第三話:湖の魔物
多少ですが残酷な描写がございます。苦手な方はご注意下さい。
街を離れ、街道を行くこと二日と半日あまり。そこから道を逸れ、山林へと分け入る。枝葉を掻き分けて進めば、人の手が入った雑木林は早々に終りを告げ、そこから先は森々たる緑色の領域だ。
「もうすぐ目的地ね。そこの丘を越えたら見えるんじゃないかな?」
正午過ぎ、草いきれが蒸し暑い森の中。少女は、背中の白い翼を優雅に羽ばたかせてそう言った。
天使の少女、ノエル。
彼女が羽ばたくたびに振りまかれる光子は柔らかく温かな光を放ち、不快な湿気を優しく押しやって涼を成す。
「ふぅ……やっとかよ。結構遠かったな」
ノエルの隣に立ち、額の汗を拭うのは黒髪の少年、ヤマト。
背負っているバックパックがやけに大きく見えるのは、彼が小柄な為だけではない。空中からの偵察と道案内を兼ねるノエルの負担を減らす為、二人分の荷物を背負っているからだ。
「こんな事なら、もっと荷物絞ってくりゃ良かったぜ」
「頑張ってヤマト。あと少しだよ」
低空をホバリングして木々の隙間をゆるゆると進みながら、汗だくのヤマトへと声援を送るノエル。翼をこちらに向けて送ってくれる風の心地良さが、少年に歩く気力を呼び起こす。
「よっしゃ、行くかぁ!」
踏み出す足に力を込めて、腐葉土に包まれた地面を蹴る。
一歩一歩、確実に。足下を良く見て、滑りそうな所や崩れそうな所は避け、立ち止まる事なく、けれど無理はせず、無心でひたすら両の脚を出し続ける。
「見えたよ、ヤマト!」
明るいノエルの声に顔を上げてみれば、そこは山の頂。いつの間にか登りきっていたのだ。そして眼下に広がるのは一面の蒼。濃い緑の中にあってその蒼色は鮮やかに映え、眼に眩しい。
それは湖だった。四方を山に囲まれた窪地に水が貯まり、大きな湖になっているのだ。どうやらまだ新しいようで、背の高い木が水の中からにょっきりと頭を出しているのが見える。
大きく息を吐いてヤマトは荷物を降ろし、背伸びをして肩のコリを解す。そして懐から羊皮紙を取り出すと、書かれている内容と深い蒼を湛える湖とを見比べた。
「こいつが今回の依頼対象か……でかいな」
「信じられないよね、この湖が全部スライムだなんて」
スライム。
ゲル状の不定形生物である。性質、生態は様々だが総じて知能は低く、暗くジメジメした所を好む。熱や冷気に弱い事が多い反面、物理的な攻撃に対しては高い耐性を見せる。
そのスライムが大量発生しているから排除して欲しい――これが今回、二人が受けた依頼の内容だ。
「物理攻撃に高い耐性ねぇ。厄介だよなぁ」
「切ったり叩いたりしてもやっつけられないって事だもんね」
「量も量だしな……」
話しながら丘を下り、湖のようなスライムに接近する二人。
最初こそ慎重に接近を試みていたものの、手で触れられる程にまで近付いてみても何の反応も見せないスライムの鈍感さに拍子抜けしてしまう。
「スライムと見せかけて、実は普通の湖なんじゃねぇか?」
ヤマトが手近にあった木の枝を、青色の水面目掛けて投げ入れた。
ちゃぷ、と小さな水音を立てて水面に刺さる木の枝。波紋が立つような事は無く、水しぶきも上がらない。だがしばらく見ていると、枝の周辺に細い触手が何百、何千と立ち上がり、枝を幾重にも絡め取って泉の中へと引きずり込んでゆく。
「うぁっ……何も知らずに水に入ると、飲み込まれて溶かされちゃうのね」
