山猫との出会い
スナイパートライアルを終え、孤高の戦士であることを認識した美津子の前に現れる一人の壮年男性。
運命の出会いが始まる。
第九話〈新たな出会い〉
<前半>
スナイパートライアルは七位で終わった。
結果だけ見れば悪くはない。
だが――黒木美津子の中では、納得のいくものではなかった。
(……もっとやれた)
そう思っていた。
狙撃には絶対の自信があった。
静止した標的も、移動する敵も、呼吸一つで仕留めてきた。
だがトライアルは違った。
戦闘。
移動。
連携。
その全てが絡み合い、純粋な「狙撃力」だけでは勝てない競技だった。
戦闘で撃たれる。
位置取りで遅れる。
判断がズレる。
結果、タイムロスが積み重なった。
そして――
渡辺未来との初めてのペア。
悪くはなかった。
むしろ、良い部分も多かった。
だが、完璧ではなかった。
(……当然ね)
美津子は自嘲する。
そもそも、自分は誰かと組むことに向いていない。
判断は一つでいい。
責任も一つでいい。
その方が、ずっと楽だ。
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離婚してからずっとそうだった。
一人で息子を育て、
一人で働き、
一人で生きてきた。
誰かに頼ることなく。
誰かに縛られることもなく。
それが当たり前になっていた。
(……一人がいい)
その感覚は、もう身体に染み付いている。
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トライアルから一カ月後。
美津子は北関東の森林フィールドに来ていた。
知らない場所。
知らない顔ぶれ。
それがいい。
人間関係をリセットできる。
ただの“参加者の一人”に戻れる。
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このフィールドは特殊だった。
終日、濃霧。
それで有名な場所だ。
森の奥は、白く霞んでいる。
いや――霞んでいるというより、沈んでいる。
視界は良くて十五メートル。
遠くても二十メートルが限界。
それ以上は、ただの白。
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そのため、通常は禁止されることの多いレーザーポインターが許可されていた。
赤い光が霧の中を線となって伸びる。
まるで、見えない敵をなぞる指のように。
また、サーマルカメラを持ち込む者もいるらしい。
熱源で敵を捉える。
まるで別のゲームだ。
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美津子は、自分の愛銃――L96に緑色のレーザーポインターを取り付けた。
普段は使わない。
使う必要がないからだ。
だが、この環境では違う。
(……使うかどうかは別として)
備えはしておく。
それが彼女の流儀だった。
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ホップ調整を行う。
二十メートル。
このフィールドでの実用距離。
それ以上は、ほぼ運に近い。
ボルトを引き、軽く試射。
問題ない。
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腰にはシグP226。
接近戦になれば、こちらの方が速い。
むしろ、この霧ではハンドガンが主役だ。
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参加者は三十人ほど。
地方のフィールドにしては適度な人数だ。
多すぎず、少なすぎない。
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ルール説明が終わる直前。
スタッフが一つ、注意事項を付け加えた。
「本日のゲームについてですが――」
全員の視線が集まる。
「すでにフィールド内に潜伏している参加者が一名います」
ざわり、と空気が揺れた。
「朝一番で来場され、潜伏を希望されたため許可しました」
「チームは赤のみ判明しています」
それだけ。
名前も、装備も、位置も不明。
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「一日潜伏して、ワンショットだけ楽しむそうです」
笑いが起きる者もいれば、黙る者もいる。
美津子は――黙っていた。
(……変わってるわね)
サバゲの楽しみ方は人それぞれだ。
だが、一日かけて一発だけ撃つ。
それは、かなり異質だった。
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ゲーム開始。
ホイッスルが鳴る。
霧の中へ、プレイヤーたちが溶けていく。
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美津子はすぐには動かなかった。
プリントしたマップを取り出す。
敵――赤チームの進行ルートを読む。
地形。
斜面。
遮蔽物。
そして選んだのは――左翼の斜面。
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ゆっくりと進む。
足音を殺す。
呼吸を整える。
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霧は、想像以上だった。
白い。
ただ白い。
数メートル先でさえ、輪郭がぼやける。
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ギリースーツをまとった美津子の姿は、地面と同化していた。
いや――
もはや存在していないに等しい。
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声が聞こえた。
左奥。
小さく、だが確実に。
(赤……)
ライフルをゆっくりと向ける。
スコープを覗く。
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何かが――動いている。
ゆらゆらと。
人影。
距離は二十メートルほど。
撃てる。
確実に仕留められる距離。
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息を吐く。
肺を空にする。
呼吸を止める。
指がトリガーにかかる。
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――その瞬間。
止まった。
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(……何?)
