第一話:暗闇の中で
戦闘シーンあり。残酷な描写がございますのでご注意下さい。
深い洞窟。暗闇が支配するこの場所では、松明の明りなど蛍火に等しい。しかしそれでも燃え盛る炎は自らの役割を果たし、洞窟の岩壁を明るく赤く浮かび上がらせる。
そこに響くのは足音、水音、激突音。澱んだ空気がふわりと動き、腐った水と湿った土の嫌な臭いが鼻腔へと流れ込む。それはべっとりと顔に付着した泥水の臭いだ。
「ちっくしょっ!」
水溜りに倒れこんだ少年が悪態を付き、片手で顔の汚泥を拭い捨てた。泥を擦った跡が日に焼けた肌に残る。
歳は十五くらいだろうか。多少目付きは悪いが、それなりに整った顔の少年だ。
簡素な革鎧を纏ったその身体は若干小柄で力強さは無いが、無駄が無くシャープで機敏な印象を与える。手にした短剣もまた薄汚れてはいたが、使い込まれた刀身は剣呑な輝きを放ち、切っ先の鋭さに衰えは無い。
着古した服を泥で汚した少年は倒れたままで頭を振り、黒髪から滴る泥水を散らせて視線を上げる……と、そこに鋭く尖ったツノの先端が迫っていた。
「うぇっ!?」
情けない悲鳴を上げながらも身を捻り、突き出される角を辛うじて避ける。革鎧を掠めた角が硬い岩壁を穿ち、盛大な音と火花を散らす。
慌てて起き上がり、数歩後退して体勢を立て直す少年。汗ばんだ手をズボンで拭いて短剣を握り直し、改めて視線を真正面へと向ける。
そこには赤銅色の肌をした、異形の怪物が立っていた。
逞しい人間の身体に雄牛の頭を付けたような外見。その頭部には鋭く尖った二本の角が生えている。身長は少年の倍。腕や脚、胴の太さは倍以上もある。
その怪物の名はミノタウロス。少年はこの凶暴な怪物を倒すために、暗くジメジメとしたこの洞窟へと足を踏み入れたのだ。
『ぶおぉぉぉぉぉーっ!』
ミノタウロスが吼えた。腹に響く重低音が洞窟の壁を震わせる。
ちょこまかと逃げまわる少年に業を煮やしているのか、怪物の爛々と輝く瞳には闘争心と怒りの色が見てとれる。
がつっ、がつっ。
岩と蹄とがぶつかる音が断続的に響く。ミノタウロスが地面を蹴る音だ。突撃前の牛が良く見せるこの動作の意味が、そのまま眼前の怪物にも通じる事を少年は知っている。
「この牛野郎……ちょっと優勢だからって良い気になりやがって。見てろよ」
呟いた少年は短剣を両手で握り、腰の横で構えた。片手で使う事しか想定されていない短剣の柄は短く、両手では持ち辛い。しかし贅沢を言える状況では無いだろう。
「さぁ来やがれ、ケリつけてやる!」
少年が叫ぶ。それを合図としてミノタウロスが鼻息を噴き出し、頭を下げて姿勢を低くした……次の瞬間!
