第十四話:幻の琥珀色(八)
残酷なシーンがございますので、苦手な方はご注意下さい。
床は砕けて瓦礫と化し、調度品は砕けて価値を失った。
ゴミ一つ落ちていなかった先程から一転。廃墟の如く変わり果てた室内。
埃の舞う部屋の中央付近で眩い光を放ち、音も無く、激しく渦巻く光子の群れ。その中心では悪魔に魂を売り渡した男が、神々の怒りによって容赦なく身体を焼かれている。
なんとも凄まじい威力。天使の御業に目を奪われたサークスと太郎丸の心に安堵が宿り、身体から緊張が抜け落ちる。
これで終わった。自分たちの勝ちだ。
「ダメです、二人とも油断しないで!」
しかし天使の少女ノエルは光を操りながら、未だ緊迫した声で言った。
「まだ……あと少し足りないっ!」
光が、次第に弱く、細くなって行く。
そして光の繭から現れ出でたのは、赤黒い塊。燃え残った肉のような、醜悪なる肉塊だ。
「いや、ノエルさん。確かに完璧では無いかもしれないが、流石にこれでは……」
生きてはいないだろう。微動だにしない肉塊を前に、サークスがそう言ったのも無理は無い。
無数のイボによって倍近くにも膨れ上がっていたノーウェイの身体は、その大きさを人並みにまで減じていた。そして、その身体自体も光によって貫き焼かれてクズ肉のようになり、時折り笛のような音を立てて褐色の肉汁が飛び出す以外、なんの反応も見せない。
「いいえ、まだです。悪魔はこうして人を欺き、油断を誘……ッ!!」
言葉を最後まで続ける事無く、突然ノエルの身体が勢い良く吹き飛ばされ、天井に打ち付けられた。
見れば焼け焦げた肉塊の中程から、真っ赤な色をした真新しい触手が勢い良く伸び、ノエルを押し上げている。
「チッ! 馬鹿な人間と違って、手の内がバレてイル天使の相手は厄介ダナ」
肉塊の中から声が聞こえてきた。先程まで聞いていたノーウェイの声から雑音を取り払い、不快な要素のみを残した、ある意味で洗練された声。
そして声に続き、肉塊から腕が突き出される。触手と同じ真っ赤な肌、尖った爪。その手の持ち主は肉を無造作に掻き分け、引き裂いて、その姿を冒険者たちの前に現した。
「……ヤア。ハジメマシテ」
その姿は肌が赤い以外に、人の物と大差無いように思えた。
ノーウェイから贅肉を削ぎ落としてシャープに整え、少々爪を伸ばしたような姿。大きな身体というわけでもなく、小さすぎるという事も無い。人間のごく平均的な体型、平均的な顔付きに見える。
ただ特徴的なのは、ノエルを突き上げた長い触手……尻尾だった。腰の中程から腕の半分くらいの太さを持つ、グネグネと動く尻尾が生えている。
「ソコのキミ……サッキは、凄ク痛カッタヨ」
土煙が爆ぜた……と思った時、その赤いノーウェイは太郎丸の眼前に迫っていた。
「ぐほぁッ!?」
腹部に衝撃。太郎丸の口から、鮮血と空気が押し出される。続けて下顎が蹴り上げられた。
目の前の景色がグルグルと回る……と思った時には、身体が空中で何回転もして床と壁に叩きつけられていた。
その時、太郎丸は何の痛みも感じていなかった。ただわかったのは、腹部に受けた一撃は背骨ごと身体を貫いて反対側に抜け、次の一撃でもって下顎と頚椎を砕かれただろう、という事だ。
剣を振るう間もなく倒されるとは、不覚の極み……だが、それを口にする事さえ叶わない。
「太郎丸さんっ!!」
天井に打ち付けられた格好のまま、ノエルが叫ぶ。
こんな事なら、あと少し……あと少しだけ光を集めて攻撃に移れば良かった!
