第四十三話:反撃の狼煙(一)
分厚い雲に覆われた黒い空。まだ夕刻だというのに辺りは夜のように暗く、時折、雷鳴が轟き山々に木霊して幾重にも鳴り響く。
滝のように降り続く雨の中、太郎丸は身を低く沈ませ、背の高い草原の中を駆けていた。背中には幾許かの食料と、何本かのポーションが入ったズタ袋。全て近隣の村々から少しずつ分けてもらったものだ。
やがて見えて来た丘の上に建つ一軒家を前に、足音を雨音に紛れ込ませ、扉の前まで移動する。そして息を殺して慎重に、少し痛んだ木の扉を、ゆっくり、ゆっくりと開いて行く。
「いま戻っ……うぉっ!?」
戻った、と言い終わるよりも早く、小気味良い風切り音と共に鉄製のフライパンが鼻先を通り過ぎた。
「あ、太郎丸さんだった。お帰りなさい」
「……いま戻った、スダチ殿」
身を反らしてフライパンを避けた太郎丸の目に映りこんだのは、思い切りフライパンを振り切った体勢でこちらを見やる、ちいさな娘の姿。ヤマトの妹、スダチだった。
着古したエプロンドレスに肩までの茶色い髪。小柄ではあるが快活な印象は、兄と血の繋がりを感じさせる。
「その、スダチ殿? もうそろそろ、出会い頭にフライパンを振り回すのは……」
恐る恐るといった調子で、やんわりとスダチを諌める太郎丸。いつフライパンが翻るかと緊張しているようだ。
滅多に人が訪れる事の無い田舎の一軒家。幼い身で一人暮らしのスダチは、自衛策として少しでも怪しいと感じた足音に対しては戸口でフライパンを見舞う事にしていた。太郎丸はしばらく前に初見で一発。つい最近もう一発を鼻先に食らい、フライパンが多少のトラウマとなりつつある。
「でも太郎丸さん、もう避けられるから平気ですよね?」
「う、うむ。まぁ確かにそうなのだが……なるべくなら……」
悪びれずに言われてしまうと、他人の家の習慣という事もあって、少々追求し辛い。
「太郎丸様、お帰りになられたのですね。雨の中ご苦労様です……どうでしたか、辺りの様子は?」
二人が玄関先で話していると、明り代わりに火の付いた薪を掲げて、家の奥からアデリーネがやってきた。青味がかった銀髪をアップにし、ハーフパンツに厚手のチユニックだけを纏ったラフなスタイルだ。
「うむ、落ち着いた物だ。怪しい者を見たという話は無かった……安心は出来ぬがな」
スダチから受け取った手拭いで濡れた毛並みを整えて、偵察の結果を伝える太郎丸。
悪魔に支配された村からノエルを助け出した太郎丸とアデリーネ。彼らは今、ヤマトの生家に身を寄せていた。
村から逃げ出し追っ手を撒いた後、傷付いたノエルをゆっくり休ませる場所を探した二人。だが、ほろ酔い亭を始めとしたサークスの知る場所に逃げ込んではすぐに見つかってしまう。そう考えた二人が逃げ込んだ場所、それがヤマトの生家だった。
一人静かに暮らすスダチには申し訳なかったが、相手は伝説の武具を見つけた英雄として各所で幅を利かせる白銀のサークス。他に頼るアテなど無い。
「ところでノエル殿は?」
「今は随分落ち着かれ、ご自分の部屋で横になられています」
「食事は?」
太郎丸の問いに、アデリーネは哀しげに首を横に振る。
「手を付けられていません。どうも焼けた油のような物を飲まされたようで、口から喉にかけてが……」
「あいわかった、アデリーネ殿」
全て聞かずともノエルの痛ましい有様は、間近で見た太郎丸にも良くわかっていた。普通の人間ならば数回死んでお釣りが来る程の責めを、若い天使はその身に受けているのだ。話を聞くだけでも辛い。
「天使は少々食べずとも死にはしないと聞くが……」
「はい……」
心配だ、との言葉を飲み込み、俯く二人。外の天気と同じく、家の中が重苦しい空気に包まれる。