白煙を上げて溶ける枝を見ながら、気持ち悪そうに呟くノエル。周辺に気を配って見れば、一部だけが溶けた木の幹や動物の死骸が点在するのがわかる。
本能の赴くまま、満腹になるまで生物と呼べるもの全てを食べ続ける。それを獲物の豊富な森林で繰り返し、このスライムは湖と勘違いされるようなサイズにまで成長したのだろう。
その摂食行動や成長自体は、自然界の営みとして間違っているとは言えない。しかし肥大化したスライムを警戒してか山林からは獣が消え、地中の栄養が失われた事により、樹木の立ち枯れ被害も出ている。近隣の安全や秩序を考えた場合、このスライムを放っておくわけには行かない。
「おいノエル。俺は火で炙ってみるから、お前は……」
「うん。神聖魔法で攻撃してみるね」
頷き、ノエルは純白の翼から光の粒子を放ち始める。
神聖魔法――先日の洞窟で傷付いたヤマトを癒し、ミノタウロスを葬り去った天使の特殊な能力の事だ。攻撃に限って言えば、神に仇名す存在に対して高い威力を発揮し、逆に神への信仰を欠かさぬ者には効果が薄いという特徴がある。守りや癒しについては、その逆だ。
「例の牛みたく、悪魔に魂売ってりゃ一撃必殺なんだろうけど……難しいだろうな」
荷物から火口箱を取り出し、慣れた手付きで火種を作り始めるヤマト。害のある存在ではあるが、一応スライムも自然界の生き物。ノエルの神聖魔法が効果的であるとは思えない。
「どうだ、ノエル?」
火種を松明に移し、輝く天使を眩しそうに見やる。するとノエルは力無く首を横に振り「見てて」と湖面を指差した。
ヤマトが見ていると、天使の翼より生み出された無数の光球が槍と化し、波一つ無い群青色の湖面に次々と叩き込まれる。先日、ミノタウロスが誇った鋼のような肉体をいとも容易く貫き、焼き尽くした光の槍だ。
しかし今は湖の表面を薄く削るのが精一杯。ある槍は水風船が割れるような音と共に弾けて消え、ある槍は簡単に弾かれて何処かへと飛び去った。そして残ったのは、これまでと大差無く佇む湖の如きスライムだ。
「神よ、罪深き者を許……」
「倒しても無いのにキメ台詞言ってんじゃねぇよバカ。こっち手伝え」
「……なによ、バカじゃないもん」
無粋なちゃちゃ入れに余韻を邪魔され不満気なノエルだったが、すぐヤマトと合流し、作業に加わる。
「んじゃ、出発前の打ち合わせ通りで頼む」
神聖魔法が通じないとなれば、頼りになるのは炎だ。全ての物を平等に焼き尽くす、破壊の権化。進化の過程で人が手に入れた、最も強力な武器とも言われている。
ノエルに手渡される油壷と枯木、枯葉。熱に弱いスライムを炎でもって片っ端から炙る、この手の案件では定番となっている作戦をヤマトは実行しようと言うのだ。
「準備できたよ、ヤマト。指示通りだと思う」
空から枯れ木を運び、油を撒いたノエルがヤマトの元へと戻る。
準備は整った。あとは延焼しないように森から距離を置き、逃げられないよう四方から火を掛ける必要があるのだが……。
「向こう岸、私が点火してこようか?」
「大丈夫だ、まあ見てろよ」
申し出を断り、ヤマトが松明を振りかぶる。彼が見つめる先には、こんもり盛られた細い枯れ木と、そこから湖の周囲を囲むようにして繋がる油まみれの木の葉たち。
「そらよっ!」
掛け声と共に松明が弧を描いて飛び、盛られた枯れ木に命中した。
その瞬間、閃光のように炎が瞬いたかと思うと獣が走るような速度で枯葉に燃え移り、見る間に湖岸全てが炎に包まれる。
もうもうと立ち上る真っ赤な炎、灰色の煙。発生する熱量は凄まじく、離れていても肌がヒリヒリと痛む。