「ぅごぁッ!?」
巨大な岩石と勢い良くぶつかったかのような衝撃。少年は数メートルの距離を吹き飛ばされていた。地面に落下してもその勢いは衰えず、更に数メートルを転がって岩壁にぶつかり、ようやく停止する。
この時になって少年は自覚した。自らの予測が甘かった事を。ミノタウロスの突進がいかに恐ろしい物であるのかを。頭を低く下げた時こそ、牛頭人身の怪物が驚異的な瞬発力と比類なき突進力を発揮し、真の脅威となる瞬間だったのだ。
「ぐぇっ、げほっ! げほげほげほ……がはッ!」
肺から無理矢理追い出された空気が咳となって少年の口から飛び出す。同時に吐血。汚泥が鮮やかな赤で染まる。
血で汚れた口元を拭おうとして、右腕が妙な方向に曲がっている事に気付く。右足も同様に、膝の下で関節を無視して真横に折れ曲がっていた。他にも左の鎖骨に肋骨数本、指も何本か折れているようだ。
「げはっ! ぐあ……痛ってえぇ」
ダメージを認識すると同時に、痛みがこみ上げてきた。咳き込む度に全身が激しく痛む。
見ればミノタウロスは既に体勢を整えていた。逞しい両腕を広げて真っ直ぐに立ち、少年を威嚇するかのように角をゆらゆらと揺らしている。その頭部からは、元々二本あった角の間に三本目の角が生え出していた。
マズい、このままじゃやられる。
今すぐ立ち上がり、ミノタウロスの追撃に備えなくては。しかしボロボロになった身体は思うように動かず、無理に動かそうとすれば激しい痛みを返してくる。
「くそっ……」
悪態をつき、少年は付近に目を走らせる。衝突の際に取り落とした短剣を探しているのだ。
しかし松明が照らす範囲に短剣は転がっていない。それ以前に短剣が見つかったとしても、砕けた指では手に取る事さえ難しいだろう。
万事休す。
だが少年は諦めない。諦めるわけにはいかない。
挫けぬ強い意思で痛みを押さえ込み、ミノタウロスの動向に気を配りながら手探りで短剣を探す。汚泥に潜む石コロに指が触れる度に目の眩むような痛みが襲ってくるが、集中を途切れさせるわけにはいかない。再度突進を受けたが最後、そこに待つのは確実なる死なのだ。
「……ん?」
ミノタウロスを注視しながら短剣を探す内、少年はある事に気がついた。
怪物の頭から新たに生えてきた三本目の角。その一本だけが他の二本と形が違っている。見ようによっては十字架のようにも見える形、それは少年が今探している短剣の、柄部分の形状に酷似していた。
「もしかして……」
呟いた思いが、現実の物となる。
短剣だ。少年の短剣がミノタウロスの頭蓋に深々と突き刺さっているのだ。
『ぶほっ、ぶほ、ぶっ……ほっ…………』
ミノタウロスの荒かった鼻息が途切れ途切れとなって行く。頭の揺れが大きくなり、身体が傾き、膝が折れる。やがて呼吸が途絶えた時、雄牛の巨体は地鳴りと共に汚泥の中へと倒れ落ちた。
「へっ、へへ……やった! ざ、ざまぁ見やがれ……げほげほっ!」
咳き込みながらも、血まみれの口元を歪ませる少年。
怪物とはいえミノタウロスも生き物には違いない。頭に剣を突きたてられては無事で済まなかったようだ。倒れた後はピクリとも動かず、せいぜいが時折り手足を痙攣させるだけ。白目を剥き、口からは長い舌がだらしなくはみ出している。
「よし、あとは戦利品を持っ……げほっ、げぼ……げぼっ!」
辛うじて強敵を屠った少年。しかしその代償は大きい。
咳き込む度に吐き出される血は、時間と共にその量を増やしている。食道か、肺か、内臓のどこかに損傷を負ったのかもしれない。
「ちょっと……や、やばいかな……」
治療しなくては。腰のポーチに入れてある治療用の薬を飲みさえすれば急場は凌げるはずだ。