違和感。
説明できない感覚。
だが、はっきりとした“拒否”。
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――撃つな
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理屈ではない。
本能だった。
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美津子はトリガーから指を離した。
スコープを動かす。
左から右へ。
ゆっくりとスイープする。
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誰もいない。
何もいない。
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だが。
(……いる)
確かに感じる。
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二十メートル先の敵とは違う。
もっと遠い。
もっと曖昧で。
もっと――冷たい。
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見られている。
その感覚だけが、背中に張り付く。
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背筋が、凍る。
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これまで何度もスナイパーと対峙してきた。
読み合い。
気配の探り合い。
だが――
こんな感覚は初めてだった。
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「……」
動けない。
撃てない。
ただ、そこに伏せることしかできない。
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やがて――
ホイッスルが鳴った。
ゲーム終了。
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美津子はゆっくりと立ち上がる。
周囲を見る。
白い霧。
何もいない。
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(……気のせい?)
そう思おうとする。
だが。
胸の奥のざわつきは消えない。
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セーフティへ戻る。
歩きながら周囲を見渡す。
それらしい人物はいない。
誰もが、普通のプレイヤーに見える。
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ベンチに腰を下ろす。
ジッポを取り出す。
カチリ、と音を立てて火をつける。
タバコに火を移す。
煙を吸う。
吐く。
ゆっくりと、煙の輪を作る。
白い輪が、空中に浮かぶ。
その中心へ――
美津子はシグP226をドローし、突き出した。
輪の向こう。
見えない誰かに向けるように。
「……誰なのよ」
小さく、呟いた。
霧は、何も答えなかった。
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〈中盤〉
午前中――
黒木美津子は、結局一発も撃たなかった。
正確には、「撃てなかった」。
スコープ越しに敵を捉える。
距離も、風も、申し分ない。
撃てば当たる。
だが――
(……見られてる)
その感覚が、トリガーにかけた指を止める。
一度ではない。
二度でもない。
狙うたびに、同じ感覚が背中に走る。
誰かがいる。
見ている。
狙っている。
だが――見えない。
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何度かポジションを変えた。
斜面。
倒木の陰。
茂みの中。
どこへ移動しても、その気配は消えなかった。
(……何なのよ)
苛立ちが募る。
敵を前にして撃てないなど、これまでなかった。
狙撃手としての感覚が、完全に狂わされている。
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結局、午前最後のゲーム。
美津子はライフルを下ろした。
(……やめた)
思い切って戦い方を変える。
L96をケースに戻し、装備を軽量化する。
手に取ったのは、シグP226。
接近戦用。
本来なら、あまり好まない距離。
だが――
「……撃てばいいんでしょ」
小さく呟いた。
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スタートの合図。
同時に、美津子は前へ出た。
これまでとは逆。
待つのではなく、攻める。
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霧の中を走る。
視界は相変わらず悪い。
だが――近い距離なら関係ない。
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数秒後。
人影が現れる。
至近距離。
赤チーム。
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反射だった。
シグを構え、トリガーを引く。
――パンッ、パンッ、パンッ。
三発。
全弾命中。
「ヒット!」
相手が両手を上げる。
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(……当たるじゃない)
当たり前のことを、改めて実感する。
撃てば当たる。
ただそれだけのこと。
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美津子はそのまま中央へ向かった。
バリケード地帯。
最も交戦が激しくなる場所。
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銃声が響く。
あちこちでヒットコール。
怒号にも似た声。
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「前出てる!」
「右回ってる!」
「カバー!」
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混戦。
完全な近接戦闘。
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美津子もバリケードに滑り込む。
即座に射撃。
――パンッ、パンッ。
一人、倒す。
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だが次の瞬間――
カチン。
スライドオープン。
弾切れ。
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「……チッ」
素早くマガジンを抜く。
タクティカルリロード。
新しいマガジンを装填。
スライドを戻す。
一連の動作は無駄がない。
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(近接は苦手だけど――)
再び撃つ。
――パンッ。
敵が崩れる。
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(たまには悪くない)
むしろ、鬱憤を晴らすにはちょうどいい。
午前中、撃てなかった分。
その全てを吐き出すように。
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気づけば、赤チームの人数が減っていた。
押している。
流れは黄色側。
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(……いける)
美津子は判断した。
中央を抜ければ、フラッグが近い。
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低い姿勢で走る。
弾が飛び交う中をすり抜ける。
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そして――見えた。
フラッグ。
バリケードの先。
あと少し。
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その瞬間。
背中に、冷たいものが走った。
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(……来た)
まただ。
あの感覚。
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狙われている。
確実に。
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美津子は反射的に止まる。
周囲を見る。
左。
右。
前方。
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誰もいない。
霧だけ。
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だが。
(いる)
確信だけがある。
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次の瞬間。
美津子は伏せた。
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その直後。
横を、味方の黄色チームが走り抜ける。
一直線にフラッグへ。
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「いける!」
そのままフラッグに到達。
「フラッグゲット!」
終了のコール。
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美津子はそのまま地面に伏せたまま、動かなかった。
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(……今、確実に狙われてた)
だが――撃たれなかった。
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なぜ?