そんな中、不意に上がる緊張感の無い声。
「ねえ、それはそうと二人とも……そろそろゴハン食べますか?」
顔を上げると、湯気の立つ小さな鍋を抱えたスダチが、食卓を準備しながら小首を傾げていた。
「……スダチ殿」
子供ゆえの無邪気さか、事の重大さに気付いていないのか。スダチの心情を量りかねた太郎丸が軽いため息と共に口を開きかけると、彼の胸元にお椀が一つ、ぐいっと押し付けられる。
「食べておかないと動けないですよ太郎丸さん。今、私たちの頼りはあなただけなんですから、無理してでも頑張って食べて下さい」
「う……うむ」
今は遠慮する、と食事を断ろうとした太郎丸は、出鼻を挫かれてしまう。
「はい、アデリーネさんも。家に来てから、あまり食べてないんですから。それともエルフは食べなくても平気なんですか?」
「あ……いいえ。い、頂きます……」
不承不承といった様子でお椀を受け取った二人に背を向け、鍋を手にスタスタとノエルの部屋へと歩いて行くスダチ。これはまずい、と気付いたアデリーネが逸早く声を上げる。
「待って下さい、スダチさん! 今、ノエル様は……その、そっとして置いてあげた方が……」
その声にくるりと振り返るスダチ。彼女はじっとアデリーネの顔を見つめた後、頭の辺りへと視線を移した。
「わ、私の顔に何か……?」
「アデリーネさん、その髪留め……お兄ちゃんに貰ったの?」
スダチの指摘に、全身を強張らせるアデリーネ。ピンと背筋が伸び、背中と掌に一瞬で嫌な汗が滲み出す。
銀のロングヘアを留めている大事な髪飾り……小さな花びらがあしらわれた、壊れた髪飾りは確かに一度はヤマトの手にあった物だ。
「あ、ど……どうして……」
「ううん、なんとなく。なんか、お兄ちゃんが好きそうなデザインだったから」
事も無く言ってのけるスダチ。取り残された形の太郎丸は「そうなのか、アデリーネ殿?」と聞くので精一杯だ。
「あの、いえ、その……これは……」
言葉に迷うアデリーネ。身内とはいえ、まさかこうも容易く看破されるとは思わなかった。
かといって『直接ヤマトから貰ったわけではなく、彼がノエル用に買ったが壊れて捨てた物を拾い、後生大事に付けてます』などと言えるはずもない。同時に、当のノエルが寝込んでいるというのに、件の髪留めを恥かしげも無く付けている自分が酷く卑しい女であるとも感じられた。
「この髪留めは……じ、自分で……」
「ふぅん、そうなんだ」
完全に見透かされていると感じるアデリーネであったが、今の彼女にはそれ以上に気の利いた言葉が思い浮かばない。何を言った所で、スダチの前では説得力など皆無だろう。兄に貰った物を嬉しそうに着けながら、ノエルを気遣うフリ? 片腹痛い!……と、そんな声が聞こえて来そうだ。
返す言葉も無く、アデリーネはそっと髪留めを外し、手の中に隠した。本来なら捨てるか返すかすべきなのだろうが……泥棒猫のような真似をして手に入れたとはいえ、彼女にとってはこの上なく大切な物なのだ。もし取り上げられでもしたら……きっと泣いてしまう。
しゅんとして、すっかり小さくなったアデリーネ。そんな彼女にスダチは一瞥をくれると、くるりと踵を返す。そして止める間もなく、ノエルの部屋の扉を叩いた。
ピンク色のペンキを使い、子供っぽい字で『ノエルのへや』と書かれた扉。その向こう側にノエルは居るはずだ。しかし、ノックの後しばらく待ってみても返事は無い。
「開けるよ、ノエルお姉ちゃん」
元々、鍵の無い扉だ。スダチは半ば強引に、扉を押し開ける。
「お姉ちゃん……?」
