第三十九話:コーヒー・ブレイク(一)
夢を見ていた――とても懐かしい夢だ。
木漏れ日の中、大樹に寄りかかるようにして天使の少女が泣いている。背に生える純白の翼には痛々しい傷――そう、これはあの時の――彼女と初めて会った時の夢だ。
夢とはわかっていたものの、少女のあまりに痛々しい様に見ていられず、手を差し伸べようか――そう思った時だ。どこからか現れた小汚い少年が慣れない様子で天使に近付き、あれこれと声を掛けて、慰め始めた。だがあまりにも乱暴な言葉遣いと荒っぽい態度に、夢の主は――ヤマトは思わず苦笑してしまう。
『もっと上手い言い方があるだろうが、ったく。ちったぁ女心ってモンを考えたらどうなんだ?』
夢の中の少年へ――過去の自分自身へ、誰かさんを棚に上げてダメ出しをするヤマト。その声が届いたのか否か、やがて少年は天使の少女へと手を差し伸べ、少女も――ノエルも涙を拭き、ヤマトの手を取って立ち上がる。
もしかすると、二人が一番幸せだったかもしれない時。何もかもが溢れていた、満たされた時代。
『あの頃は良かった……なんて、な』
もう二度と取り戻せない時間。夢の中でしか見る事は叶わない。
やがて時が経ち、翼の癒えた天使の少女は、少年の手を離し大きく羽ばたいて舞い上がる。強く、頼りになる男と共に。空を駆ける二人の速度は速く、高度は高く、とても自分の足ではついて行けない。どんなに全力で走っても、追い縋るどころかぐんぐん離され、終いには見えなくなってしまう。
『……これが地虫と、鳥の差か。どうしようも無ねぇな』
息を切らせて立ち止まり、痛む胸を押さえてヤマトは呟く。
少女が、少年に歩調を合わせてくれる時期は終わった。これからは互いに、相応しい場所で生きる方が良い。暗く湿った地面と、明るく広大な大空で――と、その時だ。
『……!? なんだ?』
突如、晴れ渡っていた青空に暗雲が広がり、陽光が遮られた。夜のように暗くなった世界に滝の如く降り出した雨は激しく地面を叩き、雲の間には雷光が走り雷鳴が轟く。
突然の出来事に呆然と空を見上げるヤマト。その目に、何かが映った。雲の切れ間から、真っ直ぐに落ちて行く白い物。あれは――。
『ノエル!』
くるくると回転して羽を撒き散らし、遥か遠くをゆっくり堕ちて行く天使の少女。
今すぐ助けに行かないと! 受け止めてやらなくちゃ!
ぬかるんだ地面を蹴って走り出すヤマト。しかし何時の間に負ったのか、全身に受けた傷が彼の走りを遅らせる。走るべき足は折れ、受け止めるべき両腕も動かない。だがヤマトは地面を這って――それこそ地虫のように這いずって、落下地点へと急ぐ。
『おいおい、何やってんだよ。馬鹿じゃねぇのか? 行っても無駄だぜ? あの下じゃサークスの野郎が準備万端で構えてんだ』
『ふざけんな! 受け損なうかもしれねぇだろ!? 行かなくてどうすんだ!』
『這って行ったんじゃ、どうせ間に合わねぇって。楽しそうにしてる連中を、間近で見る羽目になるだけさ』
『だとしても、何もしねぇよりマシだ! 黙って見てるだけなんざ、糞食らえだ!!』
弱い自分を怒鳴りつけ、這いずり続けるヤマト。だがその間にもノエルは高度を下げて地面に迫る。堕ちる天使は遥か先。這って到達するには遠すぎる距離だ。どんなに手を伸ばしても届く事は無く、落下地点には誰も居ない。そして……。
『うわあぁぁぁぁッ!!』
叫び、薄いシーツを跳ね上げて、ヤマトは飛び起きた。瞬間、押し寄せてくる現実感――。
夢から覚めたのだ。
「こ、ここ……どこ、だ?」
見覚えの無い室内。小ぢんまりとした部屋に、ぽつんと置かれたベッド。そこでヤマトは眠っていたようだ。
清潔な白いシーツが敷かれたベッドの脇には水差しが置かれており、床に落ちている氷嚢はきっと、今し方まで自分の額に乗っていたのだろう。少しだけ開いた窓からは涼しい風と陽光が差し込み、微かに小鳥の声も聞こえる。どこか遠くからは明るい人の話し声と、妙に懐かしさを感じさせる香ばしいコーヒーの香り。
一体、どうして自分はこんな所に寝ているのか? 何がどうなったのか? 確か包帯男にやられて……?