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「大丈夫ですか?」
声をかけられる。
振り返ると、さっき走り抜けた味方だ。
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「今……」
そのプレイヤーが言う。
「赤いレーザーポインター、一瞬肩に当たってましたよ」
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「……やっぱり」
美津子は小さく呟いた。
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(いた)
確実に。
しかも――
撃てる位置に。
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レーザーが当たる距離。
外すはずがない。
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なのに。
撃たなかった。
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(……どういうこと?)
理解できない。
狙っているのに撃たない。
それは狙撃手として、あり得ない選択だ。
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(何がしたいの……?)
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セーフティへ戻る。
装備を外す。
汗が一気に噴き出す。
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だが。
不思議と、気分は軽かった。
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「……スッキリした」
小さく笑う。
やはり撃ち合いは必要だ。
撃てないストレスは、思った以上に溜まっていた。
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バッグから弁当を取り出す。
手作りのおにぎり。
ラップを外し、一口。
米の甘みが広がる。
少しだけ、現実に戻る。
ポットからコーヒーを注ぐ。
温かい。
身体に染みる。
タバコに火をつける。
煙がゆっくりと揺れる。
その煙を見つめながら、美津子は考えていた。
フィールドに潜伏している赤チームの一人。
朝から姿を見せない存在。
(……あれなの?)
直感では、そう思う。
だが確証はない。
(ワンショットだけ、って言ってたわね)
ならば。
まだ撃っていない可能性もある。
(……でも)
それにしては。
(近くにいたはず)
その距離で、撃たない理由がない。
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心理分析。
それは美津子の専門だ。
言葉。
仕草。
選択。
そこから相手の意図を読む。
だが――
今回ばかりは、わからない。
午後のゲームが始まるまで。
そして、終わるまで。
その“正体”は掴めなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
――見られている
その感覚だけが、消えることはなかった。
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〈後半〉
午後――
霧はわずかに薄くなっていた。
それでも視界は三十メートルから四十メートル。
決して良好とは言えない。
だが――サバゲの距離としては、むしろ理想的だった。
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黒木美津子は、L96を構えた。
午前中とは違う。
もう迷いはない。
撃てる。
そう確信していた。
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グリーンのレーザーポインター。
トリガーを引く瞬間だけ照射し、弾道確認に使う。
常用はしない。
位置がバレる。
だが――この霧なら話は別だ。
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人影。
赤チーム。
距離、約三十メートル。
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呼吸を止める。
レーザーを一瞬だけ点灯。
――発射。
パシュ。
弾は一直線に飛び、相手の胸に吸い込まれる。
「ヒット!」
(いい)
感覚が戻っている。
次。
木の陰から覗く敵。
レーザー。
発射。
命中。
まるでリズムに乗るように、美津子は撃ち続けた。
午前中の違和感が嘘のように消えている。
(……いける)
だが。
赤いレーザーポインターは――
一度も、美津子に向けられなかった。
(……来ない)
あの気配は、完全に消えていた。
それが、逆に不気味だった。
最終ゲーム
空気が少し変わる。
一日の終わり。
全員が、最後の一戦に集中する。
美津子は右の斜面を進んだ。
足音を殺し、低く。
霧の中に溶け込む。
中央――
相変わらず銃撃戦が激しい。
音だけで状況がわかる。
(中央は任せる)
自分は狩る側だ。
その時。
視界の端に動きが入る。
三人。
赤チーム。
フォーメーションを組んで動いている。
前・中・後。
間隔を保ち、慎重に進んでいる。
(いい連携ね)
だが――
崩せる。
美津子はスコープを覗いた。
狙うのは――二人目。
(ここを落とせば、分断できる)
呼吸を整える。
指に力をかける。
その瞬間だった。
――ゾッ
背筋が凍る。
(来た)
同時に。
視界の外側。
赤い光。
レーザーポインター。
それが――
真っ直ぐ、美津子の額に当たっていた。
時間が、止まる。
(どこから……?)
