第二十八話:決別
赤味がかった夕焼け空はいつの間にか分厚い雲に覆われ、遠く山からは湿った空気が流れ込んでいた。
だがそれに気付く者は食堂内におらず、やがて外は冷たい雨。主婦は慌てて洗濯物を取り込み、店主は店先の物を片付けて、戸板を立て始める。
「おとといきやがれ、このクソガキ!!」
怒鳴り声と共にほろ酔い亭の裏口が勢い良く蹴り開けられ、ボロ雑巾のようになった少年が一人、放り出される。
少年は受身も取れず頭からゴミ集積場に突っ込み、嫌なニオイと残飯を付近に撒き散らしながら倒れ込んだ。
「手前みたいな奴の事を身の程知らずって言うんだよ!」
「ついでに恩知らずともな!!」
「野垂れ死ね、このクズ!」
激しい罵声と共に、裏口の扉が壊れそうな勢いで閉められた。と同時に食堂内の騒がしい声が遠退き、辺りは雨の音に包まれる。
「へっ……良く言うぜ。お前ら、尻馬に乗っただけのクセに……」
ゴミ塗れの少年ヤマトは、痛む頬の内側を舌で探り、誰に言うでもなく愚痴を漏らす。咥内にゴロリとした物を感じ、血の混じった唾と共に吐き出すと……それは折れた奥歯だった。
舌打ちと共に鼻先を擦った手の甲には鼻血が擦り付き、雨に溶けて流れて行く。他にも体中、至る所から鈍い痛みを感じる。自分では良くわからないが、随分とやられてしまったようだ。
「畜生……やっぱ強いんだな、レベル32って……」
つい先程。
怒りと、憎しみと、多分嫉妬と……その他諸々、胸が破裂してしまいそうな感情に任せて、サークスへと殴りかかったヤマト。渾身の拳は的確にサークスの頬を捉え、白銀の二つ名を持つ男をよろめかせた。
だがそれは軽く……少しだけ。しかも、お情けを貰っての一発だった。
「これで満足したかい?」
涼しげに言って、薄く笑うサークス。その端整な顔に、パンチによるダメージはほんの少しも見当たらない。
「ンの野郎ッ! ムカつくんだよ!!」
再度殴りかかるヤマト。だがサークスはそう何度も殴らせてはくれなかった。
細い竹がしなるかの如く上半身を反らせ、悠々と拳をかわしたサークスは、ヤマトの腕を取って背負い投げの要領で勢い良く投げ飛ばす。
重く風が唸り、破砕音と共にヤマトの叩きつけられたテーブルが壊れ、椅子が倒れて食べ物や食器が宙に舞う。騒然となる食堂内。
「や、やめっ……! 二人とも……ヤマトっ!!」
「くっ……どいてろ、ノエル!」
ノエルが割って入ろうとしたが、ダメージを堪えて立ち上がったヤマトは彼女を押し退けて、サークスへと再三挑む。
今度は脚に組み付き引き倒そうと腰を落とし、低い体勢から地を這うようなタックルを仕掛けるヤマト。速度、タイミング共に申し分無い鋭いタックルであったが……。
「青いな、ヤマト君」
「あぐっ!?」
サークスはそれを、振り下ろす拳一つで易々と撃退した。
後頭部に岩を打ち砕かんばかりの一撃を受け、地に這い蹲るヤマト。そこへ他の冒険者たちがやってきて、彼を取り押さえる。
「この馬鹿、サークスさんに何しやがる!」
「女取られたからってキレてんじゃねぇよ。少し落ち着け」
そんな冒険者たちの声も、今のヤマトには届かない。
「うるせぇ! すっこんでろ!!」
そう怒鳴り、人々の手を振り切って憎きサークスへと迫る。だが……。
「キミでは無理だ。釣り合わない」
そんな言葉と、無造作に突き出されたサークスの正拳がヤマトの顔面にめり込み、鼻っ柱を砕く。
ずしん、と重たい一撃。目の前の景色が下へ流れ、ほろ酔い亭の天井が現れる。そして少年の怒りは、意識と共に軽く飛び……気付いたら、床に倒れていた。
「……う」
気絶していたのは、ほんの一秒にも満たない一瞬だったろう。しかし受けたダメージは計り知れず、視界が揺れて焦点が定まらず、身を起こそうにも手足に力が入らない。
しかし、それでも立ち上がろうとするヤマトに、周囲の冒険者たちが苛立ちを募らせる。
「もう止めろ。サークスさんに、お前が敵うわけ無いだろ?」
「この勘違い野郎が……多少痛い目にでも遭って、身の丈ってヤツを判らせてやった方が後の為かもな」
誰かが言った言葉が、やけに耳へ残る。
勘違い野郎――。そう、ヤマトは勘違い野郎なのだ。
幼馴染の天使を自分の女だと勘違いし、お似合いの相手に嫉妬する口だけの能無し駄目野郎。それがヤマトという男……自分なのだ。
「う……う、るせぇ。黙ってろ、この……ハゲ!」
「なんだと、この小僧!」
ハゲと言われたスキンヘッドの大男が、立ち上がりかけていたヤマトの顔面を殴る。たたらを踏んでよろめき、他の冒険者にぶつかるヤマト。