後悔の念が、少女の胸を押し潰す。
普段とは違う連携。先手必勝を期すサークスと太郎丸の攻撃は激しく速く、この上無く強烈な物だったが……ノエルには早過ぎた。悪魔を滅する聖なる光。それを集めるには時間がかかるのだ。
二人の攻撃が止み、ノーウェイが攻撃に転じて動きを止め、隙を見せた時がチャンスだと思った。しかし、光の収束が不十分だった。もっと弱い相手であれば倒せていたかもしれない。だがノーウェイに取り付いた悪魔は思いの他強力で、彼の敵にはあと少し……時間にして四秒ほど足りなかった。
「このぉっ!」
全力を振り絞って尻尾を振りほどき、太郎丸の元へ急ごうとするノエル。
「ソウはサセ無イ」
言葉通りの意図でもって、ノーウェイは尻尾の先を八つに割いてノエルの身体に絡ませた。そして手足の爪を床に付き立てて踏ん張ると、渾身の力でもって振り回し、所構わず叩き付け始める。
「きゃ……!」
「コレナラ、チカラを溜メル事、叶ワヌ。アノ獣が死ヌマデ、コウシテ遊ンでクレヨウ」
天使であるノエルは、神の加護によって悪魔の攻撃でダメージを受ける事は殆ど無い。だが掴んで振り回されては、光を集めて行使する天使の能力自体が使い辛い。集中が出来ないのだ。
しかもノーウェイの能力は先程までよりも更に上昇していた。人としての肉体や自我を失い、より純粋な悪魔に近付いた為だ。
早く、早く尻尾を引き千切り、太郎丸の元へ行かなければ。腹部に受けた傷は間違いなく致命傷だった。一刻も早く治療を行わなければ、彼の命はもう……!
「さ……サークスさん! ポーションを、太郎丸さんにっ!」
全回復には及ばないだろうが、即効性のある回復薬であるポーションを与えれば、太郎丸生来のタフネスと相まって多少の延命措置くらいにはなるはずだ。振り回され、目を開ける事さえ困難な状況の中で、命の灯火を繋ごうとノエルは必死に叫ぶ。
「あ、あぁ……」
弱々しい返事がサークスから返る。だが彼は動けなかった。
怖かったのだ。
自らの誇る必殺技。それを大きく上回る天使の攻撃。それらを持ってしても悪魔は倒れる事無く、逆に太郎丸を一瞬で打ち倒してしまった。
今の自分は完全に戦力外であり、相手にされていない。だがもしも、下手に動いて目立ったなら……次は自分の番かもしれない。その思いが、無意識下での恐怖が。サークスの足に釘を刺し、その場に繋ぎ止めてしまう。
「サークスさんっ!!」
「ククク、ヤハリな。臆病者メ」
「くっ……!」
ノーウェイも、こうなる事を予測していたのだろう。それ故に太郎丸を先に打ち倒し、サークスを後回しにしたのだ。
焦るノエル。もう時間が無い。こうする内にも太郎丸の腹からは血が大量に流れ出し、心臓の鼓動が弱くなる。呼吸は……既に止まっている! 早く、なんとかしないと……!
「はい、そこまで!!」
唐突に、ノーウェイが体勢を崩した。踏ん張っていた手足が床から離れた……というよりも、踏ん張っていた床が周囲から切り離されて、足場としての機能を失ったのだ。
この気を逃さず、渾身の力で尻尾を振り払うノエル。
「チッ! コノ……!」
舌を打ちながらノーウェイが振り返り、尻尾の先端を見る……が、既にノエルは脱出済み。まんまと天使に逃げられてしまった。
一体何が起こった?
足下に微かな気配を感じて視線を落せば、いつの間に忍び寄ったのだろう? 短剣でもって足元の床を引っぺがすヤマトの姿が映った。
「あ、見つかっちまった。よう、はじめまして……か?」
「雑魚が、味ナ真似を」
戦闘が始まるや否や姿を消していた一番の臆病者。この四人の中で最も弱い小僧であり、最もムカつく糞野郎。それがノーウェイの、ヤマトに対する認識だ。そんな雑魚が、今更何をしに来たというのか。
とりあえず蹴りの一発でも見舞ってやれ。それだけで脆弱な小僧の身体は真っ二つとなり、即死するだろう。
そう考え、ノーウェイが軸足に力を込めて蹴り脚を振りかぶった瞬間……多量の細かい砂が顔にぶつかり、視界を覆い尽くした。
「グッ、ブァっ!?」
凄まじい速さの蹴りが、砂煙を真っ二つに切り裂く。そこにヤマトの姿は無い。
「目潰シとは小癪ナ……!」
悪魔と化したノーウェイは、砂が少々目に入ろうと痛みは無い。だが視界が悪くなるのは必然だ。
