第十三話:幻の琥珀色(七)
残酷なシーンがございますので、苦手な方はご注意下さい。
高価な調度品が並ぶ広い室内。その奥まった一段高い場所に立つ男から、目に見えない力の波が断続的に放たれている。その波を受けた時、人はただ立っているだけで肌が粟立ち、脚が震える。
耐え難い恐怖の為に。
「皆さん、逃げて下さい! 今すぐにっ!!」
鋭く大きな声でノエルが叫んだ。我へと帰った使用人たちは、か細い悲鳴を上げながらアタフタとこの場を離れ始める。
恐怖を発散しているのは、屋敷の主人であり、冒険の依頼人でもあるノーウェイだ。しかし今となっては彼をノーウェイと呼んで良い物かどうか疑問が残る。人というカテゴリを、大きく逸脱しつつあるのだ。
顔から全身に広がった赤色は深みを増し、濁った血のような色に。そして彼の四肢にはブクブクと丸いブドウのような塊がいくつも飛び出し、内側から服を押し破ってどんどん増殖を続ける。更には胴体部分も革袋に水を注ぐかの如く肥え太って行き、垂れ下がる脂肪で目は塞がり、腹には何段もの肉ヒダが出来上がる。
「こいつは……悪魔憑きか!」
生き物が、地獄からの囁きに耳を傾け堕落した姿。それが悪魔憑きだ。
非常に強い欲望や欲求、恐怖といった感情を感じ取って悪魔はやってくる。そして彼の甘言に身を委ねた瞬間、身体も魂も、全て悪魔の物となってしまう。
「おいノエル! 悪魔憑きになるのって、生きモンが死ぬ時くらいじゃねぇのかよ!?」
震える手で短剣を抜き放ち、ヤマトが叫ぶ。
ちょっと前に彼が戦った牛の怪物ミノタウロスは、死の間際に悪魔憑きと化して猛威を振るった。死の恐怖と生への執着が、件の怪物を悪魔憑きとさせた原因だろう。
だが目の前に居るノーウェイは違うはずだ。
「多分、死ぬほど恥かしかった……この恥辱を味わうくらいなら、悪魔に魂を売った方がマシだと感じたのだろうね」
言いながら最前線へと踏み出し、サークスも剣を抜いて構える。
「憤死、という言葉もある程だ。屈辱だったのだろうな」
隣に並び立つ太郎丸。彼も臨戦態勢で、いつでも抜ける構えだ。
「つまりヤマトのせい……」
「俺かよ!? いや、ちょっとからかったくらいで死ぬほどキレなくても良くないか?」
「冗談よ、ヤマト。きっとノーウェイさんは、ずっと前から目を付けられてたんだと思う……それに悪いのは誰でも無い、人の弱みに付け込む悪魔なんだから……!」
翼を広げて浮かび上がるノエル。彼女を守るかの如く男たちは陣形を組み、戦いの準備が整う。
「理由はどうあれ、生きとし生けるもの全ての敵である悪魔に、交渉の余地はありません! 戦い、滅するのみですっ!」
ノエルの凛とした声が響く。それは神の使いであり悪魔と相反する存在、天使としての言葉であると同時に、この世界に生きる者全ての常識でもある。
甘い誘いでもって生き物を堕落させ、魂を奪おうと目論む悪魔たち。そのしもべとなった者を、野放しには出来ない。
「ギザマら……許サヌぞ……コノ恥辱……」
しゃがれた声を上げて赤黒い身体をぶるりと震わせ、段上で一歩を踏み出すノーウェイ。質量保存の法則を無視して膨れ上がった重量で床が砕け、片足がめり込んだ。
その瞬間、戦いの火蓋が切って落された。
「これ以上待つ道理も無い! 先手を取らせてもらう!!」
言うが早いか、サークスと太郎丸が飛び出した。
段上のノーウェイだったモノ目掛けて突進して一気に間合いを詰め、至近距離で放つ必殺の一撃。
「食らえ、滅空ッ!!」
魔力迸る銀の剣が振り下ろされ、空間が歪む程の衝撃波が生み出される。巨大なスライムを塵へと帰した技だ。
ノーウェイを中心として、毛足の長い絨毯が激しく放射状に波打ち、余波を受けた椅子が砕け散り、床材が粉々になって宙に舞う。更には壁に大穴が開き、隣の部屋まで瓦礫と一緒にノーウェイを吹き飛ばす。
「ふっ!!」
壁を蹴り、空中の瓦礫さえも足場として、吹き飛ぶ最中のノーウェイへ追い付いた太郎丸が、裂帛の気迫と共に間髪入れず斬撃を叩き込む。
未だ滅空の威力が残る衝撃波の中心。舞い上がる粉塵のキャンパスに、物差しで引いたような美しい直線が三本刻まれた。すり抜け様の、目にも止まらぬ剣閃だ。
「ぐガァッ!」
ノーウェイが獣のような呻き声を上げて仰け反り、瓦礫の中へと倒れこむ。一発で止めを刺すには至らなかったが、かなりの痛手を与えたようだ。プドウのように膨れたイボが千切れ落ち、ダブダブの腹にも深い傷を負っている。そして、そこからは真っ黒な液体がドロドロと流れ出していた。
「このまま押し切る!」
「おおっ!!」
サークスが再度、滅空を放つ為の集中に入る。その数秒という時間を、太郎丸の畳み掛けるような連続攻撃が稼ぎ出す。
