第三十二話:悪魔の姦計(一)
ほろ酔い亭のある街から、馬車で十日ほど。街道からは少し外れた山間部にある人口は五百ほどの小さな村は、地産地消を地で行く、農業主体の穏やかな村だ。
「次の方どうぞ。深呼吸して、気を楽にしてて下さいね」
深夜。村の中央にある小さな集会所で、ノエルは年老いた老婆の背中に手を当て、柔らかな光を流し込んでいた。
長年の経験を刻むシワだらけの肌。年季を感じさせる曲がった腰。手にしているのは使い込み、磨り減った杖――どうやら肩と腰、あと足にも疾患があるようだ。高齢の方に多くみられる典型的な症状に、ノエルは寄る年波の残酷さを感じながら、丁寧に慎重に、人生の先輩へと癒しの力を発動させる。
「……はい、これで悪い所は治りました。けれど、あまりご無理はなさらないで下さいね」
しきりに頭を下げる老婆を優しく見送り、次の者を迎え入れる。今日はこれで二、三百人くらいは診ただろうか?
ノエルが訪れる村々で恒例となっている臨時診療所。伝説の手甲探しの道中に立ち寄った小さな村でも、それは例外無く行われていた。
「ノエル、外はもう暗くなっている。明日には出発なんだ、あまり遅くまでは……」
サークスが集会所の扉を少し開け、声を抑え渋い顔でノエルに告げた。
扉の隙間からは冷たい夜風が室内へと滑り込み、そこから覗いた空は薄暗く、微かに星の瞬きさえ見える。
今朝早くに村へ到着したサークス、ノエル、そしてバラの三人。もう一人の獣人ガイランは何か用事あるらしく、別ルートでの行程となっている。その用事とやらを済ませたら合流する手筈だ。
サークスはこの村で食料の補給と小休止を済ませた後、伝説の手甲が眠ると噂の洞窟へ挑むつもりだったのだが……村人に頭を下げられたノエルが「少しだけ」と、治療を始めてしまった。
いつものパターンだ。
「申し訳ありませんサークスさん。明日の出発には間に合わせますので……」
申し訳なさそうな表情で頭を下げるノエル。そういう意味で言ったのでは無いのだが……と、サークスは溜息をついた。
天使は清く正しく美しい生き物であるが、助けを乞われると断れず、融通の利かない面がある。臨機応変な対応が求められる冒険者という職業にあって、これは少々面倒な話だ。
だが集会所入り口で治療の順番待ちをする村人たちから「天使様の邪魔すんじゃねぇよ」という意思の込もった冷たい視線を一身に受け、サークスは一歩下がらざるを得ない。お門違いではあるが、どこぞの少年が感じていた苦労が偲ばれるというものだ。
だが、まぁ……これはこれで、丁度良いのかもしれない。心の中で、何かがそう思考した。
「わかった。明日の朝、迎えに来る」
諦めの表情でそう言い残し、立ち去るサークス。そんな彼の背中を見送って……ノエルは軽く肩を落とした。
いつもなら、このくらいの人数とっくに癒し終えているのだけれど――。
自分を中心に円を描くように並んでもらい、広範囲に及ぶ癒しの光でもって、多人数をまとめて癒す。そして治療の終わった人から順に後ろの人と交替してもらい、特に酷い症状の人だけを個別に診る。ちょっと機械的で人情味の薄い効率優先のシフトではあるが、タダで診てもらえると聞いて体調の良い人までやってくるのだから、ある程度は仕方ない。
これまではこの方法で、千人程度であれば一日で癒し終える事ができていた。だが今は違う。同じ方法を取ろうとしても人が集まり過ぎて混雑し、我先にと押し合う事で怪我人まで出てしまう。そうなってしまえば治療どころでは無い。
以前はヤマトが、多少強引とも横暴ともいえる態度で、集まった人たちを誘導してくれていた。
『ガキと年寄り優先だ! 若ぇヤツぁ顔洗って出直して来い!』
そんな怒鳴り声が、今は懐かしい。
癒しの光を迸らせながら、ノエルは想う。
どうして私は行かなかったのだろう。ヤマトが姿を消したあの夜に。太郎丸とアデリーネが席を離れた、あの瞬間に。
言い訳なら、いくらでもある。だが何時だって……無理を言って強引に後を追う事が出来たはずなのだ。
