐る、アデリーネの顔を覗きこむ太郎丸。すると、いつも知的でクールな大人のエルフである彼女が、口を真一文字に引き結び、顔を真っ赤にして目を潤ませ、肩を震わせているでは無いか。
「だって…………ですからっ」
「ん? な、何か申されたか?」
人狼の優れた聴力を持ってしても聞こえない程に小さな声量で、何事かを呟くアデリーネ。なんとなく、面倒な予感を感じた太郎丸だったのだが……思わず聞き返してしまう。そういう性分なのだ。
やれやれ仕方が無い……そう思った彼がきちんと座り直して聞く体勢を整えると、それを待っていたかのようにアデリーネが声を上げた。
「だって……だって、しょうがないじゃないですか! どうしても、欲しかったんですからぁっ!!」
溜め込んでいた気持ちを吐き出すと、溜めていた涙も同時に溢れ出す。次々に頬を伝う涙としゃくり上げる声は、普段見る彼女とはまるで別人。年端も行かぬ子供のようだ。
「前に……隠里から町に戻った時……や……ヤマト様がアレを買ってるの、私……偶然、見てて……」
「アレ、というのは髪飾りか。隠里から戻った時というと、我らだけで行動していた時だな」
涙声で語られるアデリーネの心情を、太郎丸は丁寧に聞き、解き解いて行く。どうやらヤマトが道具屋で髪飾りを買う姿をアデリーネが目撃したのが、事の発端となったようだった。
「アレは、絶対にノエル様に買ってるんだと思って……でも、少しだけ……私にも何か、あるかもって……ひぐっ……」
「どれ、これを使うと良い」
込み上げる涙で溺れそうな娘へ、太郎丸は手拭いを渡す。
アデリーネは、ヤマトが自分にも何かプレゼントを買ってくれるのでは無いかと淡い期待をしてしまったのだと言った。だが優しいだけで朴念仁のヤマトが、そんな気の利いた事を出来る筈が無い。案の定アデリーネには何も無く、せっかく買ったノエルへのプレゼントも渡し損ねるという体たらくだったのだ。
「でも、何も無かったのは……ぐすっ。それほどでもなくて……」
少しがっかりはしたものの、自分はヤマトに買われた身。高望みが過ぎたと反省し、日々のあれこれに邁進するアデリーネ。やっと冒険者としての活動に慣れ、手応えを感じ始めていた、そんな頃だった。突然ヤマトが居なくなったのは。
「それで、ヤマト様を探しに行った時……ゴミ捨て場に……」
それは偶然だった。最後にヤマトの目撃情報があったゴミ捨て場。そこを訪れたアデリーネの目に飛び込んできたのは、壊れてゴミと一緒に捨てられていた、見覚えのある髪飾りだった。
これはヤマト捜索の手掛かりになるかもしれないと拾い上げたアデリーネに、ふと後ろ暗い考えが過ぎる。どうせ捨てるような物なら、自分が貰っても良いんじゃないだろうか? と。
「捨ててありましたしっ……壊れてたから、誰もいらないと思って……」
誰にとっても不要な物だとしても、アデリーネはその髪飾りが欲しかった。ヤマトが買ってくれる、彼の想いが詰まったプレゼント。どれほど願っても彼女には決して手に入らない物だ。
それが今、手の中にある。
「それで、こっそりと自分の物にしたというわけか」
太郎丸の言葉に、黙って頷くアデリーネ。その頃にはもう、涙は止まっていた。
「アデリーネ殿、それほど思い詰める事ではござらんのではないか? 某とて何者かに恋焦がれる気持ちはわかる……それに不要品として捨ててある物を拾った所で、悪い事とは……」
「ですが、恥かしい事です」
諭すように語る太郎丸の台詞を遮り、きっぱりと言い切るアデリーネ。彼女が胸に秘める思いまで推し量る事はできないが、人としての尊厳だとか、女のプライドとか、そういった部分に強く関わる事なのだろう。
「本来ならスダチさんに指摘された時点で……いいえ、もっと前に捨てるべきだったのです。でも……」
壊れた髪飾りを、両手でぎゅっと握り締めるアデリーネ。せっかく止まった涙が、見る見るうちに、またも零れ始める。