辛うじて動く左手でポーチを探り、細いガラス瓶を探り出す。透明な瓶の中には薄水色の液体が封入されており、揺れ動く度に淡い光を発する。これが魔法の傷薬、通称『ポーション』。飲めばたちどころに傷を塞ぎ、体力を回復させる。少々値は張るが、荒事に関わる者にとっては必須とも言える薬だ。
「痛っ……よっ、んぐぐっ!」
複雑な紋様が刻まれた蓋を開けようと指先に力を込める。しかし思いのほか蓋は固く閉められており、また折れた指が自由にならない事もあって、なかなか開ける事ができない。
「このっ。開けよ、開け……げほっ! も、もうちょっと……う、げぼっ」
苦しい。喉に溜まった血に溺れてしまいそうだ。指先が痺れて感覚があやふやになり、靄がかかったように目が霞む。体中の痛みがまるで他人事のように感じ始める。それはつまり魂が肉体を離れ、温かな身体が冷たい肉塊へと変わってゆく瞬間でもあった。
「まずい……死ぬ」
朦朧とする意識の中、少年は死を間近に感じた。いつの間にか視界は暗闇に閉ざされ、指先には何の感覚も無い。一瞬でも気を抜けば深い暗闇の中へと引きずり込まれ、二度と戻ってこられなくなる。その確信がある。
「死ん……で、たまる……」
見えない目を開き、感覚の無い身体を動かして死に抗う少年。ポーションを飲みさえすれば、少しでも回復できれば。
しかし流れ出しす血液と共に抗う力も、強固な意思も、彼に宿る様々な物が流れ出し、土へ吸い込まれて行く。
「…………」
間もなく、少年の思考が途絶えた。意識は深い暗闇の中へ。
そこには何も存在せず、何も感じない世界があった。空気も水も光も闇も無く、上下左右さえ無い、ただの空間だ。この空間で待っていればその内お迎えが来て、いわゆる『あの世』へと連れて行ってくれる。少年の魂はその事を知っていた。
そして魂の知識に違わず、お迎えがやってくる。
流れるようなブロンドヘアーに透き通るような肌。光り輝く純白の翼を背中に備えた、愛らしく幼い少女。彼女こそが神の使い、天使。自ら発する輝きを反射して頭上に浮かぶ光の輪は、彼女が本物である事の証明だ。
彼女は少年のすぐ傍に舞い降り、泥で汚れた頬にそっと触れて優しく声をかけた。
『――ヤマト、大丈夫?』
鈴を転がすような声を心地よく感じながら、少年は思う。お前が迎えに来てくれたのか、と。
少年は天使の少女に見覚えがあった。幼い頃に木の下で出会った小さな天使。可愛らしい顔を涙でぐしゃぐしゃにして泣いていた、あの天使だ。
『いま、治してあげる。あまり心配させないで』
少年の全身を淡い輝きが包み込む。その光は暖かく柔らかな羽毛のような優しさでもって、傷と痛みをそっと払い落としてくれる。
――心配させないで――いつの頃からだろう、その言葉を多く聞くようになったのは。昔はそんな事、無かったのに。
『ほらヤマト、ぼんやりしてないで、そろそろ行きましょう』
――行くって、あの世か? そうだな、心残りは色々あるけど、お前が案内人ってんなら……それもいいか。
差し出された天使の手を握る少年。身体を包む光が輝きを増し、目の前が真っ白になる。ふわりと浮き上がるような、それでいて落ちているかのような浮遊感に身を任せ、手を引かれるままに少年は光の中へ――。
「……っ! ヤ……起きてお願い! ヤマトっ!!」
真っ白な光から抜けると、そこは薄暗い場所だった。澱んだ空気に腐った水と湿った土の臭い。そして目の前には、見目麗しい天使の少女。
少年の手を握りしめ、必死の声をかけてくる彼女。その手の温もりは先ほどまでと何ら変わり無い。だが彼女は幼い天使の姿では無かった。面影はあるものの、その姿は少年と同程度――少女と呼べる外見をしている。
「う……んぅ?」
「良かったヤマト、気が付いた! んもう、本当に心配したんだからね!?」