幾重にも重ねられた剣閃。それら一つ一つは、悪魔憑きとなり高い防御力を得たノーウェイの致命傷とはならない。しかし確実に彼から体勢を立て直すチャンスを奪い、反撃の手を封じていた。
「よし、もう一発……ッ! 避けろ、太郎丸!!」
サークスが剣を斜めに振り下ろし、爆風と共に二度目の衝撃波が放たれた。
体勢を崩したままのノーウェイに回避の術は無く、またも直撃。周囲の瓦礫同様に肉は千切れ、身体の末端から順に粉々に粉砕されて塵になって行く。
だが……。
「ぶふっ……ブフはははっ! コノ程度か、白銀のサークス!!」
鋼さえも塵と化す滅空の勢力範囲から、ノーウェイの笑い声が響く。彼は一連の攻撃を耐え切ったのだ。
身体の表面を削り取られてタールのような体液を垂れ流してはいたものの、重要器官にはダメージが無かったようだ。一度は千切れたブドウのような肉豆も黒い体液の中からみるみる再生し、元以上に身体全体を覆い尽くして行く。
「今の技ガ、切り札ナノダろう? ブフハッ! 笑止千万! 多少痛イが、恐レるに足りヌぅ!!」
身体を揺らし、真っ黒な体液を飛び散らせて笑うノーウェイ。垂れ下がった瞼の下で、赤黒い眼が不気味な輝きを増す。
「今度ハ、コチラの番……だ!」
ボンッ! と、ゴム鞠が弾むような音。気がつけば、ノーウェイは高々と飛び上がっていた。全身の肉豆をバネにして跳ねたのだ。そして天井にぶつかり、再度ゴム鞠のような音を響かせて反射。斜めに飛んで、壁にもぶつかって、更に反射。繰り返す度、速度が徐々に上がって行くのがわかる。
その体型からは想像し難い敏捷さと凄まじい速度。反射のたびに天井や壁が悲鳴をあげ、弱っている箇所には穴が穿たれた。
更に二度、三度。壁や柱を蹴って加速すると、遂に方向を定めて真っ直ぐにサークスへと迫る。
「マズは、貴様だ!」
「くっ!! だが……甘いッ!」
高速で飛来するノーウェイに対し、サークスの対処は冷静だった。
素早く身を屈めると、イボだらけの肉塊を両断すべく、その進路上へ垂直に剣を差し出す。しかし……。
「ぐあぁぁッ!?」
サークスの剣が命中した直後、甲高い金属音と共にガリガリと岩肌を削るような音が響き、激しい火花が散った。悲痛な声はサークスの物。彼が握っていた銀の長剣は手を離れ、床の上を滑って行く。その刃は所々が欠けてボロボロになり、鋭利だった切っ先は削れて丸くなっている。
「どうヤラ、甘かっタのは、オマエの方だったなサークス」
部屋の中央付近、床を大きく窪ませて停止したノーウェイが、嬉しそうにたるんだ頬肉を歪ませた。剣が命中したと思われる胴部には金属の擦れた跡は残るものの、傷とはなっていない。しかもその痕跡さえ時間と共に消えて行く。
悪魔との契約は、傲慢な男にゴムのような弾力性と金属並の強度を持つ身体。そして化物じみた再生能力を与えていた。
「噂に名高いオマエも……」
足下に滑り来た銀の剣。それに一瞥をくれて脚を乗せ、軽々と踏み割るノーウェイ。
「我がチカラの前には、無力!」
彼が力を誇示し悦に浸ると、ブクブクと泡立つようにして全身の肉豆が更に増えた。
最早四肢と呼べる部分と胴体部分の区別すら曖昧で、イボイボの付いた赤黒いボールに小さな突起として頭が乗っているような状態だ。
「お次ハ誰ヲ……」
声も濁り、元の肉声を留めていないノーウェイ。ゴボゴボと汚泥から湧き上がる気泡のような不快な声だ。
剣を失い、手を負傷した様子のサークスを戦力外と見極め、ノーウェイが獲物を求めて首を廻らせると……頭上に眩いばかりの光が見えた。見上げれば、赤黒い身体が漂白されるような純白の輝き。天使が放つ、光子の煌きだ。
「悪魔と取引をして安易な力を得た事こそが恥と知りなさい!」
ノエルが光を解き放つ。
気付いた時にはもう、ノーウェイの身体は光の中にあった。
蛍のように漂う無数の白い輝きが、緩急をつけて彼の身体を貫き通す。
「グブぉ……!」
悪魔の肉を貫いた光は別の光とぶつかり、元来た方向へと戻る。その際にもう一度肉を貫き、更に別の光とぶつかって別方向へと走る。そしてまた肉を貫き……そんな事がノーウェイの周囲で、何千、何万回と繰り返される。
周囲から見てそれは、光の残像が紡ぎ出す細い糸によって、輝ける繭が生み出されて行くかのような光景だ。
「こ、これが天使のチカラ……なんて、美しい……!」
痛む手首を押さえながら、サークスが呟く。
強力かつ無慈悲な光の奔流は、神々しい輝きを放つ天使の姿と共に、青年の心に強烈な印象を刻み込んだ。
それは人がどれほど望んでも届かぬ高み。神の領域。
この瞬間、サークスの中で何かが変わった……そんな気がした。