降り頻る冷たい雨の中を歩み去るヤマトに追い付き、無理矢理にでも治療を施す事くらい簡単だったはず。だがあの時は、ただそれだけの事が酷く難しかった。
自分を拒絶するヤマトの背中に……足が、指先が。一寸たりとも動かず、彼を追う事がどうしても出来なかった。
「……次の方、どうぞ」
まだ小さかった頃……神の命を受けて空から舞い降りた日の事だ。ノエルは風に流されて落下地点を誤り、翼を傷めて、うまく飛べなくなってしまった。
翼を失えば天使ではいられない。飛べない天使など、天使では無い。
傷付いた翼に絶望し、幼いノエルの目からは涙が零れた。悲しくてどうしようもなくて、ただひたすらに泣き続けた。一体、どれ程の時をそうして過しただろう? 一日、二日、三日……昼夜が幾度となく繰り返され、景色の色が何度も塗り変わった。
やがて幼い彼女の頭から何もかも、神の命さえも消え去り、悲しみだけが溢れるようになった頃、不意に現れた小さな男の子――目付きは悪く小汚い格好で鼻水を垂らしており、頭も悪そうなヤンチャ坊主――それがヤマトだった。
彼はぶっきらぼうな言葉遣いで、泣きじゃくるノエルに話しかけた。そして思いつく限りの言葉と態度で彼女を励まし、勇気付けた。格好良い言葉も、スマートな立ち振る舞いもそこには無かったが、ノエルは確かに感じたのだ。
少年に宿る、暖かで優しい心を。
「お大事に……次の方……」
当時、冒険者をしていたヤマトの両親は、突然息子が連れてきた天使の少女に驚きはしたものの、柔軟な対応で彼女に理解を示し、家族として迎え入れて我が子のように愛情を注いだ。その頃、丁度スダチが生まれたばかりで、新たな家族が増える事に抵抗が無かったという事情もあっただろう。
こうして丘の上に立つ小さな家で、家族五人での生活がスタートした。
裏庭には牛が一頭のんきに草を食み、鳥が歌い、風が踊る平和な日々。そんな中でノエルは、ひたすら空を飛ぶ練習を繰り返した。広い草原の坂道を走って下り、勢いを付けて飛び上がるのだ。
一年が過ぎ、二年が過ぎた。だが折れた翼を上手に動かす事が出来ず、全く飛ぶ事が出来ない。落ち込み、もうダメだと諦め、ヤケになって癇癪を起こした。一度や二度では無い。数えるのも面倒になるほどの回数だ。
「……どうしました、天使様? 何か、可笑しい事でも?」
「あ、いいえ。なんでもありません」
苦笑するノエル。面倒な子供だったろうな、と思う。今になって思えば当時の自分は――いや、今でも――本当に我侭で、困った子だった。
だがそんな自分を、家族は見捨てたりしなかった。
特にヤマトだ。何度も怒られたり叱られたりしたが、根気強く毎日毎日飽きもせず、一日中練習に付き合ってくれた。やがてその練習にヨチヨチ歩きのスダチが加わり、賑やかさと楽しさが増した頃……不幸が訪れる。
流行り病だ。
凶悪な死病であったその病は瞬く間に近隣地域に広がった。ほどなく、優しくてのんびり屋だったヤマトの母が倒れ、健康だった父も病魔の前に屈した。
あの頃の事を思い出すと今でも胸が痛み、目の奥が熱くなる。
幼いノエルは天使の力でもって、ヤマトとスダチを全力で守りながら、必死に両親の治療を試みた。だが力が弱く空さえ飛べず、天使としての能力も扱いきれていない彼女に、流行り病という敵はあまりに強大だった。
力及ばず痩せ細って行くヤマトの両親……いや、その頃には自分の両親も同然の、かけがえない存在となっていた父と母。自らの無力を嘆くノエルに、二人は死の間際、こう伝えた。
『ノエル、いままで良く頑張った。流石はウチの子だ。お前なら必ず、立派な天使になれる』
『私たちなら大丈夫。だってもう、十分すぎるくらい幸せだもん。だからこれからは、他の人たちにも幸せを分けてあげて』
この時、初めてノエルは気付いた。我が子を思う親の偉大さを。自分以外の人を思いやる気持ちの尊さを。どんなに辛くとも……文字通り死ぬほど苦しい時でも、愛する者の為ならば人は笑顔を見せる事が出来るのだと。
必ず立派な天使になる。そしてみんなに幸せを!