今にも泣き出しそうだった少女の表情が、ぱっと明るくなる。
そうだ、この顔だ。あの時、差し出した手を握り返してきた時と同じ、絶望の中にあって希望を感じさせる笑顔。この笑顔を守りたくて、俺は……。
少年は――ヤマトは、未だはっきりとしない頭で天使の名前を呼んだ。
「……ノエル」
天使の少女、ノエル。子供の頃に木の下で出会って以来、もう十年の付き合いになる幼馴染。
「俺、どうなって……ここ、あの世か? 天国にしちゃあ薄暗いけど、もしかして地獄に落ちた?」
「もう、何言ってんの。地獄に天使がいるわけないでしょ?」
そっと目元を拭うノエル。
「天国でも地獄でもないわ。ここは洞窟、あなたが倒れてた場所よ」
少し怒りながら、それでいて笑っているような複雑な表情で彼女は続ける。
「ヤマトが一人でミノタウロスやっつけに洞窟へ行ったって聞いて私、飛んで来たのよ? そうしたら血塗れで倒れてるの見つけて……」
ノエルの背中から生える一対の翼が、ヤマトの身体を包み込むように広がっていた。そこから放たれる光の粒子が彼の痛んだ身体に触れる度、心地よい温かさが生まれ、傷が塞がってゆく。
「こうやって治してたってわけ。どう、少しはマシになった?」
「ああ、随分ラクになってる」
ノエルたち天使と呼ばれる種族は、自らが発する光の粒子を操り様々な奇跡を起こす。ヤマトの身体を癒すこの力も、その内の一つだ。
あれほど苦しかった呼吸は楽になり、咳も出なければ血も吐かない。折れた手足も少しずつではあるが回復し、元通りになってゆく。
「手足が千切れでもしてない限りは治せるわ……って言ってもまだ時間かかるから。完全に治るまで動かないでね」
治療に集中する為に目を閉じたノエル。その整った横顔をじっと見つめるヤマト。
――そうか、天国じゃ無かったんだな。またノエルに助けられたってワケか。
彼女にばれないよう、ヤマトはそっと溜息をついた。彼が窮地を救われたのは、これが初めてでは無い。これまでに何度も救われ、助けられてきた。その度にヤマトは同じ溜息をつく。また助けられてしまった、と。
「……気を落さないでヤマト。人間がミノタウロスと戦って、命があっただけでも大したものよ」
隠したつもりだったが、見透かされていたようだ。微笑を湛えたノエルの優しい慰めが少年の心を、プライドを薄く削り取る。
――お前が来なけりゃ死んでた。
その本音を押さえ込むヤマト。
勝てると思っていた。勝てない相手では無いと。楽勝とはいかないまでも、なんとか倒せるだろうと踏んでいた。ところが蓋を開ければこの有様だ。結局、今回もまたノエルに助けられてしまった。
「もう、また溜息出てるよ? そんなに卑屈にならずに元気出して。今回の事、本当に凄いって思ってるんだよ?」
「ああ、わかってるよ」
疎ましげに答えるヤマト。もっと上手くやれたはずなのに、という思いが中々頭から離れない。
しかしノエルの言うとおりだ。卑屈になっていても仕方がない、ミノタウロスと相打ちだって大したものじゃないか。そう考え、気持ちを切り替える事にした。何より、彼女の前でこれ以上みっともない姿を見せたくは無い。
「よしっ!」
パチン、と乾いた音が響く。ヤマトは自らの頬を張って陰鬱な気分を払拭すると、驚き顔のノエルを真っ直ぐに見つめて口を開く。
「悪かったよノエル、サンキューな。来てくれて正直助かった。そろそろ腹も減ってきた事だし、治し終わったらさっさと引き上げようぜ!」
「……うんっ!」
明るく頷くノエル。
「それじゃあ早く治しちゃわないとね。もう外は真夜中だよ」
言って、天使の少女は嬉しそうに翼をばたつかせた。舞い散る光の量が増え、治癒速度がぐんと上がる。ぼんやりとした輝きでしか無かった光は、洞窟の壁面を照らし出して余る程の輝きへと光量を増す。
