第四十二話:コーヒーブレイク(四)
翌朝、まだ日が昇りきらない程の早い時間。ヤマトは旅支度を整え、村長宅へと出向いた。
彼を出迎えた村長は、なんとも深みのある表情でゆっくりを息を吐き、彼を家の中へと迎え入れた。そして居間に彼を待たせて姿を消し、しばらくして、しわくちゃの手に小さなザックを持って戻る。
「話は昨日の内に、スミから聞いております……行かれるおつもりだとか。どちらにせよ、来るだろうとは思っていましたがね」
村長がザックを机に置くと、革製のそれはガシャリと硬い音を立てて形を変えた。
「どうぞ、お持ち下さいヤマトさん。きっと貴方には必要な物でしょう」
ヤマトが訝しく思いながらも中を開けてみると、そこには小さなガラス瓶に入った色とりどりの液体がギッシリ詰まっていた。それらは揺れる度、仄かに魔法の光を放って輝いている。
「こいつはポーションに……ハイポーション? 毒消しに麻痺消しまで……それに、こいつは……エリクサじゃねぇのか!?」
驚きを隠せないヤマト。だが無理も無い。
ポーションを濃縮し、効果を高めたハイポーション。その価格はポーションの十数倍にも及ぶ。そして更に上位となるエリクサは、ありとあらゆる傷を癒し死者をも蘇らせると噂される人類史上最高かつ究極の回復薬であり、価格はポーションの約千倍である。
貧乏冒険者のヤマトにとっては、ハイポーションでさえ高嶺の花。エリクサに至っては道具屋に鍵付きで陳列された物を、ガラス越しに眺める事しか出来ない幻も同然の道具である。使い捨てだなんて、とても信じられない超高級品なのだ。
「ちょ……ちょっと待ってくれ村長さん! 気持ちは嬉しいけど、こんなの受け取れねぇよ。俺もうアンタたちに滅茶苦茶借り作ってんのに、まだこれ以上世話になんて……」
「いいえ、受け取って下さい。これは私からではなく、スミがコツコツと溜め込んでいた物なのです」
「……スミが?」
慌てるヤマトに村長は温和な笑顔を向け、だが有無を言わさぬ強い調子で言った。
「ヤマトさん、最近スミの標準語が上手くなったとは思いませんか?」
「え……?」
確かに、思い返してみれば以前のスミが口にしていた標準語は非常に拙く、所々聞き取り辛かった。だが今はどうだ? 相変わらず口は悪いが、意思の疎通に何の不自由も無い程度には向上している。
「どうしてだと思います?」
尋ねる村長に、ヤマトは明確な答えを返せない。
「それにね、スミはまだ幼い身で……コピ・ルアクの行商へ、いつも付いて行くのです。小さな背中に重い豆を背負って遠い町まで、脚を棒にして……何故だと思います?」
「い、いや……さっぱりわかんねぇ」
首を捻りながら、冷や汗をかくヤマト。村長から、やけに強い重圧を感じる。
「答えは簡単、全て同じです。スミは……貴方に会いたかったのですよ、ヤマトさん」
ヤマトはガツンと強く頭を殴られた気がした。受けた衝撃に、膝から崩れそうになる。
「街へ行けば貴方が居るかもしれないと考えたのでしょう。言葉が上手になれば、もっと貴方と話せると思ったのでしょう。血塗れで、顔も潰れていた貴方を、一目でご本人だと見分けたのは誰だと思っているのです? 他でもない、スミなのですよ」
全身から血の気が引く。身体が強張って、指の一つさえも動かす事が出来ない。
「スミの気持ちを知った上で、それでも貴方はノエル様の話を聞き……この村を出ると仰るのですか?」
年老いた村長の口から発せられるゆるやかな言葉が、異様に重い。圧し掛かる重量に、心も身体も押し潰されてしまいそうだ。
スミの気持ちは知っている。その上で昨夜、決めたのだ。だがこうして改めて言葉にされてしまうと、気持ちが揺らぎ、心が折れそうになる。
「わ……悪い、わかってる……でも俺……」
村長へ返す言葉を捜すヤマト。だが何も思い浮かばない。
当たり前だ。これからヤマトがしようとしている事は、単なる彼の我侭なのだから。どう取り繕った所で、スミを捨てて他の女の所へ行くという行為は変わらない。
だが何か言わなくてはならないだろう。良い訳だろうと見苦しかろうと、我を通すのだから、そのくらいはして見せなくては……。と、口を開きかけたヤマトの足下を、しなやかにすり抜けて、猫がやってきた。すっかりヤマトに懐いた、スミの飼っている猫だ。
