第十七話:記憶の中の故郷(二)
視界の全面を埋め尽くす深い緑。息をすれば空気が濃く感じられ、静寂の中に耳を澄ませば柔らかな葉の擦れ合う小気味良い音や、植物が水を吸い上げる音さえも聞こえてきそうだ。
木々の生い茂る森の中、所々に架けられた橋や、木材を加工して作ってある道具の類が微かな生活臭を感じさせる場所。ここがアデリーネの生まれ故郷、エルフの隠里だ。
「どうだ、アデリーネ。懐かしいモンとかあるか?」
「はい……景色は、私の記憶とは随分違っています。ですが所々に懐かしさを感じさせる物があります」
愛しげに樹木を撫でながらヤマトの問いに答えるアデリーネ。
自分がこの郷を離れてから、どれくらいになるだろうか? 木は育ち、あるいは枯れ果て、目に見える物は随分と変わっている。だが空気は……郷の雰囲気は、あの頃のままだ。
視線を上げれば、樹上に細い枝を組み合わせて作られた家のような物が見える。そこから垂れ下がる蔦を使い、子供の頃の自分は、この広い郷の中を思うがまま自由に走り回っていた。木と木の間に備え付けられた、朽ちた板。それを的に、弓矢の練習に励んだ日々が蘇る。
風の音、森の香り、落ち葉の感触。
何故、忘れていたのだろう?
きっと、屋敷での生活には必要が無かったからだ。思い出しても辛いだけだと、記憶の底に沈み込んでいたのだ。
「ヤマト様。私、少し見て回って来ても宜しいでしょうか?」
「おう、行って来いよ。俺たちはココで待ってるから」
ヤマトと太郎丸にぺこりと頭を下げると、アデリーネは軽やかなステップで土を蹴り、郷の緑に溶け込むようにして木々の隙間へと消える。その何気ない所作の中に、エルフが森の人と呼ばれ理由の一端を垣間見るヤマトたち。
「……自分の家とか、見に行ったのかな?」
「わからぬ。だが長い時間を生きる彼女らにとって、過去と向き合う事は何か特別な意味があるのだろう」
喋りながら、適当な倒木に腰を下ろすヤマトと太郎丸。二人ともずっと我慢していたが、この郷に入ってからという物、ノーウェイから受けた傷が地味に疼く。この場の清浄な空気に、悪魔の呪詛が反応しているのかもしれない。
二人は申し合わせたかのようにザックから水筒を取り出し、口に運んだ。少し温い液体が喉を潤す。水筒の中身は、ノエルが作ってくれた薄めのポーションだ。レモン風味で、ほんのりと甘い。
「過去ねぇ……そんなモンかぁ? 昔の事なんざ、どうでも良いと思うけどな」
「周りにとっては、そうだろう。しかし本人にとっては、重要な事もある」
諭すように言った後、何かを思い出しているのか、自分の手をじっと見つめる太郎丸。どこか、寂しげだ。
ヤマトは彼の過去について何も知らない。知っているのは、ここよりもずっと東の出身で、剣の扱いが得意だから冒険者になったという事くらい。家族や恋人の有無も、故郷を離れた理由も、そういえばちゃんとした年齢さえも知らない。
少しくらいは、詮索したい気持ちもある。だが……どうでも良い。
太郎丸が実は財閥のおぼっちゃんでも、勇者の血を引く子孫でも、凶悪な犯罪者だったとしても、今の自分にとっては関係が無いと思える。短い期間ではあるが一緒に旅をしている内に、理屈では無くそう感じるようになった。
「そういやぁ……ここって、人の気配がしねぇな」
ヤマトは話を変える事にした。昔話は、また今度で良いだろう。本人が必要だと感じた時で。
「……エルフは、長寿故に出生率が低い。その為、何かしらの理由で数が極端に減った場合、あっさりと全滅してしまう事があると聞く」
太郎丸が答える。出発前、サークスより聞き及んだ知識だ。そして、彼はこうも言っていた。
「アデリーネ殿は子供の内にここを去り、詳細は覚えていないと聞く。いくらエルフが賢く、魔力に長けるといっても、子供を一人で郷の外へ行かせるような真似はせぬだろう。ならば当時、子供を一人行かせねばならぬような理由が……緊急避難が必要な何かが、ここで起ったのではないか?」
「緊急避難ってオマエ……例えば山火事とか? けど、そんな風には見えないぜ。それに、全員で逃げりゃ良いじゃねぇか。一人で行かせる意味がわかんねぇ」
太郎丸の語る推論に、ヤマトが疑問を返した。答えを期待したわけではなく、そうでなければ良いな、という期待を込めた反論だ。
「何があったのかはわからぬ。だが、そう考えればアデリーネ殿の記憶が曖昧な理由と人が居ない理由に、とりあえずの説明が付く。緊急事態が発生し、子供にとってはワケのわからぬまま、大人のエルフによって逃がされた、とな」
そこまで喋った後、一旦口を閉じる太郎丸。実はサークスは、まだもう少し予想を語っていた。アデリーネが何かを隠し、嘘を付いているのではないか、との予想だ。
だが、それをここで言うつもりは無い。
「単にココに飽きて他所へ移ったんじゃね? 街からも遠いし、不便だろ」
「馬鹿な。単身者の引越しでは無いのだぞ。そんな気楽には……」
「そうですよヤマト様。ここはここで、良い所もあります。住めば都なのです」
いつの間に戻っていたのだろう? アデリーネが木陰から姿を現した。本人に隠れていたつもりは無かっただろうが、あまりに自然な振る舞いであった為、周囲の緑に同化して認識できなかったのだ。
「おう、おかえり。どうだった? なんか良い物でも見つけられたか?」
「良い物、といいますか……太郎丸様のお話を、半ば裏付けるような物でしたら多少」
アデリーネの言葉に身を硬くするヤマトと太郎丸。自分たちの話を、どの辺りから聞いていたのか?
だが今はそれよりも、太郎丸の話を裏付ける物というのが気になった。
「見て頂きたい物がございます。お二人とも、こちらへどうぞ。その場所へ、ご案内致します」
百聞は一見にしかず。
そう考えたのだろう。アデリーネは多くを語らず、二人を郷の中央へと誘うのだった。