コーヒーの件といい、今回の目つぶしといい。このヤマトとかいう小僧は要所要所で顔を出し、邪魔をする。取るに足らない雑魚でありながら、この上なくうっとおしく、腹立たしい。
「ソコかッ!」
「おっと!」
目の端に映った動く物体目掛け、鋭い爪を見舞おうとする。だが、またも何かがノーウェイの視界を覆い隠した。
今度は砂では無い。目の前に現れたのは、ヒラヒラと薄く大きな布……見覚えある、屋敷のカーテンだ。戦闘開始から姿を消していた間に、どこかの窓から拝借したのだろう。
苛立ちと共に爪で薙ぐと、小気味良い音を立てて横一文字に引き裂かれるカーテン。その隙間から見えた景色に、またもヤマトの姿は無い。それとほぼ同じタイミングで、横合いから同じようなカーテンが投げ掛けられ、再度ノーウェイの視界を奪う。
「フザケルな小僧ッ!!」
ノーウェイの苛立ちは頂点に達した。
両手と尻尾を使い、顔に纏わり付くうっとおしい布地を細切れに破いて捨てた。ようやく開けた視界。その正面に、表情を強張らせるヤマトの姿を捉える。
「悪魔をココまで愚弄シタのだ。小僧、覚悟は良イな!」
「く……」
これ見よがしに腕を構え、ヤマトに刺すような視線をぶつけるノーウェイ。脆弱な肉体を引き裂かんと爪が鋭さを増し、骨ごと捻じ切ってやろうと腕の筋肉がはちきれんばかりに膨らむ。
そして悪魔は、レベル4の少年に死を贈ろうと一歩を踏み出す……が、その場で足を絡ませて転んでしまった。
「な、何ッ!?」
「くっ……ぷははっ! 蹴躓いてんじゃねぇよ、ばぁか!」
ヤマトはそう言って笑ったが、ノーウェイにはわかった。何かに躓いたのでは無い。足に何かが絡まっているのだ。
自らの下肢を見れば、ロープの両端に錘が付いたボーラと呼ばれる道具が両脚に絡み付いている。狩りの時などに、獲物の足止めを目的として使われる投擲用の道具だ。カーテンに気を取られている隙に、投げ付けられていたのだろう。
「ほれ、もう一丁!」
「ガァッ……!」
ヤマトの投げたボーラが、今度はノーウェイの顔に命中する。更に何本も何本も投擲され、これでもかというくらい幾重にも絡みつくボーラ。これも先程の砂と同じだ。痛みは無いが視界は遮られ、蜘蛛の巣が顔に絡まったかのような不快感。うっとおしい事この上無い。
「ヤマト! 太郎丸さんに……!」
「わぁってるよノエル! おらよっ!!」
ボーラを右手で操りながら、ヤマトは左手でベルトポーチから数本のポーションを取り出し、太郎丸へと投げ付ける。
ガラス容器に入れられたポーションは血塗れで倒れた人狼の身体にぶつかり、粉々に砕けて降り注ぐ。直後、傷の周辺から湧き上がる魔法の光。
「これでとりあえず、血は止まるだろ。後はノエルっ!」
「うん!」
頷き合う二人。ノエルは大きく羽ばたいて舞い上がり、ヤマトは腰を低くして短剣を構える。
その様子に、焦りを感じたのはノーウェイだ。
もう時間が無い。あと十数秒もすれば天使は力を溜め、降魔の光を放つだろう。本来なら逃げたい所だが……小賢しい小僧の道具類が厄介で、天使を振り切れるとは思えない。
こうする間にも、光が天使へと収束して行く。
それならば……!
「一瞬で小僧を殺シ、天使を叩キ落シテクレル!」
可能な筈だ。人狼さえも反応できない悪魔の瞬発力を持ってすれば、トロい人間に一撃を加える事くらい容易い。さっきは目潰しを食らい外したが、今度は外さない!
両の脚に力を込め、思い切り床を蹴るノーウェイ。弾け飛んだ床材が地面に落ちるよりも早く、ヤマトの眼前に迫る。そして繰り出すのは硬く握り締めた拳。こいつで、どてっぱらに風穴を開けてやる!
だが流石に無警戒の相手とは違う。目で追いきれてはいないようだったが、ヤマトは反射的に腕を下げてノーウェイの拳をガードしていた。
しかし、甘い。
スローモーションのように感じる世界の中、ガードした腕の肉がひしゃげ、骨が折れる感触がノーウェイの拳に伝わる。皮が裂け血が噴出し、折れた腕もろともに拳は胴体に命中。貫くには至らないが、肋骨の大半と内臓のいくつかに深刻な損傷を与えた手応えがある。
拳を振り切ると、小僧の身体はいびつに曲がって反対側の壁まですっ飛んで行った。勢い良く壁に激突し、力無く地面に横たわる膳寂な人間。命はあるかもしれないが、これで戦闘不能だ。残るは天使のみ!
