第二十話:深海に眠る伝説(一)
ぽつり、ぽつりと水滴の滴り落ちる音と、生臭い磯のニオイ。暗闇に閉ざされた洞窟の中は外に比べ、格段に気温が低く肌寒い。
奥の方から流れ来たヒンヤリとした空気が服に入り込むのを感じ、ノエルはローブなんて物を着る選択をした半日前の自分を酷く責める。
「大丈夫かい、ノエルさん? いま少し、震えてたように見えたけど」
「いいえ、お構いなく。天使は寒冷耐性もあるので平気です」
軽く振り返り、後ろに居るサークスへと笑顔で応えるノエル。光を操って明りとする為、今は彼女が先頭なのだ。
天使に寒冷耐性があるのは本当だが、平気というのは嘘だ。冷気で傷を負うような事は無いが、寒い物は寒いし、鳥肌だって立つ。そしてノエル個人としては、温かい所の方が好きだ。
「そうかい? 流石は天使だね。僕なんて寒がりだから、鎧より防寒装備の方が重いくらいだよ」
そう言ってサークスは、白銀の鎧の上に羽織る二重のサーコートを指して見せた。鎧の下に着ている服も、普段より分厚い物にしているようだ。
正直、羨ましい。
そのサーコート、一枚貸してくれないかな……と思ったノエルだったが、言い出せない。何故ならば、彼女は天使だからだ。天使は厚着をして着膨れなんてしないし、寒さに歯を鳴らしたりしない。いつも純白のローブを身に纏い、優しい笑顔で微笑む……そういう物なのだ。
「それにしても、広い洞窟ですね……」
こうなれば話を変えて、気を紛らわせるしかない。
ノエルは身体から放つ光を増やし、明りの届く範囲を大きく広げた。
どこまでも続く湿った岩肌。そこに張りつくフジツボが、普段この場所が海の中にある事を示している。
ノエルとサークスが訪れたこの洞窟。これこそが五年に一度、地元民の間で『水無し』と呼ばれる大潮の日にだけ姿を現す海底洞窟だ。
「このどこかに、伝説に名を残す武具の手掛かりがある……という話なんだけどね」
サークスが地図を広げ、明りにかざす。海の底にあった洞窟入口を潜って、既に半日。分かれ道や目印を書き記す地図の記号も、随分と増えていた。
潮が引いて洞窟探索の出来る時間は、丁度丸一日。帰りの方が早く移動できると考えても、そろそろ引き返し始めないといけない時間帯だ。
「ノエルさん、もう少しだけ進んで……何も無ければ、引き返そう」
「……はい」
残念そうなサークスの声。無理も無い事だろう。この海底洞窟に、彼はたとえ一人でも挑戦したいと言っていたのだ。何の成果も無く引き返すなど、相当に後ろ髪引かれる物があるに違いない。
この洞窟は以前より、伝説の武具に纏わる噂の絶えない場所だった。その為、五年ごとにある大潮の日には多くの冒険者が訪れ、彼らによって入り口近辺は隅々まで探索し尽くされている。
今回、二人が訪れているのは入り口から更に一歩奥へと踏み込んだ深層部。未探索で、地図もろくに書かれていない未知の領域だ。危険だが、それ故に何かがあるのでは? と期待してしまう。
「すまない、ノエルさん。せっかく来てもらったのに、無駄に終わるかもしれない」
ノエルが放つ光を頼りに、更に奥へ。天井が低くなり、道が細くなって来た。
これまでの経験から、こういった道は行き止まりになっている事が多い。サークスの言葉は、それを感じての物だったのだろう。
「いいえ、無駄だなんて……私は見聞が狭いので、良い経験になります」
「そう言ってくれると、ありがたいな」
道は細くなりつつもまだまだ続き、気温も更に下がる。
付近の岩にはフジツボも、海草の類さえも付いていない。いま二人が歩いている場所は、普段ならば海の底にあって、本当に深く暗く、太陽の明りも温もりさえも届かない場所なのだろう。
「ノエルさんは、いつもヤマト君と一緒に活動しているの?」
「ええ……実を言うと、ヤマト以外と組んでコンビで冒険に出たのは、これが初めてです」