何も無い部屋――窓には戸板が打ち付けられ、テーブルも、椅子も無い。備え付けの棚も空っぽで、床には包帯の切れ端とポーションの空瓶が何本か転がっているだけ。何も無い、というよりも、その場を満たすべき物が失われているのだとスダチは感じた。
その部屋の端に、押し付けられるようにして設けられたベッド。そこへ敷かれた血に汚れたシーツの上で半身を起こし、彼女は……ノエルは佇んでいた。
「スダ、チ……ちゃん」
掠れた声。かつて『澄んだ鈴の如き美声』と称えられた声は、もう存在しない。悪魔によって喉は焼かれ、完全に潰されていた。そしてそれは、顔や身体も同じだ。滅茶苦茶にされた顔と翼には幾重にも包帯が巻かれ、折られた両手、両脚には添え木が為されている。何も知らずに彼女を一目見て、天使だと言える者は皆無であろう。
「ごはん、食べないとダメだよ。良くならないよ」
棚の端に鍋を下ろし、お椀へと食事を盛るスダチ。湯気の上がるそれは、柔らかな芋の煮物だ。
「前に良くお母さんがつくってたの、覚えてるでしょ? お姉ちゃんも好きなやつだよ」
喋るスダチの方へと首を廻らせるノエル。包帯によって隠された左目は潰されたまま再生しておらず、視界が狭い。その為、瞼の失われた右目のみで動きを追おうと、自然に動きが大きくなる。
「私……いいよ。み、みんなで食べて……食べなくても、平気だから」
口元の包帯を避けて、小さくノエルが言った。だがそれを無視してスダチはお椀いっぱいに煮物を盛ると、スプーンを手にノエルのベッドに腰を下ろす。
「ダメだよ、お姉ちゃん。食べないと」
煮物をスプーンで掬い上げ、顔の前へと差し出すスダチ。だがノエルはゆっくり首を横に振って、それを拒んだ。
「た……べたいけど、喉痛くて……飲み込め、ない……の」
「ううん、それでもダメ。痛いのはわかるけど、我慢して食べて! そうしないと、治んない!」
強引に食事を進めるスダチに根負けしたか、それとも呆れたか。ノエルは少しだけ顔を引いて姿勢を変え、背中をスダチへと向ける。
「これ……見て、スダチ……ちゃん」
そう言ってノエルは、怪訝そうな顔をするスダチの前で、翼に巻かれた包帯を解いて行く。ベリベリと音を立て、乾いた血と共に包帯に張り付く赤茶色に染まった羽毛が剥がされ、露わとなる翼……だったモノ。
「スダチちゃん……ゴメン、ね。気持ち、悪い……でしょ?」
包帯の下から現れたノエルの翼は、村で傷付けられた時と同じ……ほぼ禿山状態で地肌がむき出しのままだった。根元から折れ曲がって垂れ下がり、腫れ上がった上に内出血によってどす黒く染まっている。
「私が、ここに戻って……一週間、くらい? 村から逃げた日からだと……もっと、経ってるよね」
掠れた声で、ノエルは一つ一つの事実を確認して行く。
自分が助け出されてから、結構な日数が経過している事。その間、ほぼ毎日のようにポーションによる治療が行われていた事など、スダチが判るように、言葉を選んで慎重にだ。
「これだけやったら、普通……もう少し、良くなる。でも、私の翼……全然、治ってない。顔なんか……もっと、酷い。それに……」
ゆっくりと添木で固定された腕を持ち上げて、部屋の外から漏れてくる光へとかざすノエル――光を操ろうとしているのだ。しかし床に伸びる光は微動だにせず、音も無く、淡く輝くばかり。
「天使の、力も……もう、使えない」
力無く腕を下ろしたノエル。能力の消失を示すかの如く、ずっと彼女の頭上で輝いていた天使の光輪も今は消え失せている。
そこまでやって見せて、彼女はスダチの目をじっと見つめた。
わかったでしょ? もうダメなの、治らないの。だから、そっとしておいて――。傷付いた天使の目は、そう語っている。