「仕方ねぇ……ちょっと頭冷やして来い」
ぶつかった冒険者もまたヤマトの腹を殴り、屈んだ所で下から上へ、突き上げる拳を顎に見舞う。更に続けて二発、三発と叩き込まれる拳。避ける事はおろか何の防御も出来ず、受身さえ取れず、ヤマトは薄汚れた床へ無防備に倒れこむ。
そこへ次々に飛んでくる容赦の無い蹴り。顔へ、脇腹へ、太股へ。何度も何度も、何人もの冒険者がヤマトという名の勘違い野郎に身の程を弁えさせようと蹴りを放ち、痛めつける。
「も、もう良いでしょう!? 皆さん、止めて……もう許してあげて下さい!」
「放っておこう、ノエルさん。ヤマト君には良い薬だ。それに心配はいらない。皆、加減くらいわかってる……死にはしないさ」
ヤマトへの暴行を制止しようと声を上げるノエルを、サークスが抱き止める。他の冒険者たちも、ノエルはもうあんなカスに関わるべきじゃ無いと、寄って集ってヤマトへの接近を阻み、引き離す。
そして……。
「おとといきやがれ、このクソガキ!!」
冒頭へと戻る。
屋根の下から叩き出されたヤマトに、降り出した雨は冷たく未だ止む事を知らず、次第に激しさを増すばかり。
立ち上がる事も出来ず、ゴミに紛れて濡れ鼠となった少年の身体は冷え切り、痛みはやがて冷たさ、そして寒さへ。
「いてて……ポーションは……と」
震える指先で懐を探り、薬の小瓶を探す……そして溜息。そういえば全部、ザックに纏めて部屋に置いてあるんだった。ノエルと合流したから、しばらく使わないだろうと思ったのだ。
「しくじったな、くそぉ……」
別のポケットにでも紛れ込んでいないだろうか? そう思って弄った服の隠しポケットに、硬い手触りがあった。
取り出してみると、それはグシャリと潰れた布張りの箱。開けてみると、中身は砕けた髪飾り――ピンクの花びらが安っぽくて子供っぽい、到底ノエルには似つかわしくない……玩具のような髪飾りだ。
「悪ぃ……もう、いらなくなっちまったんだ。すまねぇ……」
迂闊にも自分に買われてしまったばかりに、役目を果たす事の出来なくなった髪飾り。いや、今や哀しげに雨の雫を落すだけのガラクタとなったソレへ、深く詫びる。
「……?」
その時、ギシギシと木の擦れる音がして、ほろ酔い亭の二階窓が開いた。何だろうかと見上げるヤマトの瞳に、輝く光輪と白い翼、そして見知った顔の天使が映る。
「……ノエル」
二階の窓から、ノエルが半身を乗り出していた。そしてゴミ捨て場に倒れたヤマトを見つけると、慌てて窓から飛び出し、翼を広げて舞い降りて来る。
「ヤマト、大丈夫?」
すぐ側に降り立った彼女は、気遣わしげにそう聞いてきた。その表情は、ヤマトがいつも良く見る……頼りない弟を心配する、姉の顔。
少年の胸が、強く痛む。
「ボコボコにされちゃったね。いま治すから、力を抜いて……」
そう言って手をかざし、癒しの光で傷口を癒そうとしたノエル。だがヤマトは、そんな彼女の手を無造作に払い除けた。
「……ヤマト?」
「いらねぇ」
それだけ言って、ヤマトが立ち上がる。相当な無理をしているのは誰の目にも明らかだったが、それでも彼は震える手足で立ち上がり、ノエルに背を向けた。
「ヤマト……あの、怒っ……私の、サークスさんとの事、だよね? あれはね、前にちょっと私、色々……」
「わぁってるよ。そんな事、わかってる。なんか事情があんだろ? 色々と……お前やサークスでないとわかんねぇ事情が、さ」
背を向けたまま、震えるノエルの声に応えるヤマト。
自分の居なかった数ヶ月の間で、サークスとノエルの間に何があったのか? そんな物、大体想像が付いている。そこで色々な事情があったであろう事。それだって、何となくわかっている。そしてきっと両方に共通しているのは、自分のような非力な人間ではどうしようもない「何か」だったという事――。
「そんな話……聞きたくねぇ」
痛む拳を握り締めて、滲む血のように声を絞り出す。
そうしてヤマトは顔を上げず、ノエルの顔を見る事無く、一歩ずつ闇へと向って歩き出す。
「ま……待ってヤマト! 話を……ううん、話は聞かなくていいよ! だからせめて、傷の治療だけでも……!」
光で雨を弾く事も忘れ、ずぶ濡れとなりながら追い縋るノエル。そんな彼女へヤマトは最後に一度だけ立ち止まり、酷く聞き取り辛い声で言った。
「これ以上、俺を惨めにさせないでくれ……!」
その後、彼は一度も振り向く事無く、立ち止まる事も無く、涙ぐむノエルを残して暗い雨の中へと消えて行った。