ボンヤリとした頭でそれらを考える内、部屋の外から小さな足音が近付いて来た。やがてドアを乱暴に足で押し開け、姿を現した人物。それは……。
「んぉっ? おぉっ! やっと目が覚めたか、糞チビぃ!」
元気良く、明るい声が室内に広がる。水の入った桶と手拭いを抱えて満面の笑みで登場した幼い少女……かつてコーヒー収穫の依頼を受けて訪れた村で出会った、スミという娘だった。
半年……いや、一年ぶりくらいだろうか? 久しぶりにみた彼女は相変わらず田舎のオテンバ娘といった風情で、健康的な小麦色の肌を簡素な貫頭衣で包み、深い赤毛の髪も以前と変わらず頭の天辺で雑に結んでいるだけ。もう少し格好に気を配れば光る物がある容姿ではあるのだが、齢十程度の彼女に、それはまだ少し早い話なのかもしれない。
「スミ!? おま、なんっ……ゲホ、ゲホッ……!」
「おいおい無理すんな糞チビ。お前、喉も潰れてんだから。大声出さずに、横になっとけ」
スミはそう言って手拭いを絞り、寝かせたヤマトの額に置いた。ヒンヤリと心地良い感覚が、頭の中にまで染み込んで行く。
「糞チビ。お前、自分がどうしてココで寝てるか、わかるか? ま、わかんねぇよなアレじゃ……」
何かを思い出すように、視線を落すスミ。歳の割には、妙に大人びた仕草だ。
「ココはアタシの村。お前が運び込まれて、もうずっと寝たままで二週間……三週間くらい? そんくらい経ってるんだぞ? 途中で何回か飛び起きてたけど……その顔じゃ覚えて無いな?」
微かに頷くヤマト。この場所がスミの村だという事さえ初耳だ。それに加えて、自分が謎の包帯男に襲われてから、既に一ヶ月近くが経過しているという事実にも驚いた。
「よし、暇潰しにアタシが教えてやるよ。糞チビがどうして、この村に居るのか」
窓枠にひょいと腰掛け、話し始めるスミ。
語り自体があまり上手で無く、しかも時間軸が前後してわかり辛い彼女の話をまとめると、こうだ。
ヤマトたちが幻のコーヒー『コピ・ルアク』を手に入れ、村を去った後からスミの話は始まる。
村人たちはヤマトが発見した、ネコの糞から豆を集める方法を使って、コピ・ルアク生産販売に着手した。幸いにも競合他者が居なかった事や、富豪ノーウェイが悪魔憑きとなった事件が丁度良くコピ・ルアクの宣伝となった事もあり、商売は非常に順調。正に順風満帆となった。
そんなある日、スミと村人がコピ・ルアクを売り歩いていた時の事だ。町と町とを繋ぐ街道の中程、『旅人たちの家』に差し掛かると、森の茂みから聞き覚えのある、悲痛な声が聞こえて来た。何事かと思い、こっそりと覗きに行くスミたち。するとそこには全身傷だらけで倒れる血塗れのヤマトと、包帯を体中に巻いた怪しい獣人が立っていたのだ。
「そん時に見た獣人……多分、ありゃあトラだな! ブチのめしてやろうと思ったんだけど、そのトラ野郎はアタシたちに恐れをなして、お前を置いて、あっという間に山の中に逃げちゃった」
ほっと息を吐くヤマト。下手をすれば、スミたちも自分と同じ目に遭っていた所だ。複数人で居た事と、街道に近く、一目に尽き易かった事が幸いしたのだろう。
「で、フルボッコで死に掛けの糞チビを村まで運んで、チヤホヤと養ってやってたってワケだ。感謝しろよ?」
確かに、これは感謝しないわけにはいかないだろう。もしスミたちが通り掛からなければ……あるいは傷付いたヤマトを見捨てていれば、きっと今頃命は無かったのだから。
声が出せないヤマトはスミと目を合わせ、軽く頭を下げて感謝の意を表した。そんな彼からスミは、何故か恥かしげに顔を背ける。
「ヤメロよ、気持ち悪い! イイんだよ、そんなの。ありがとうなのは、こっちなんだから」
首を傾げるヤマト。だがその疑問は、すぐに氷解する。
「お前のお陰で、村は潤ったし……コイツも助かった」
スミが目をやると、窓の隙間からするりと入り込む小さな生き物。しなやかな身体とふわふわの毛並みが美しい、それは茶色い一匹の猫だった。その顔付きにはどこか見覚えがあり、ヤマトが記憶を紐解いて行くと……コピ・ルアク発見のヒントをもたらした子猫の存在が思い浮かぶ。
「そ。あん時の山猫だよ。アタシが飼ってるの……っていっても、半分野良だけど。名前は……ま、まぁイイか」
何故か口澱むスミを他所に、ヤマトはその猫に視線を寄せる。
そっか、元気でいたんだな――。
ヤマトの気持ちを察したのか軽やかにベッドへと飛び乗り、頬に頭を擦り付けるスミの猫。何が気持ち良いのか、ごろごろと喉を鳴らして目を細めている。
「村を助けてくれた冒険者っつって、みんなお前らにゃ感謝してんだ。そんなワケだから遠慮せずに、ゆっくりして行けよ糞チビ! アタシはお前が起きたって知らせて来る!」
ひらりと窓枠から飛び降りて、とたとた軽い足音と共に走り去るスミ。その背中を見送り終えると、途端にヤマトへ睡魔が押し寄せて来た。
(村を救ってくれた冒険者、か……)
なんだか、まだ良くわからない事も多いが、今はとにかく眠い。何もかも忘れて、とりあえず眠ろう……どうせもう、何の目的も無いのだから。
目を閉じ、猫と一緒になって寝息を立て始めたヤマト。
彼はまだ、何も知らない。遠い空の下で起っている、辛い現実を。