やかん 補足
Q1 生を消極的に肯定するとはどういうことか?
それは生のあり得べき可能性をその都度しらみつぶしに確認し、放棄することです。そして生の前に何も無くなったように見える、あるいは本当に無くなったかもしれない段になって初めて生を肯定するのです。そんな機会が訪れるかどうかは定かではありませんが。
Q2 何故そんなことをするのですか?
そんなことはやかんに聞いて下さい。やかんがそれを教えてくれたのですから。
Q3 やかんに聞くとは?
……聞こえないですか? では、私が代わりにお答えしましょう。生には様々な可能性があります。ある人はこういうでしょう。生とは幸福になるためにあるんだと。あるいはこうも言うでしょう。生とは勝つためにあるんだと。はたまたある人は真理を見つけるためにあるのだと。それ以外にも、欲望を発掘するために、理想を実現するために、セックスするために、美味しいものを食べるために、よく眠るために、などなどそれこそ数え切れないぐらいごまんとあるでしょう。だから、それらを退けるのです。何故? そんなの決まっているでしょう。生とは我々の道具ではないからです。やかん然り生然り。正確には、ただの我々の玩具というわけではないからです。
Q4 何故消極的な肯定は否定と遜色ないのですか?
生の可能性を放棄するところまでは同じです。それを何がなくとも続けるのが否定であり、何も無くなるまであるいは飽きて辞めてしまうまで続けるのが消極的な肯定なのです。どちらも生を称揚している事には変わりませんがそのアプローチが少し違うだけです。
Q5 蜜が滴り落ちているはずだと言っていましたが、それはどういう事ですか?
蜜……! 忘れていました。蜜です。重要なのは甘い蜜なのです。生の否定はからっからに干からびたスライムみたいな食感がしますが、消極的な肯定はそうではありません。風味豊かな味わい、指の間をすり抜けていく触感、そのどれもが我々の背中を控えめに後押しするのです。しかし、あくまでもそっと、誰にも気づかれないぐらいに。
Q6 何故火が止まった瞬間、疑義を抱かずにはいられないのですか?
音が止んだ瞬間、その手触りを失うからです。肉体的な感覚が損なわれ、精神は地べたに這いつくばります。あの軽やかな足取りが嘘のように感じられます。それらの微妙なバランスは一過性のものであり、再び舞い戻ることはないのだと痛感させられるでしょう。
Q7 繰り返しになるかもしれませんが、何故沸騰している最中にだけそれを信じられるのですか? やかんには何があるのですか? あなたはやかんに何を見ているのですか?
静動混じり合うからです。静的なものと動的なものが交差します。瞬間と持続がごっちゃになり、入れ替わり溶けあいます。どっちがどっちだか分からなくなります。どちらがどちらでも大して変わりありません。その確かな証拠はほとんど効力を失うのですから。そして、そのうちそのどちらもがそうであるように感じ始めます。
Q8 過去の私は他者よりも遠いとはどういうことですか?
私は他者を通して過去の私に出会うのです。他者が私を時間的に結びつけるのです。他者は私のちょうど真ん中にいるでしょう。良くも悪くも。現在の私と過去の私がそれぞれ紙の対角線上の頂点にいるとすれば、他者とはそれをくしゃっとまとめた紙そのものなのです。
Q9 何故やかんは深く潜るための重しであると同時に、合図でもあるのですか?
やかんには質量がありますよね? それが我々を「下に」運んでいくのです。物理的な方向としての下ではなく、表記の都合上、下と記しているだけです。それが下である特別な理由などないのです。水に浮かんだ紙の真ん中にボールを落とした時、紙がボールを包み込むようにくしゃっと丸まりますよね? それと全く同じことが起こるのです。やかんが我々の取り繕った表層を剥ぎ取り、あるがままを剥き出しにするのです。我々は水にぷかぷかと浮かんでいた紙であり、やかんの重量に巻き込まれて沈んでいく紙のその先端でもあるのです。やかんは我々のことを待たず即座にその下降を始めるでしょう。だから、私はそれを合図とも呼ぶのです。質量とは乖離の合図であり、そのけたたましい号砲がちっぽけな存在のその重みを告げるのです。乖離しつつ、それを蝕んでいくこと! 近づいているのにその音が静けさを増していくこと!
Q10 なぜ生の重みはやかんのそれと等価なのか?
逆に伺いますが、なぜ生の重みとやかんのそれが別物であると言い切れるのでしょうか? それが違うものであるという確信を抱かせるような出来事があったのでしょうか? それともやかんに生を背負わせるには余りにも荷が重すぎるとでも言うのでしょうか? もしやかんが生の重みを冠するに値しないと言うのならば、それに該当するものなど一体どこにあるというのでしょうか? そのことが否認されるのだとしたらどんなに生の重みに近しいと思われる物ですら、輪郭を失うことになるでしょう。それ自体が生との近さによってぷちっと消滅します。生は全てを呑み込み、もはや自身の影をも取り込んでしまうでしょう。やかんとはボトルネックであり、ある意味防波堤でもあるのです。生にその重みを付与し、無秩序な我々に代わって生のいななきを響かせるのです。