「凄いねヤマト! 大成功だよ!!」
ヤマトの鮮やかな手際に、感嘆の声を漏らすノエル。実際ベテラン冒険者も舌を巻く程に、その仕掛けは見事だった。
揮発する油を枯葉で押し止め、燃えやすい枯れ木を導火線代わりに広範囲に炎を広げる。ヤマトも他の冒険者から仕掛けは聞いていたが、試すのはこれが初めて。だが思いのほか上手く行き、会心の手応えを感じていた。
「我ながら上出来だ! この火力なら日暮れまでにはケリつくだろ」
満足げに頷き、巨大なキャンプファイヤーと化した湖から離れるヤマト。あとは森へ燃え移らないように注意を払いながら、時が流れるのを待つだけだ。
「じゃあ、野営の準備しておくね?」
言って、ノエルが荷解きを始めた。スライムの最後を看取った後、ここで夜を明かしてから山を下ろうという算段だ。
そうしよう、と頷いたヤマトの耳に、バチバチと肉が爆ぜるような音が聞こえて来た。そちらへと目を向けてみれば、湖面の如きスライムが泡立ち、苦しげに波打っている。時折り何本かの触手が現れては炎に焼かれ、縮れて消える。それを繰り返しながら、スライムは徐々にその体積を減らしていた。
その姿に、感傷を覚えるヤマト。生きようと必死にもがく様は、遥か高みの花を得ようと遮二無二手を伸ばす自分と重なって見える。
スライムだって生き物なのだ。無理に殲滅しなくても、ある程度小さくなった所で逃がしてやれば……。
そこまで考えて、ちらりとノエルの様子を窺う。彼女はなんと言うだろう?
命を大切に思うのは良い事だと同意してくれるだろうか? それとも冒険者として『スライム退治』という依頼を確実にこなすべく、最善を尽くそうと言うだろうか?
悩む間に時は過ぎる。日は傾いて山に掛かり、陽光は白色から橙色へ。山林を燃えるような色に染め上げる。
「なあ、ノエル……」
「ん、どうしたの?」
火が小さくなってきた。ここで油を追加投入しなければ、スライムは小さくなりつつも生き延びるだろう。そしてまたいつか巨大に成長して、人々の生活を脅かすのだ。
だが、そんなのはずっと先の話。それならば……。
「このスライムなんだけどよ……」
ヤマトがそこまで言った時だ。
びゅるっ、と液体が波打つ音がした。
何の音かと悩む間も無く、次の瞬間にはノエルの身体が無数の触手によって絡め取られる。
「んぅ~っ!? むぐぐっ!」
スライムだ。炎に焼かれて悶えるスライムが、これまでの緩慢な動きからは考えられない素早さで触手を伸ばしたのだ。
両手両脚、そして翼までも封じられ身動きの取れないノエル。スライムは顔にも張り付き、口を開ける事さえ出来ない。
水溜り程の大きさにまで縮んでいたスライムの、どこにこれほどの余力があったのか? ノエルに駆け寄るヤマトの視界の隅で、ごぼごぼと沸き立つようにして地面から吹き上がるゲル状の生物。
スライムは炎に焼かれて体積を減じたのでは無かった。熱を嫌い、地面の中に潜っていたのだ。
「畜生! ノエルから離れやがれ、この野郎!」
ノエルに張り付き、手繰り寄せようとする触手。それ掴み、力任せに引き剥がそうとするヤマト。しかしスライムの体表はヌルヌルと滑る上、千切れたと思ってもすぐに再生してしまう。
掴み取っては捨て、捨てては掴む。必死で繰り返すヤマトだったが、スライムは減るどころか徐々に触手を増やし、ノエルの身体を自らの中心へと引き寄せて行く。