頭上を見上げれば、天使の娘は未だ力を溜めている最中だ。無防備な今なら、容易に攻撃を加える事が出来る。
「貰ッ……!!」
高く跳躍しようと、身体を縮込めて備えた時だ。突然、後頭部に強い衝撃を受けた。
よろめき、膝を付くノーウェイ。瞬時に硬い物がぶつけられたのだと悟った彼が見たのは、甲高い音を立てて床を叩く鋭い曲刀。それは瀕死の太郎丸が、力の全てを振り絞って投げ付けた愛刀だった。
「半死人が、ヨクモヤッテクレタ物ダ」
先に死にかけの人狼を片付けるか? いや、今は天使が優先だ。
ノーウェイが見せた、一瞬の迷い。その一瞬で、またも事態が動く。
「舐めてんじゃねぇぞ、オラァ!!」
立ち上がりかけていたノーウェイは、またも唐突に側頭部への打撃を受け、床に手を付いた。
今度は、助走を付けた飛び蹴り。相手は……致命傷を与えたはずのヤマトだ。
「何故……!?」
混乱するノーウェイ。ヤマトには、かなりの痛手を与えたであろう事は間違い無い。骨は折れて内臓は傷付き、とても飛び蹴りを放てるようなコンディションでは無いはずなのに!
「ばぁか! ポーションに決まってんだろ!」
あらかじめダメージを受けるとわかっていたヤマトは、それを見越してポーションを飲んでおいたのだ。
例えば高い場所から飛び降りる時などにあらかじめポーションを服用する事で、着地の衝撃を受けた直後から回復が始まり、結果的に傷を浅くする事ができる。ポーションは効果時間が短い為、直前に使用しなければならないのがネックではあるが、生存率を上げる為に冒険者の間では良く使われるテクニックである。
「太郎丸へ投げるついでに、自分も飲んでおいたんだよ。気付かなかったか?」
気付かなかった。顔に絡まったボーラを取る事に専念していた為だ。
「まぁ弱い奴には、弱い奴なりの戦い方があるって事だ。わかったか、バカ!」
なんという邪魔臭さ。なんという腹立たしさ。
雑魚だからトドメは後回しで良いと考えたのが、そもそもの間違いだったのだ。一番ムカつくこの小僧を、一番最初に殺すべきだった!
「つっても、俺は使用人逃がすのにウロウロしてて、最初ここに居なかったけどな」
「小僧……ッ!」
怒りに全身を震わせ、ゆっくりと立ち上がるノーウェイ。
今度は油断しない。今度は如何なる動きも見落とさない。一挙手一投足を観察し、小僧が得意とする不意打ちの類は絶対に許さない。確実に首を刎ね、回復の及ばぬ世界へと一撃で叩き落してくれる!
「貴様は殺ス!!」
「やなこった! 食らいやがれ!!」
案の定、ノーウェイが動きを見せるとヤマトも動いた。ポケットの中に隠し持っていた何かを流れるような動きで取り出し、投げ付けて来る。
「見切ッタ!!」
予想通りの行動。
ノーウェイはその場で踏み留まると、ヤマトが投げ付けた小さな何かを凄まじい動体視力で見極め、鉤爪で両断した。その上で爆発物の類を警戒し、顔を庇う。
「…………?」
だが、何も起らない。
両断された小さな何かは、力無く地面に落ちて転がった。
それは、一粒のコーヒー豆。
「もう、ネタ切れだ」
ヤマトの声に、ハッとして顔を上げたノーウェイが見たのは、会心の笑みを浮かべるヤマトと、自分の周囲に漂う清浄なる光の粒。
警戒しすぎたのだ。コーヒー豆などに構わず、思い切って突っ込んでいれば間違いなくヤマトの命は奪えた。だが何かあると思い、二の足を踏んでしまった。
自らの過ちに気付いた時、もう既にそこは、引き返す事のできない場所であった。
「終りです……悔い改めなさい」
「ヌオオォォォ!! 糞ガアァァァァッ!!」
周囲に漂う光の粒が槍と化し、ノーウェイの身体を幾重にも貫く。光の槍は互いにぶつかり反射しあい、輝く軌跡が重なり合って輝く珠が形成される。
そんな中、獣のような絶叫が屋敷に響く。
「ヤマト、覚エてイロ!! 貴様ダケは、何千、何億回生マレ変ワロウとも見ツケ出シ、最高の屈辱と絶望を与エテ……」
ノーウェイが……いや、彼に取り付いていた悪魔が最後に発した呪いの言葉は、途中から断末魔となって虚空に消えた。降魔の光は闇の住人に対して容赦する事無く、完膚なきまでに存在を抹消する。
やがて輝きが消え、静寂なる時が訪れた時。
疲労困憊、満身創痍の冒険者たちの前には、神に逆らった者の成れの果て……真っ白な灰だけが残されていた。