思考が追いつくより早く。
――パシュ
一発。
音は小さい。
だが弾は正確だった。
避ける暇など、ない。
「ヒット!」
反射的に声が出た。
そのまま、美津子はゆっくりと立ち上がる。
(……今の)
レーザーが見えた方向。
――沢。
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川の中。
(あり得ない)
普通のゲーマーは入らない。
足場が悪い。
装備が濡れる。
何より――動けない。
(……でも)
確かに見た。
一瞬だったが。
間違いなく。
――水の中から。
ライフルを掲げる。
フィールドアウト。
セーフティへ向かう足取りは、いつもより遅かった。
(撃たれた)
それだけではない。
(完全に読まれてた)
狙う瞬間。
完璧なタイミング。
(……凄い)
悔しさよりも、先に出たのはその感情だった。
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セーフティ。
装備を外す。
その時だった。
「お疲れ様です」
声。
背後から。
振り向く。
そこに立っていたのは――
全身ずぶ濡れの男だった。
水が、服から滴っている。
ブーツも、装備も。
完全に水没していたのがわかる。
「拝見していて、なかなかの狙撃の腕前でしたね」
穏やかな声。
美津子は、じっと見た。
(……この人だ)
「貴方ですか?」
少しだけ、低い声になる。
「赤いレーザーポインター」
男は――
ゆっくりとブーニーハットを取った。
笑顔。
だが、その顔はフェイスペイントで黒く塗られている。
目だけが、妙に印象に残る。
「はい」
あっさりと認めた。
「私は澤登亮。通称、山猫です」
「山猫……」
「もう五十歳のおじさんですよ」
その言葉に、美津子は一瞬だけ目を見開いた。
(……五十?)
もっと若く見えた。
いや――
年齢では測れない何かがあった。
「ベテランですね」
「いやいや」
澤登は軽く笑う。
「サバゲ歴はまだ浅くて、十年なんです」
「……それはベテランですよ」
思わず言葉が返る。
少しの沈黙。
そして。
「今日の一発は、貴女に使わせていただきました」
その言葉に、美津子の胸がわずかに跳ねた。
「……私に?」
「はい」
穏やかなまま。
「朝から潜んでいたのは、そのためです」
(やっぱり)
「楽しかったです」
その一言。
軽い。
だが――
妙に残る。
美津子は、言葉を探した。
だが出てこない。
(何、この感じ……)
いつもなら。
他のゲーマーに興味など持たない。
だが――
目の前の男は違った。
静かで。
無駄がなくて。
そして――
異質だった。
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「……よければ」
澤登が言う。
「LINE、交換しませんか?」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
美津子は躊躇した。
(私は一人でいい)
そう思ってきた。
ずっと。
なのに。
気づけば。
手はスマホを取り出していた。
「……いいですよ」
自分でも驚くほど、自然に答えていた。
連絡先を交換する。
画面越しに名前が表示される。
「山猫」
その文字を、少しだけ長く見つめた。
「では、またどこかで」
澤登はそう言って、背を向けた。
ずぶ濡れのまま。
静かに歩いていく。
その背中を――
美津子は、目で追っていた。
(……何なの)
胸の奥が、落ち着かない。
(ただのゲーマーでしょ)
なのに。
(なんで……)
少しだけ。
ほんの少しだけ。
鼓動が速い。
タバコを取り出す。
火をつける。
煙を吐く。
だが――
いつもみたいに、落ち着かない。
視線は、まだ彼のいた方向を探している。
(……変なの)
そう思いながらも。
美津子の中で、何かが確かに動き始めていた。
美津子は無意識に澤登亮に一目ぼれしていた。
澤登との今後の行方はどうなるのか。
ダブル小説(進藤麻耶の賃貸不動産奮戦記)との連動により、本章は少し長目の文章となりました。
その分読みやすいようシナリオ調で書いてます。