「わっ……私には宝物でっ……す、捨てられなくてっ……! ヤマト様、居なくなっちゃうし……私だって、お屋敷出てから慣れない事ばっかりで、心細かったのにっ……!」
「アデリーネ殿……あいわかった、涙を拭かれよ」
泣きじゃくるアデリーネを座らせ、背中をさすって宥める太郎丸。ここの所いろいろあって、すっかり他に気を取られていたが……確かにアデリーネは、さぞ心細い思いをした事だろう。せめて自分が気付いてやれれば良かったのだが、今となってはもう遅い。
「大丈夫だ、アデリーネ殿。お主の宝物を、誰も捨てろなどとは言わぬ。某が言わせぬ。安心召されよ」
そんな薄っぺらい言葉しか掛けられない自分を情けなく思う太郎丸だったが、元々、あまり口が上手な方では無い。あとは行動で示すしか無いだろう。ヤマトが戻るまでの間――それが何時までなのか不明だが――自分に出来る精一杯の形で、この強く儚い娘を庇い立ててみよう。
「さあ、元気を出されよ。先にも言うたが、煮物が冷えてしまう。スダチ殿では無いが、少しでも食べて気力を…………」
「ぐすっ、ありがとうございます……?」
涙を拭って煮物の入ったお椀を受け取るアデリーネ。だが不意に押し黙った太郎丸に、只ならぬ気配を感じて身を硬くする。
この時、太郎丸には聞こえていた。降り頻る雨を遮り動く、何者かの足音が。
「早急にスダチ殿を連れ、ノエル殿の部屋へ隠れるのだアデリーネ殿。何かが、ここへ近付いている」
「は、はいっ!」
泣いている場合ではないと涙を拭い、慌てて家の奥へと引っ込むアデリーネ。彼女を見送り、太郎丸は腰の剣に手を伸ばす。
近付いて来る不審者の気配。スダチの話では、普段この家に来る物好きなど殆ど居ないとの事。そんな場所へ雨の中、わざわざやって来る理由……となれば、これはもしや追っ手に我らの居所がバレたか?
柄に添えた手に、汗が滲む。これまでに感じた事の無い、激しい緊張。
今、頼れるのは太郎丸しかいない――そうスダチは言っていた。確かにそのとおりだ。自分が倒れれば、背中に庇う三人の娘にも危害が及ぶ。それぞれが、それぞれの強さを持つ、尊敬できる娘たち……彼女らが傷付く事、それだけは避けたい……絶対に! 何があっても守りたい!
「命に代えても……ッ!」
扉の前で腰を落とし、神経を集中してジッと一瞬のタイミングを待つ。家の外で追っ手が扉に触れようとした瞬間――その時に、一呼吸で斬り捨ててくれる!
待ち構える太郎丸の元へ、何者かが近付いて来た。扉の手前で立ち止まる気配――!
「きえぇぇぇい!!」
怪鳥音と共に、横一文字! 入り口扉もろとも、扉の向こうに立つ何者かの胴を輪切りにして斬り倒す。
手応え有り! だが――。
「これは……!」
太郎丸が斬って捨てた、丸太のように太い胴体。だがそれは、胴では無い……脚だ。八本ある内の、一本。
破れた扉の隙間から垣間見える真っ黒な雨雲。そこに浮かぶのは十六からなる真っ赤に輝く複眼。針のような毛に覆われた、見上げんばかりの巨体。
「……大蜘蛛!!」
家と同じか、それよりも大きな蜘蛛が、赤と黒の毒々しい身体を雨に光らせて鎮座していた。切り落とした脚の先からは、自然には有り得ない真っ黒な体液が流れ落ち、徐々に傷口を塞ぎ再生している。
真紅の眼、真っ黒な体液、異様な再生能力。明らかに悪魔憑きだ。
冒険者の依頼において、ごく普通の、悪魔憑きでは無い大蜘蛛を討伐する際に提示される推奨レベルは7。家を超えるサイズの物となれば10前後のレベルを求められる。悪魔憑きともなれば、そのレベルは一気に跳ね上がり、20か30かといった所だろう。
しかも太郎丸が大蜘蛛の背後に目をやると……更に二体。合計三体の大蜘蛛が、草原の小さな家目指してゆっくり歩を進めている。
「逃げる際、糸でも付けられていたか?……ぬかったわ」
剣を鞘に戻し、雨の中へと進み出る太郎丸。彼のレベルは……17。
「相手にとって不足なし」
身の丈を遥かに超える巨体に三方を囲まれ、背には守るべき家を背負い、漆黒の人狼は腰を落して構える。そして――。
「太郎丸、いざ……参る!!」
雨が、爆ぜた。