「今日の晩飯、何食おうかな。この時間じゃ日替り定食も終わってるだろうし」
「それじゃあ私が作ってあげようか?」
「お、そりゃ助かる! けどよ、前の時みたいな野菜尽くしは勘弁してくれよな」
他愛の無い会話。暖かい輝きが屈託の無い二人の笑顔を包み込む。こんな時間がずっと続けば……。言葉にならない気持ちが心を満たす。
だがそんな想いとは裏腹に、安息の時は終わりを迎えようとしていた。
「ん、なんだ?」
先に気付いたのはヤマトだ。
純白の輝きが照らし出す洞窟の岩壁。そこに何かの影が映っていた。それは不気味に揺らめきながら、次第に大きくなっている。
「どうしたのヤマト?」
小首を傾げるノエル。その時、壁に映る影が動いた。
「ノエル! 後ろだっ!!」
「え……きゃっ!」
ヤマトの警告とノエルが弾き飛ばされたのは、ほとんど同時だった。短い悲鳴と共に華奢な身体が洞窟の壁に打ち付けられ、その衝撃は岩壁を揺らし、細かな砂を舞わせる。
「ノエルっ!」
叫ぶヤマトの眼前には、倒したはずのミノタウロスが立っていた。
牛頭の怪物は倒れた時と同じく、脳天に短剣を突き立てられたままの姿だ。深々と刺さったそれによって満足に首も回せない、そんな状態でミノタウロスは立っていたのだ。
精気に満ち溢れ赤銅色をしていた肌は黒ずみ茶褐色に。瞳は濁った血のような深い赤に染まっている。その姿を一言で言い表すなら……。
「……悪魔」
ヤマトの口からこぼれ出た言葉は、図らずも怪物の本質を言い当てていた。
その悪魔が太い右腕を振り上げる。攻撃の瞬間に備え、体勢を整えるヤマト。しかし腕は横合いへと向きを変える。その方向には、壁を背に力無く倒れている天使の少女。
「やめろっ!」
叫び、飛び出すヤマト。矢のような速度でミノタウロスに体当たりを見舞い、殴り、組み付き、爪を立ててすがり付く。治りきっていない手足や内臓が悲鳴を上げるが、構ってなどいられない。
しかしミノタウロスはそんなヤマトなど全く意に介さず、ノエル目掛けて腕を振り下ろす。二度、三度。振るわれた豪腕は確かな精度でもって、天使を硬い拳と硬い岩の間に挟み、叩き潰す。
打撃音と岩が砕ける音が響くたび、白い羽が舞い散る。
「うわぁぁぁっ!! この野郎! やめろ、やめろってんだ糞ウシ! こっち狙いやがれ!!」
気が狂いそうな程の焦燥感と無力感がヤマトを襲う。どんなに頑張っても、死に物狂いで挑んでもミノタウロスを止めるどころか拳を逸らす事さえ叶わない。これでは何もせずただ見ているのと同じだ。
「畜生っ!」
ミノタウロスとノエルとの間に割って入ろうとするヤマト。しかし腕の一振りで吹き飛ばされてしまう。薙ぎ払われたヤマトは独楽のように回転しながら宙を舞い、地面に叩きつけられる。たった一発で体中の骨が砕け、何本もの筋が千切れた。声すら出す事ができない。
鬱陶しい雑魚を片付けたミノタウロスはノエルへと向き直り、拳を大きく振り上げる。次は渾身の一発を見舞うつもりのようだ。
それをなんとか阻止しようと、ヤマトは砕けた手足で地面を這いずる。しかし……遠い。ミノタウロスとヤマトの間には距離的にも実力的にも、努力や根性だけでは埋まる事の無い開きがあった。
『ぶおぉぉぉっ!』
雄叫びと共に振り下ろされる豪腕。ヤマトをボロボロにした一発を遥かに上回る速度の、体重が乗った鉄拳。それがノエルに叩きつけられる。耳が痛い程の打撃音と共に空気が震え、岩が砕けて壁に亀裂が走る。
「……っ!」
無事を願う叫びさえも掻き消す爆音。それが一瞬の衝撃波となって過ぎ去った。
振動の収まった洞窟に、闇と静寂が戻る。
