第二十二話:色々あっても山河あり
どこまでも続く新緑の草原。爽やかな風が駆け抜けると、ざわめきが波となって草木に見事な波形を描き出す。
そんな野原の小さな丘の上に建つ、小ぢんまりとした木造の一軒家。軒先に干された少量の洗濯物。玄関横に置かれた小さな農具。裏手には簡素な柵で仕切られた農場があり、太った牛が一頭、のんきに草を食んでいる。
「……ん、誰か来たのかな?」
家の中。
夕飯の準備に勤しんでいた幼い少女は、遠くから聞こえて来る足音を耳聡く聞き取って、不意の来客を予感した。
近隣の村からも遠く離れ、見る物も何もないこんな場所までわざわざ来る者は、そう多くない。今は町に出て働いている兄か、物騒な物取りか。このどちらかだ。
草を踏みしめて近付く足音はテンポが良く、しっかりとした足取りの若者を想像させる……それが複数だ。しかも足音の一つは、やけに重そうな音をさせている。きっと大柄な体型なのだろう。
小さな頭をフル回転させて考える少女。この家にやって来るのは、兄か、物取りかのどちらかだ。そして兄は小柄であり、いま聞こえている足音は大柄な人の物。という事は……間違い無い、これは物取りだっ!!
少女は肩口まで伸びた茶色の髪を素早く頭上にまとめると、火に掛かっていたフライパンを手に、戸の影に隠れる。
どんどん近付いてくる足音。その音はやがて玄関前で止まり、ドアがノックされ……。
「御免。こちらに、スダ……」
「せぇい!!」
「ぶぐォ……ッ!?」
先手必勝、不意打ち上等! 少女は、戸口から現れた人影に、良く焼けたフライパンを目一杯叩き込んだ。
鼻先に会心の一撃を受け、よろめき、跪く人影。良く見れば全身を包む真っ黒な体毛と、がっちりとした身体が目に入る。前に兄から聞いた、獣人の一種だろうと思った。だとすれば……!
「た、食べられて、たまるもんかーーーっ!」
「い、痛っ! ちょ……暫し待たぐはっ、ぎゃんっ!? きゃいんっ!」
物取りだけならまだしも、命まで取られてたまるものか!
少女は必死でフライパンを振り下ろし、黒毛の獣人(犬っぽい顔をしている)を叩いて叩いて、叩きまくった。
その回数が、果たして二桁に届いた頃だろうか?
「あわわわ……ちょっと待って下さい! 私たち、怪しい者ではありません! 私たちは……!」
「えいっ! ていっ! このっ!! ド変態! 犬畜生!! 糞外道っ!!」
「聞いて下さいっ! 私たちは、ヤマト様のっ……!」
長身でスラリとした美しい女性が、獣人と少女の間に割って入った。知的な雰囲気を漂わせる、少女の憧れる女性像そのものの女性である。唯一気になる点といえば、尖った耳……そうか、この人はエルフだ! だが、こんなに綺麗な女の人がウチに何の用があると言うのだろう? 死ね、死ねっ! と連呼していた為に良く聞き取れなかったが、一瞬聞き覚えのある名前が出たような気もした。
「ぜぇっ、ぜぇっ……な、何のご用ですか? うちは貧乏で、盗って行くような物は何もありませんから!」
いい加減疲れた事もあり、とりあえず手を止めて、フライパンを構えたままで問う少女。
そんな警戒心丸出しの少女を刺激しないように、エルフの女性はゆっくりと、丁寧に話し掛ける。
「貴女はスダチさん……ですね? 私たちはヤマト様と一緒に旅をしている者です」
「……! お兄ちゃんの、お友達……?」
「そ、そうです! ああ、良かった……」
やっとわかって貰えた! 多くの尊い血が流れたが、やはり話せばわかるのだ。
エルフの女性ことアデリーネはホッと安堵の息を吐き、ようやく警戒心の和らいだ少女スダチに事の次第を話せる喜びに包まれていた。
「実は貴女のお兄様なのですが、この近くで動けなくなってしまいまして……」
事情を話すアデリーネ。
そして、数刻程の後――。
「ご……ごめんなさいっ!」
草原の一軒家にて、深々と頭を下げるスダチの姿があった。
彼女の前には、フライパンで殴られまくった黒毛の獣人こと、人狼の太郎丸。その隣ではアデリーネが苦笑し、更にその隣では、ヤマトがベッドに横たわりながら可笑しそうに笑い続けている。
「顔を上げられよ、スダチ殿。この程度、某にとっては何でもない。お気に召されるな」
スダチの前に膝を付き、低い声で語りかける太郎丸。本人としてはなるべく穏やかに喋ったつもりなのだろうが、どこか威圧的な響きがあるのは如何ともし難い。
恐る恐る顔を上げたスダチは潤んだ目で太郎丸を見上げ、口元をワナワナさせながら呟く。
「だ、だって鼻が……」
「む……いや、皆まで言われるな。委細構わず、武士に二言無し。大丈夫、何でも御座らん」
豪気なる太郎丸。だが彼の鼻の先には、少しだけ赤い物が滲んだ白い布が当てられている……フライパンの一撃を受けて、鼻血が出たのだ。
「おいスダチ、そんなに気にする事ねぇよ。さっきから言ってるけど、太郎丸は丈夫なんだって。それに本人が大丈夫って言ってるんなら、大丈夫だろ」