やがてヤマトの手から、白煙が上り始める。スライムに触れる部分の皮膚が溶け始めているのだ。既に掌は爛れて剥け落ち、体液の飛び散った肘までの皮膚はボロボロになっている。そして、それはノエルも同じだった。触手に絡みつかれた部分から白煙が上がり、穴だらけになった衣服が朽ちた木の葉のように舞い落ちて行く。
「くっそおぉぉ!!」
叫び、ヤマトは何度も何度も触手を引き千切る。両手の肉は溶けて見るも無残な有様となり、動かす度に激しい痛みが襲う。だが、気にしている場合では無い。
勝利を確信し、弱者を哀れむ心が招いた危機。情けを掛けようなどと考えず、一気に焼いていれば違った展開があった筈だ。自分の甘さ……油断と慢心が、守るべき少女を危機に陥れたのだ。
「ノエルっ! ノエルッ!!」
「……! …………っ!」
叫ぶヤマトの声が聞こえているのか、全身をスライムに包み込まれたノエルではあったが、何かを伝えようと必死に口を開いている。だが彼女を包むスライムが邪魔をして、その意図を全く汲み取る事ができない。
「また……こんなっ! こんな事になるのかよ!!」
ミノタウロスの時と同じだ。悪魔に魂を売り、力を増したミノタウロスに全く歯が立たなかった自分。必ず守ると……二度と傷付かぬように守ると誓ったのに……手も足も出ない。
スライムに包まれたノエルの身体から噴出す白煙。それが周囲の粘液と混ざって濁り、もう彼女の姿は殆ど見えない。更には濁りもろとも、スライムの奥へ奥へと沈み込んで行く。
このまま何もせず、何も出来ずただ見守る事しか自分には出来ないのか?
「ンな事……俺が許せるもんか!!」
スライムの元を離れ、走り出すヤマト。彼は野営予定地に置かれた油壷を手に取ると、頭上に掲げて叩き割った。真っ黒な油が周囲に飛び散り、独特の臭気が満ちる。当然、ヤマト自身にも油は降り掛かった。
その油塗れの状態で彼は、火種に手を伸ばす。
赤熱した木炭に指先が触れた瞬間、少年の身体を真っ赤な炎が包んだ。
「があぉぉぉッ!!」
叫び声とも悲鳴とも付かぬ絶叫を上げるヤマト。灼熱の炎は痛んだ肌を舐め、髪を燃やす。息を吸えば喉が焼かれ、目を開けば眼球が爛れた。
だが彼は痛みを堪えて走り出す。全く怯む事なく、全力で走る。泉の底へと沈みつつある天使の下へ。
「ノェ……ッ!」
名を呼ぼうにも酸素が足りず、声が出ない。だが少年は必死で叫び、手を突き出した。燃え盛る手をスライムの中へ。スライムは熱を嫌う。これならばノエルにまで届くはずだ!
手を前に出し、身体ごとスライムに埋るようにして、一歩、更に一歩と奥へ踏み込んでゆくヤマト。高熱の油が爆ぜる音がして粘性の液体が道を開けた……その瞬間、指先に感じる柔らかな感触。間違い無い、これは……!
「ノエルっ!!」
頭からスライムの中へ突っ込み、ヤマトは柔らかな感触を握り締める。すると向こうもヤマトの手を握り返して来た。まだ彼女は生きている!
スライムの海の中、無心で柔らかな感触を手繰り寄せるヤマト。そして大切な存在を、両腕の中にしっかりと抱きしめた。
柔らかく、温かい、心休まる感触。二度と離すものか、たとえどんな事があったとしても。ヤマトが心に誓った……その時だった。
「少年! 動くなよ!!」
野太い声が辺りに響いた。そして突然の風切り音。次の瞬間には、宙に放り出される感覚。
気が付けばヤマトとノエルはスライムの体内から、乾いた地面の上に投げ出された。
一体、何が起こったのか?
痛む両目をこじ開けた、ヤマトの視界に映った物。
それはサイコロのように寸断されたスライムと、剣を構えた複数の人影だった。