そう誓ったノエルに、満足そうな顔で頷いた両親が力尽きた――その瞬間。世界が、光に包まれた。
「はい、お疲れ様でした。骨は繋がってますから添え木はもう必要ありませんけど、筋力が弱ってるでしょうから気をつけて……お怪我をなさらないように」
ノエルが天使としての能力を覚醒させたのは、それがきっかけだったろう。後で聞いた所、周辺の村々からも流行り病は消え失せ、病床にあった人たちも元気になったという。
翼は生え変わったかのように癒えて、練習の甲斐もあり空も飛べるようになり、光を自在に操る術も身に付いた。トントン拍子で各種能力も飛躍的に上昇し、天使として一人前になって行くのだが……それを一番伝えたかった人たちは、もうこの世に居ない。
そして、その頃からだ。ヤマトが冒険者を目指すと言い出したのは。
日々の糧を得る為に家財道具を売り払った彼は、安い賃金ながらも配達などの仕事をこなし、コツコツと身体を鍛えていった。俺は強くなるんだと、口癖のように繰り返しながら。
「……はい、お大事に。気をつけて帰って下さいね」
小さな女の子を連れた母親が、丁寧に頭を下げてから席を立つ。ウトウトと舟を漕ぐ幼子を胸に、集会所を後にする母親。彼女によって開けられた扉から見えた外の世界は真っ暗。既に月は空の頂点を越え、明日と呼ぶべき時間帯へと突入している。
「次の方……は、居ないみたいね」
まだ村人全員を診たという感じはしなかったが、流石にもう時刻が時刻だ。特にご老体に夜の散歩は少々骨が折れる事だろう。きっと明日の早朝、駆け込みで何人かが訪れるはずだ。そうしたらもう、この村ともお別れ。帰りにもう一度……とは思うものの、サークスはきっと足止めを嫌い、立ち寄りたがらないだろう。
「……ヤマト、何してるだろ?」
集会所から一歩踏み出し、空を見上げるノエル。その時に吐き出した息が白くなった事に気付き、薄手のカーディガンを羽織る。
ヤマトの事が気になって仕方ない。あの夜からずっと……特にここ数日は、胸騒ぎさえするようになった。
元気で冒険を続けているのだろうか? それとも違う事をしているのだろうか? この広い世界のどこに居るのか、何をしているのか。夜になると、今すぐ飛んで行きたいという気持ちを抑えられなくなる。ヤマトは嫌がるだろうが、今すぐ会って、伝えたい事が山ほどあるのだ。
「会いたいな、なぁんて……」
呟き、頭を振る。駄目だ、会えない。
『これ以上、俺を惨めにしないでくれ――』
彼はそう言った。
強い拒絶。近寄るなという意思。それらを感じ……嫌われた、と思った。
以前から感じていた事。自分がヤマトの重荷になっているという事実。
これまではヤマトの優しさに甘えていた。天使の真実を知る彼にだけは心を許す事が出来た。だから彼と一緒に居たいと冒険者になったし、少しでも力になりたいと天使の力を振るった。
「でも……そうだよね。自分より圧倒的に強い娘なんて、側に居たら嫌だよね」
薄々それにノエルが気付いたのは、二人のレベルがダブルスコアを刻み始めた頃だ。
差を埋めようと焦ったのだろう。次第にヤマトが無茶をし始め、大怪我をする機会が増えた。背伸びをして難しい依頼に挑むようになって失敗が増え、せっかく依頼に成功しても上がるのはノエルの評価だけ。実らない努力だけが降り積もり、なかなか成果は上がらない。
ヤマトは強くなりたいと言って冒険者になった。きっと父親のように家族を守りたいと願い、その力を欲したのだろう。だが彼の目的を、自分が邪魔してしまっている。
「私が自立しなきゃ、とは思うんだけど……」