「でも……」
ようやく笑いが治まったのか、ベッドの上から声を掛けるヤマト。だが元気そうな声とは裏腹に、顔色はあまり良くない。
半身を起こし、よろめきそうになるのをアデリーネに支えられながら、彼は精一杯の元気でもって妹のスダチに軽く頼みを伝える。
「それよりさ、俺たちみんなハラ減ってるんだ。適当に何か作ってくれねぇか?」
「え……?」
「何でもいいからさ。な、頼むよスダチ」
「う、うん……わかった。ちょっと待ってて!」
跳ねるようにして起き上がり、軽く歪んだフライパンを手に台所へと駆けて行くスダチ。その後姿を見送ると、ヤマトは深く息を吐いて、再度ベッドへと横になった。
「……大切な妹さんなのですね」
ベッドの端に座り、気遣わしげに、優しい微笑を湛えるアデリーネ。
「そんなんじゃねぇけど、あんま心配させんのも悪ぃかと思ってよ……」
ぶっきらぼうに言って、視線を逸らすヤマト。その肩には幾重にも包帯が巻かれ、今も血が滲み出している。
彼はシルフと戦った際、背中に深い傷を負った。応急処置だけを行い帰路に付いたものの、深い森の中で予後が悪化。手持ちのポーションは既に使い切っており、立ち往生してしまったのだ。
太郎丸やアデリーネも傷が完全には回復しておらず、動けないヤマトを連れての長距離移動は難しい。仕方なく、最も近くの知り合い……つまりはヤマトの実家であるこの場所へ、妹のスダチを頼りやってきたというわけだ。
「仕送りはしてっけど、ずっと留守にしてんだ。たまに帰ってきた兄貴がズタボロじゃ、安心してらんねぇだろ?」
「うむ、全くだな。だが、それ故にスダチ殿は逞しく成長されているようだ」
「ははっ。悪かったな、太郎丸。ウチのお転婆が無茶しちまって」
鼻の頭をさすりながら、太郎丸がニンマリと口の端を歪める。殴られた事を気にしてはいないようだが、相当痛かったようだ。
「まあ、流石にフライパンの角でしたからね……」
「うむ」
情け容赦の無い一撃だった。と、遥か後まで太郎丸は語り継いだと言う。
そうこうしていると、どこからか良いニオイが漂って来た。
「はい、お待たせ。出来たよお兄ちゃん」
スダチがボロ板に載せて持ってきたのは、柔らかく煮た豆とニンジンに少量の肉を加え、甘い味付けで整えた定番の田舎料理だ。
「こんなので良かったら、お二人も……」
「あら、有り難う御座いますスダチさん」
「かたじけない」
ヤマトのベッドを囲み、暫し食事に興じる四人。
スダチの手料理は簡素ではあったが中々の味わいで、保存食に飽きた冒険者の舌を楽しませるには十分すぎる物だ。
「へぇ、お前料理上手くなったんじゃね?」
「本当、とても美味しいです。スダチさん、良いお嫁さんになれそうですね」
「うむ……相違ない」
口々に料理を褒める三人にスダチは赤面し、モジモジと身体を揺り動かす。そして口の先を尖らせ、多少の不満を込めて言った。
「お兄ちゃん、いつも急に帰って来るから……先にわかってたら、何か用意するのに」
「無茶言うなよ。ノエルだったら定期的に来るんだから、良いじゃねぇか」
その台詞に、ますます不満の表情を深めるスダチ。
この男はまた、何もわかっていない――そんな思いを胸に抱きながら、苦笑を噛み殺す太郎丸とアデリーネ。どれだけ自分に対して無関心なのかと呆れ返る。
「そういえば、お兄ちゃん。今日はノエルさん一緒じゃないんだ?」
「ん……まあな。アイツは別件で出張中だ」
「ふぅん? 珍しいね、いつも一緒なのに。何してるか気にならない?」
そう無邪気に問われ、一瞬言葉に詰まるヤマト。
気になるかと言われたら、そりゃあ気になる。だが、自分が気にしてどうこうなる事では無い。何故ならノエルは、自分には不釣合いな……生きとし生けるもの全ての財産とも呼ぶべき、希少な天使なのだから。引き止められるならそうしたいし、これまではそうして来たのだが……。
「いや、まぁ気になるって言うか……こっちにも色々と事情が……」
「ノエルさんはきっと寂しがってると思うよ? 帰ってきたら、優しくしてあげてね」
「…………!」
言葉を失い、口をパクパクとさせるヤマト。
お前に言われなくても! と言い返そうか、そんな事ねぇよ! と怒鳴ろうか。
好き勝手言いやがって、こっちも何かと考える所があるんだよ!……と思ったヤマトだったが、口には出せない。下手な事を言って素直に突っ込まれると、それこそ困ってしまう。
「ぷっ。どうやらスダチ殿の方が、ずっと大人であるようだな」
太郎丸が可笑しそうに、軽く噴出す。
「そのようですね……ヤマト様、優しくしてあげて下さいね?」
口元を押さえ、クスクスと肩を揺らしてアデリーネも笑った。
「う……うるせぇよお前ら! メシ食ったら、さっさと寝やがれ!!」
ヤマトの怒鳴り声と他三人の楽しげな笑い声は、草原の風に乗って夜遅くまで響いていた。