「そうそう。スミが飼っているその猫、名前をご存知ですか、ヤマトさん」
いいや、知らない……答えようとしたヤマトより早く、スミの猫が「にゃあん」と答えた。まるで返事をするかのように。
「……?」
「ヤマト、ですよヤマトさん。その猫の名前は、ヤマトというのです」
村長が目を細めて言うと、ヤマトと名付けられたスミの猫が机に飛び乗って、伸びをした。
「あ……」
ヤマトは……人間の方のヤマトは、もう泣きそうだった。ずっと自分の事を想ってくれていたスミの気持ちが胸に刺さる。
かつて村を訪れた際に、偶然助ける形となった山猫。スミは自分に懐いたその猫にヤマトと名前を付け可愛がり、寂しさを紛らわせていたのだろう。
覚悟を決めていた。誹りを受けるのには慣れている。だから嫌われたって構わないと思った。だが、自分の事を良く想ってくれている人を傷付ける事の、なんと辛い事か。旅立ちの一歩を踏み出す前から、彼の心はボコボコに叩かれて傷だらけだ。
「その、俺……」
情けない顔で、言葉を探し続けるヤマト。そんな彼を、不思議そうな顔で見上げる猫のヤマト。そして村長は……。
「ふふっ……」
穏やかな表情で、笑っていた。意味がわからずキョトンとするヤマトに、村長はゆっくりと語り始める。
「……申し訳ございません、ヤマトさん。年甲斐も無く、意地の悪い真似をしてしまいました」
ひょいと猫を抱き上げ、村長は続ける。
「恩人に対して取るべき態度では無いと知れてはいたのですが……スミを……泣きじゃくる可愛い孫の顔を見ていると、どうしても腹が立ちましてな。貴方が心根の優しい男で、孫の事を引き合いに出せば傷付くだろうと知った上で、あのような真似を……重ね重ね、申し訳ない……この通りです」
しわくちゃの顔を更にしわくちゃにして、深々と頭を下げる村長。その姿に、ヤマトは言葉が出ない。謝りたいのはこっちの方だというのに、先に謝られてしまった。
「この回復薬はお持ち下さい。残して行かれては、私がスミに怒られます。そして、これも……」
傍らの道具入れから取り出された物。それは見覚えのある革鎧と、短剣だった。
「あれ……これ、俺の……鎧と剣? な、なんで……?」
記憶が確かなら、革鎧は包帯男によって引き裂かれ、剣は噛み砕かれたはずだ。しかし目の前にある二つの装備は両方とも綺麗に修復された上、丁寧に油が塗られて整備も万全のようだ。
「スミが拾っておいた物を、我々が直したのです。なに、ここは元々貧乏な村――物を直す事に関しては、本職にも遅れを取ったりはしませんよ」
捨てれば良いものを、わざわざ取っておいてくれたのだ。ボロボロになった鎧や剣を直すのは、口で言うほど易しい事ではない。だが村長は、それを微塵も感じさせない口ぶりだ。
「さて、ヤマトさん。引き止めておいてなんですが、あまり旅立ちが遅くなっては見送りの目が疎ましいでしょう。昨日からお聞きになりたがっていたノエル様の噂……私の知る限り、お伝えします。まずは……」
「ちょっと待った! 待ってくれ、村長さん!」
話し始めた村長を、ヤマトの声が遮る。
「言える内に、これだけは言わせてくれ」
机に両手を付き、深く頭を下げるヤマト。そして顔を上げ、はっきりとした声で言う。
「俺、この恩返しは必ずするよ。アンタたちが何て言ったとしても、この村のみんなに頭を下げに戻る……絶対に!」
「……琥珀色の村、です」
ヤマトの言葉に、村長がそっと付け加えた。
「この村の名前ですよ。村に名前を付けようと、皆で話し合って決めたのです」
「……ああ、わかった! 琥珀色の村だな。絶対に忘れない」
そして一刻程の後――。朝靄が掛かる村の入り口に立つ、ヤマトの姿があった。
見送りは居ない。数匹の猫だけが、彼の背中を見つめている。
朝靄が消えるより早く、皆が起きる前に行けと、村長は言った。
だがヤマトは知っている。今はもう、普段ならば勤勉な村人たちは起き出して、畑仕事に精を出している時間帯なのだ。ヤマトに少しでも気を使わせないようにと、誰もが家の中で息を潜めてくれている。
「あんがと、みんな……行って来る」
目元を拭い、ヤマトは歩き出す。
会いたい人、ただ一人を目指して。