「で……でも、だからって諦めちゃうの!? まだ早いよ! がんばろ、ノエルお姉ちゃん! 私も応援するから!」
身を寄せて叫ぶスダチ。しかし彼女の言葉は、ノエルに届かない。
「もう……良いよ。別に、治りたいとも、思わないし……治っても、やりたい事、無いし」
「いいの!? ホントにそれでいいの、お姉ちゃん! モタモタしてたら、アデリーネさんにお兄ちゃん取られちゃうよ!?」
スダチの言葉に「あ、そうか」と気付くノエル。スダチは知らないのだ。ヤマトが、自分の前から去った事を。無神経な自分に愛想を尽かし、彼が行ってしまった事を。
「スダチ、ちゃん。ヤマトは……」
「お姉ちゃん、おかしいと思わないの!? いっつもノエルノエル言ってウロウロしてるお兄ちゃんが、こんな時に飛んでこないなんて! あのお兄ちゃんがだよ!?」
またも、スダチに気付かされるノエル。
ヤマトが居ないのは、彼自身の意思による物だとばかり思っていた。だが自分がそうであるように、ヤマトだってもう一度会いたいと願ってくれているのなら……。
「きっと何かあったんだよ! だから来れないんだよ! そうじゃなきゃ、とっくに来てる! それでロクに話も聞かずに、ノエルお姉ちゃんの仕返しだって言って飛び出して行ってるよ!!」
「……スダチちゃんの、言うとおり……かも、ね」
もしそうであったなら、どれだけ嬉しいだろう? 昔、子供だった頃。近くの村でイジメっ子に、天使のくせに飛べないとからかわれた時のように「ノエル泣かすヤツは俺が許さねぇぞ!」と大見得を切って助けてくれたなら、どれほど……。
「ノエルお姉ちゃん。お兄ちゃんとケンカか何かしてるんでしょ? 前に来た時、様子がおかしかったからわかったよ」
当たらずとも遠からず。若干場違いな思いではあったが、スダチはいつも鋭い所を突くと感心するノエル。
「でも……きっとお兄ちゃん、もう怒ってないよ。ケンカは弱っちいし、ちょっと怒られただけですぐにヘコんじゃうくらいガラスのハートな人だけど……凄く単純だし、それに……」
ぎゅっとシーツを握り、スダチが叫ぶ。
「ウチのお兄ちゃん、意外と強いもん!!」
そしてスダチは、再度お椀から芋の煮物をスプーンで掬い上げる。
「お兄ちゃんに何があったとか全然わかんないけど、きっとお姉ちゃんを心配して探してる。だから、会った時の為にお姉ちゃんは少しでも傷を治しとかないと! だから食べて、少しでも良いから!」
グイグイと強引なスダチ。そして彼女は続ける。
「それともノエルお姉ちゃん、怪我でお兄ちゃんの気を引く作戦? だとしたら、それちょっとズルいよ? お姉ちゃん天使なんだから、ズルはダメだよ!」
全く……どちらがズルいのやら。スダチに気付かれないよう、ノエルはそっと溜息を吐いた。それは諦めの溜息……自暴自棄でいる事を、諦めた溜息だ。
馬鹿で身勝手な姉を説得する為、自分の中にある、ありとあらゆる引き出しをこじ開けて、必死に声を上げる可愛い妹。傷が治らないとしても、彼女の為に……私だって、ほんの少しだけ、まだ頑張れるんじゃないだろうか?
いや、ここで頑張れなくっちゃ、天使どころか、姉失格だ!
「そう……だね。少しでも、良くなっておかないと……ね」
「……! うんっ!!」
笑顔を見せるスダチ。久々に見た他人の笑顔に、すっかり忘れていた暖かな物が心に灯った気がする。これから先の事を思うと気は重いが……。
「はい、お姉ちゃん。みんな結構美味しいって褒めてくれたんだよ!」
うん、なんとか頑張れる気がする。
傷付いた天使が決意も新たに一歩を踏み出した時……。
「……あれっ?」
激しい雨音が、微かに変化した。