第三十七話:悪魔の村(三)
このお話には残酷な表現と、性的な表現が含まれます。苦手な方は十分にご注意下さい。
太郎丸はノエルを連れ、安全な場所まで逃げられただろうか? そしてノエルの受けた傷は大丈夫だろうか? 気掛かりで仕方ない。
「ん? エルフの姉ちゃん、流石に疲れてきたか? まぁ夜通しぶっ続けだからなぁ」
「あ……はい。ですが平気です、申し訳ございません」
暫し呆けていた自分に気付き、悪魔たちへの奉仕作業へと意識を戻すアデリーネ。土の上に直接敷いたゴザの上で裸の上体だけを起こし、白み始めた東の空に、時の経過を思う。
心を殺していると、こんなにも無為な時間が過ぎて行くものなのか。そう考えるとノーウェイの屋敷で過した長い年月は、ここ最近の一年にも満たない時間の、ほんの数分の一の価値にも及ばないように思える。
様々な事を考え、仲間と喜びや悲しみを分かち合い、今を精一杯生きるという事。千年に及ぶと云われる長い寿命を得て、エルフという種族はそういった刹那の輝きを失っているのではないか? そう思える程に、アデリーネにとってヤマトたちと出会ってからの生活は充実し、輝いている。
とはいえ、屋敷で培った技術がこうして役立っているのだから、天の配剤という物を意識せずにはいられない。。
「次は俺の番だ。エルフ、こっちに来い」
「はい、参ります」
肌を合わせていたのとは別の悪魔に呼ばれ、立ち上がろうとするアデリーネ。だが自分でも気付かぬ内に、彼女の体力は既に底をついていたようだ。
立ち上がろうにも膝が笑い、腰が鉛のように重い。腕も痺れて感覚が薄く、なにやら目の前も霞む。動こうにも、動く事ができない。
「おい、どうした。早く来ないか!」
「も、申し訳ございません。今すぐ……」
今、ここで頑張らず、いつ頑張るのだ? 気力を奮い立たせ、四肢に力を込めるアデリーネ。
少しでも時間を稼がなくては。ノエルを安全な場所まで逃がす為……彼の大切な人を助ける為に、自分が出来る最善を尽くさなくては! それが自分に優しくしてくれた、彼への……せめてもの恩返しとなるのだから。
「うぐ……っ!」
「あん? どうした、エルフ?」
アデリーネの脳裏に浮かび上がる、彼の顔。優しくて、不器用で、真っ直ぐな人。小さくて弱いけれど、何度も立ち上がる強さを持った……。
「ぐっ……げほっ!!」
「うひぃ! この女……吐きやがった!!」
目の焦点が定まり、穢れた自分自身と、周りにある爛れた現実が見えた時――アデリーネは胃の中の物を全て吐き戻していた。吐しゃ物は彼女の下に居た太った悪魔に降りかかり、情けない悲鳴が上がる。
「この野郎! なんて事しやがる!!」
「げほっ、申しわけ……きゃうっ!!」
太った悪魔がアデリーネの頬を張った。たかが平手とは思えぬ威力に華奢なエルフは大きくよろめき、ゴザの上から土の地面へと転がり出る。
「げっ……げふっ……」
「こンのクソアマ……俺様が優しくしてやった恩を仇で返しやがって!」
太った悪魔が倒れるアデリーネに迫る。
もう限界だった、自分を騙し続けるのは。いくら彼の大事な人の為と思っても、いくら彼の役に立ちたいからと考えても、彼を……ヤマトを想うたび、胸が張り裂けそうになる。こんな事をしか出来ない今の自分が嫌で嫌で、どうしようも無くなる。
「あの天使と同じ目に合わせてやる……手足を圧し折り目を抉り、髪を毟って歯を抜いて……キレイな顔を滅茶苦茶にしてやる!!」
太った悪魔の目が真紅の輝きを帯び、薄闇に真っ赤な尾を引いて動く。
その目を見つめ、アデリーネは思った。時間稼ぎもここが限界。あとは悪魔たちの拷問に、自分の命をどこまで保てるか……それだけだと。
天使とは違い、脆弱なエルフの身体。ノエルと同じ責め苦を与えられたなら、精々半日も生きていられれば御の字だ。その後、この悪魔たちは自分の死体を捨て置いてノエルを追うだろう。その時までに、どうか太郎丸が遥か彼方の安全圏まで到達していますように……それだけを望み、未だ見ぬ神へと祈る。
「そら、まずはその尖った耳からだ! 両方とも引き千切って、豚の餌にしてやる!!」
「いっ……あぁぁっ!」