そう思うものの、度々大怪我をする彼を放っておけず、また居心地の良さに決意が定まらず、ズルズルと時間だけが経ち……とうとう愛想を尽かされ、彼はどこかへと行ってしまった。
きっかけとなった、ほろ酔い亭での一件は……思い出すだけで心も身体も鉛のように重くなる。
突然のキス……サークスが、前触れも無くあんな事をするだなんて今でも信じられない。思わず突き飛ばしてしまうくらい、物凄くショックだったが……英雄と謳われるサークスの面子を大勢の前で潰すわけにも行かず、強く否定できなかった。
あの時ヤマトは、どんな気持ちでサークスに殴り掛かったのだろう? 守るべき家族に手を出された怒りか、それとも――。
「はぁ……とっておきだったんだけどなぁ……」
唇に触れ、再度の溜息。切り札であったファーストキスは、くれてやろうと思っていた者の前で、別の男に奪われてしまった。といっても幼い頃のキスや応急処置の人工呼吸やらで、本当の初回分は遠の昔に失っているのだが……それとこれとは、また別物だろう。
それに嫌われてしまえばキスなどする機会も永久に失われたわけだし……。
そう思うと、またも溜息が漏れて陰鬱な気分がぶり返す。
「私が、もっとはっきり意思表示しとけば良かったのかな? でも今更……自分勝手過ぎるよねぇ?」
見上げた夜空に問いかけると、悩みと共に、深い後悔が押し寄せる。
ヤマトにはもうアデリーネが居る。賢く思慮深い彼女なら、自分などよりも遥かに上手く彼と寄り添って行けるだろう。もう彼に、ノエルという天使は必要無い。むしろ邪魔だ。
「でも……」
会って、話をしたい。誤解を解きたい。あの時は動揺してて上手く言えなかった色々な事を、とにかく伝えたい。
我侭なのはわかっている。だが、あの雨の夜に出来なかった事を……形振り構わず我を通す行為を、今ならば出来る気がする。
今すぐ飛んで行こう、彼の元へ。その能力が今の自分にはある。今なら指先も翼も自由に動かせる。もう取り返しなんてつかない、終わってしまった事だ……でも後悔はしたくない。また拒絶されてしまうかもしれないが……こんなに心ざわめく夜を過すのは、もう嫌だ!
「……うん、行こう!」
カーディガンを投げ捨てて集会所に駆け込むノエル。自分の荷物をひったくる様にして小脇に抱え、誰にも見つからないよう頭を低くして外に出る。そして翼を大きく広げ、一気に夜空へと舞い上がった。
あっという間に周囲の建物が下に流れ、眼下に開ける景色。肌を刺すような冷気の中、真っ暗な世界を月が照らし、山々や村の建物を紫色に光らせている。
サークスや村の人たちには悪いが、出発を告げるわけには行かない。きっと引き止められてしまうから。半ば衝動的にこんな事をして……皆の信頼を裏切って。天使のくせに……いや、一人の責任ある大人として、本当に酷い事をしていると思う。
「そういえば私……昔は我侭だったとか思って、苦笑いしてたんだっけ」
だが結局は、あの頃から何も変わっていなかったようだ。三つ子の魂百まで――いくら取り繕っても、我侭で臆病で泣き虫で……優しいあの人につい甘えてしまう、ノエルの性格は変わらない。
「……ごめんなさいっ!」
翼をはためかせ、村の上空を離れようとしたノエル。その目に……明りが映った。
揺れ動く、オレンジ色の明り。松明だろうか? 一つではない、数えるのが面倒なくらいの数だ。それらが村の中央付近、広場と呼ばれている辺りに集まっている。
草木も眠る丑三つ時。日が昇れば目を覚まし、日が落ちれば眠る文化が根差すこの世界で、こんな真夜中にどうしたのだろう?
何か、あったのかもしれない。
ノエルはヤマトへの想いに後ろ髪引かれながらも、高度を落とし、ゆっくりと光へ近付いて行くのだった。