ノエルの答えに、サークスが意外そうな声を上げる。天使ならば引く手数多だろうに、これまでに一度もパートナーを違えた経験が無いだなんて。そう、彼は言った。
サークスの驚きは勿論だとノエルも思う。実際、とても多くの人たちからパーティーに誘われ、引抜きにあった。半ば脅迫に近い事をされた事さえある。
だがその全てをノエルは断った。ヤマトと一緒でなければ、彼女にとって冒険など何の意味も無いからだ。
「それが、どうして僕と? どういった心境の変化があったのか、聞かせてもらっても良いかな」
「ああ、それは……」
ヤマトに行けと言われそうな気がしたから。
「サークスさん、この冒険に随分思い入れがあるようでしたから。私で力になれるのなら、と」
「なるほどね……そうか」
返事をしたサークスの声には、どこか残念そうな響きが混じっていた。
「まあ確かに、この冒険……というか伝説の武具という存在について、かなり強い執着を自分でも感じている」
「目標や夢という事ですか?」
「うん。正確には僕の夢では無いけれどね」
そうして会話を交わす内、終着点が訪れる。
「行き止まり……ですね」
先細りの通路は、人が一人立てる程度の広さだけを残して途切れていた。あるのは、足元の水溜りだけ。
「残念ですけどサークスさん、引き返し……」
「いや、ちょっと待ってくれ」
ノエルを避けて前に出て、サークスが行き止まりにしゃがみ込む。そして剣を抜くと、足元の水溜りへ差込んだ。
すぐ底にぶつかるとか思われた剣だったが、その刃はスルスルと水に飲み込まれ、柄の部分を水上に残してもまだ底には届かない程だ。
「これは……深いな。ノエルさん、明りを!」
眩い明りによって照らし出される水溜り。水の透明度は高く、かなり深くまで視線が通るようになる。だがノエルの光をもってしても、その底は未だ暗闇に閉ざされていた。そして微かに、横道が更に奥へと続いているように見える。
「まだ、この向こうに道が続いてるんだ!」
ここは行き止まりでは無かった。多くの冒険者は水溜りの中に続く通路に気付かず、あるいはここで時間切れとなり、引き換えしたのでは? もしくは水の中を進めず諦めたのでは無いか?
サークスが熱の篭った声を上げる。
「行こう、ノエルさん! 隠されて何かに、僕らは近付いている!」
「でも……」
既に半日が過ぎている。今から大急ぎで引き返したとしても、潮が満ちるまでに入り口まで戻れるかどうか微妙な所だ。それに、この水中の道がどこまで続いているかわからない。そもそも何かがあるとは限らない。だからここは安全策を……とは思う。
だがサークスは行く気だ。止めたとしても振り切って行くだろう。どうしても行きたいと、強い意志を湛えた彼の目が雄弁に語っている。
「……わかりました、行きましょう。でもサークスさんはここで待っていて下さい。私が行ってきます」
「え!? いや、しかし……」
ノエルの意見に驚きの声を上げるサークス。そんな彼へ、天使の少女は落ち着いた声で、諭すように言葉を紡ぐ。
「私ならしばらくの間呼吸をしなくても平気ですから、水路が長くても大丈夫。それに明りの問題もありません。水中でも光子を噴射して、普通に泳ぐよりも速く移動できます。ですから……」
最後の言葉を飲み込むノエル。言わずとも彼女が何を言いたいのか、サークスにもわかった。
自分一人の方が良い。貴方がついて来ては、足手纏いだ……遠まわしに、ノエルはそう言っている。
肩を落すサークス。確かに、自分がついて行った所で、足を引っ張るだけであろう事は火を見るより明らかだ。本当なら自ら水路を進み、隠された伝説を垣間見たい……だがその思いをぐっと飲み込んで、サークスは言った。
「ノエルさん、キミに任せるよ」
「はい、任せて下さい。朗報をお伝え出来るように、頑張りますね」
こうしてサークスの夢は、ノエルの双肩に託されたのだった。