悪魔の手が、アデリーネの耳に伸びる。抵抗するも強い力で掴まれ、側頭部にも手が掛かる。力任せに引っ張られ、肉と骨が軋む音が耳そのものから聞こえて来る。ノエルの時と同じ状況が再び繰り返される……誰もが思った時だった。
「……ッ!? ぐがあぁぁぁぁッ!!」
悲鳴が上がった。野太い、悪魔の悲鳴が。
アデリーネの耳は無事だ。逆に無事で無いのは、彼女の耳を掴んでいた悪魔の腕。両腕とも肘が普通ではあり得ない方向に曲がり、ブラリと垂れ下がっている。
「ギャアァァっ! 俺の腕が! どうして!? なんでっ!!」
「どうした、何がどうなった!?」
騒ぎ出す悪魔たち。その視界の隅で、漆黒の影が疾風のように動いた。
「ぎゃっ!」
「ごぶっ!?」
「ぐばぁッ!!」
次々と、何かに弾かれるようにして吹き飛ぶ悪魔たち。ある者は家の壁に突っ込んでぶち破り、またある者は高々と空を舞って磔台へと激突し、砕けた支柱と共に地面へと転がった。
「なっ……! ど、どうして……!」
驚き、我が目を疑うアデリーネ。
ようやく山影から顔を出した朝日に照らされ、自分を庇うようにして立つ人物。それは黒い毛皮の寡黙な人狼、太郎丸その人だった。
「待たせてすまぬな、アデリーネ殿。走れるか?」
「は……走れるか、ではありません! こんな所で何をなさっているのです! 予定と……違うではありませんか!!」
珍しく激昂し、声を荒げるアデリーネ。ノエルを助ける為に彼女が立てていた計画はこうだ。
まずは自分が囮となり、ノエルを逃がす。太郎丸はノエルを連れて、可能な限り遠くへ逃げる。その後アデリーネは自力で村を脱出。ノエルを逃がし終えた太郎丸と隠れ家で合流し、逃げる……。
「貴方が戻ってきてしまわれては、私がここに残った意味が……」
「何を言う。そなたとて、最初から逃げる気など無かったではないか」
お互い様だ、と太郎丸は言った。そしてアデリーネにマントを掛けて肌を隠させると、ベルトポーチから数本のポーションも取り出して手渡す。
「今度は某が時間を稼ぐ。今の内に体力を回復させ、この場を離れるのだ」
そうだった。この男もまた、ヤマトと同じく愚直な男だったのだ。
何の得にもならないというのに、危険を冒してまでエルフの隠里で戦った彼。有名人となったサークスと袂を別ち、行方知れずの低レベル冒険者を探す彼。損得や効率では無く、じぶんのやろうと思った事を黙々とやってのける――太郎丸は、そんな人なのだ。
「さっきの野郎か! 逃げてりゃ良い物を、ノコノコ戻ってきやがって……もう見逃しゃしねぇぞ!!」
痩せた悪魔が、鍬を振りかぶって太郎丸へと襲い掛かる。武器こそ見劣りするが、突進速度はミノタウロスのそれに匹敵し、力では大きく上回る。防御力もまた凄まじく……。
「ふんッ!!」
「ぎゃぶっ!?」
だが様々な分析よりも、上段に構えた太郎丸の剣が悪魔の頭蓋に振り下ろされる方が早かった。
大岩が落ちたような衝撃と轟音が村中に響き、粉塵が巻き上がる。痩せた悪魔は頭の天辺をべっこりとへこませて首を胴体に減り込ませ、更に身体の半分ほどを地面に減り込ませた状態で気を失った。
「なん……だとっ!?」
三下じみた台詞を吐いて、たじろぐ悪魔たち。
もしも彼らが少しでも武術や剣術を嗜んでいたのなら、その目には映っていた事だろう。仁王立つ漆黒の人狼から、陽炎のように立ち上る激しい怒気を。迸る闘気を。
「今日ほど……下衆を斬る刃を持たぬ我が身を、口惜しいと思った日は……無い!」
パッと土煙が上がったかと思うと、そこにもう太郎丸はいない。次の瞬間には凄まじい衝突音と情け無い悲鳴が上がり、真っ赤な肌の悪魔が地面を抉りながらすっ飛び、別の悪魔と激突して倒れる。
「ひっ……怯むんじゃねぇ、お前ら! 少々ぶっ飛ばされたって、俺達は死にゃしねぇ! 一斉にかかっブギャッ!?」
喋り終える前に顔面へ鋭い突きをもらい、胴を軸としてその場で回転する悪魔。空中で数回転した後に、横腹を薙ぎ払う横一閃の漸撃で他の悪魔たち同様、遥か彼方へと飛んで行く。
「……次はどいつだ?」
「あひっ!?」
太郎丸の視線が向いた先に偶然居た悪魔が息を飲む。
「貴様かッ!!」
牙を剥き、迅雷が如く剣を振るう太郎丸。
「オォォォォォッ!!」
夜明けの村に、人狼の咆哮が轟いた。