拳を振るった体勢のまま、ミノタウロスは動きを止めていた。まるで天使を葬った余韻を楽しんでいるかのようだ。
ヤマトは何もできなかった。いや、彼は死に物狂いで頑張ったのだ。だがそれは、全くの無駄に終わってしまった。悔しさ、後悔、哀しさ……様々な負の感情が津波のように押し寄せる。
そして動き出すミノタウロス。壁から引き剥がすように、拳をゆっくりと引き戻してゆく。その光景から思わず目を逸らすヤマト。拳が退いた場所には、ぺちゃんこに潰され無残な姿となった天使が……そう思ったからだ。
しかし彼の想像は、現実と重ならない。
「んぐぐぐ……ん~っ!」
拳と岩壁の間から漏れ出す純白の光。
「よ……よくも好き放題に殴ってくれましたね! このくらいで天使が倒せると思ったらっ!……大間違いです!!」
光の中にはノエルがいた。驚いた事に彼女はその細腕でミノタウロスの豪腕を受け止め、押し返している。そして翼を大きく広げたかと思うと、気合の掛け声と共に巨大な怪物を投げ飛ばしたのだ。
地響きが起こり、岩盤が砕けて小石が落ちる。そんな中ふわりと空中に浮かび上がったノエルは、凛とした態度でもって倒れたミノタウロスを指差す。
「あなた、悪魔に魂を売りましたね? 死を逃れる為とはいえ……その行為を見逃す事はできません」
輝きの中で佇むノエル。その優雅な姿は絵画に表される天使そのものであり、世界最強を誇る種族『天使』としての威厳に満ちている。
彼女が羽ばたく度に何本もの羽が空に舞い、光へと姿を変える。それらは大小様々な光の球となり、暗闇の中をゆっくりと漂う。
「悪魔と取引して安易な力を得た事、恥と知りなさい!」
光の球が輝きを増す。危険を察し、ミノタウロスが真っ赤な目を見開き低い唸り声を上げた。そして体勢を低くして頭を下げ、足で地面を掻き始める。突進の準備動作だ。二人の距離はそう離れていない。気を抜けば驚異的な瞬発力で瞬く間に間合いを詰められ、尖った角で串刺しとなる。
ノエル、気をつけろ。
そう叫ぼうと力を振り絞るヤマトだったが、声は出ず微かな呻きが漏れ出すのみ。しかしノエルはそれに気付き「心配しないで」と呟き微笑んだ。その表情には確かな実力に裏打ちされた絶対の自信が見て取れる。そして――。
『ぶおぉぉぉっ!』
ミノタウロスが突進を開始した。一瞬、姿が掻き消える程の急加速でもって、ノエル目掛けて真っ直ぐに突き進む。心臓が一回脈打つ程の間に、その間合いは回避不可能な物へ。
「ノエルっ!!」
全く避ける素振りを見せない天使の少女へ、ヤマトの喉奥から声が絞り出された。その声に呼応するようにノエルの周囲に漂う幾つもの光球が、鋭い槍に形を変える。
「悔い改めなさい!」
放たれる光の槍。それはまるで、光の雨。
夜空の星が全て飛来したかのように、無数の輝く槍が一斉にミノタウロスへと襲い掛かり、幾重にも貫いく。その速度は彼の怪物が見せた突進などとは比べ物にならず、真なる光の速さ。人間の動体視力では輝く軌跡を追うのが精一杯だ。
漆黒の巨体を貫いた光の槍は、軌跡を残しつつ地面や壁に当たって跳ね返り、二度、三度と怪物の身体を貫き通す。それが全ての槍で繰り返され、やがてミノタウロスの姿は大きな光の球に包まれ、覆い隠されていた。
「神よ……罪深き者を許したまえ」
ノエルの言葉に見送られるようにして、高く、長く、ミノタウロスの断末魔が洞窟内に響く。
その雄叫びが反響を終え、洞窟内に静けさが戻る頃、光の球は弾け散るように消え、その場には真っ白に燃え尽きた灰のような物だけが残る。これが悪魔に魂を売り、天使にケンカを売った者の成れの果てだ。
傷付いた身体を庇いながら、ヤマトは風に流され消えてゆく灰を複雑な思いで見つめていた。