case 2. インキュバス
<インキュバス:男の淫魔。女はサキュバスと呼ばれる。異性の夢に現れ、男を捕食し、女を孕ませる。異性を惑わすために、男女共に、非常に美しい姿をしている。>
(scene:某病院,15:00)
「お話ししてくれませんか。」
年期の入ったしわをさらに深め、壮年の男は問いかけた。
くたびれたスーツに身を包み、座った膝の上で拳を握りしめる。
彼に向かい合う形で席に座っているのは、少女のようにどこか垢抜けない、だが色香を漂わせる女だった。
彼女の瞳の中には、何も映ってはいない。
女の隣に立っている女性警官は、彼女の肩を両手で抱いて顔を覗き込む。
「山城さん、私たちはあなたの力になりたいんです。思い出すのもつらいかもしれませんが…。」
彼女が続きを言うことはなかった。
女が動いた。
ベッドのリクライニングにもたれていた女が突然起き上がり、刑事に向かって口を開く。
その目はきらきらと輝いていたが、正気とは違った。
「彼だったの。」
ひどく嬉しそうに、言葉を絞り出す女。
高ぶった気持ちを抑えられないとばかりに、手を振りかざし、笑みを浮かべていた。
近くに立っていた女警官が近寄って、優しく彼女をベッドへ寝かせる。
女の腕は細いのに、だいぶ力が強かった。
女警官は苦労して、ばたつく彼女を寝かしつける。
「生きてたのよ。私を愛してくれたの、いつもどおりに。神様がお恵みくださったのね。彼と私の子供なの。ああ、喜んでくれるかしら。」
彼女は興奮してまくし立て、聖書の言葉のようなものを続けて叫んだ。
刑事はそんな彼女を残念そうな目で見つめている。
「彼女、婚約前は、修道女であったらしくて。」
女警官は側に寄り、刑事へつぶやいた。
頭を抱えて、それから刑事は座り直し、未だに祈りの声を絶やさない女へ向かう。
女は振り向いた。
不気味な笑顔をたたえている。
刑事は声を大きくして、諭すように彼女へ告げた。
「あなたの婚約者は亡くなったんです。あなたも見たでしょう。あなたのすぐ隣で、横転したトラックの下敷きになったんです。」女は笑った。
「いいえ、いいえ。きのう現れたんですもの。私、彼の子を産みます。おめでとうと言ってください、刑事さん。」
刑事と女警官は顔を見合わせ、腰を上げた。
(scene:病院の廊下,AM15:30)
両者とも、無言でエレベーターへ乗り込む。
扉が閉まると、女警官が口を開いた。
「婚約者の川岸さんは死にました。彼女は何者かに、暴行を受けたのだと。」
刑事は振り返ることなく答える。
「ショックで正気を失っているようだな。しばらくしたら、話を聞けるだろう…、先日の被害者は、どうだ。」
エレベーターが軽い音と共に止まる。
開いた扉から、刑事が先に下りた。
女警官もあとに続く。
「ああ、同じ様子でしたね。まだ、なんとも言えません。」
外の光がまぶしい。
それはこの病院の中の不幸を浮き彫りにさせるような輝きだ。
刑事は眉根のしわをいっそう寄せる。
「気味が悪いな。もう三件目だ。早く犯人を逮捕しなくては。」
刑事の言った、気味が悪いとは、被害者の女性たちに向けられたもののようだった
「はい。」
開いた自動ドアから、二人はためらいなく外へと足を踏み出す。
(scene:教室,AM9:45)
女は黒板にすらすらと文字を書いていく。
その部屋には、けして少なからぬ人数がいるのだが、不自然に静まり返っていた。
教師と学生たちは、壇上の彼女をそれぞれの思惑を持って見つめている。彼女は手を止めず、頭の後ろ側へ神経をやった。
なんてことだ。こんな場所があったなんて。
彼ら全員ではないが、そのほぼ全てが化生だなんて、まだ信じられない話だった。
そこにいるのは、他の人間とどこも変わらない、平均的な青年たちなのだから。
うまく化けたものだ。
彼女が再び彼らに向かったとき、白いラインが流れるような筆記体をつくりあげていた。
通った鼻筋、細長く切り取られた金の目、折れそうなほどの華奢な体。
「バレッタ・シスター。」
彼女は一言だけ言い放つと、
一つだけ空いている席へと歩いた。
堂々としたその態度は、あまりにも見た目とかけ離れていた。
しばらくして、動き始める教室。
学生たちは近くの者と何かしらを囁き、教師はそれを諫める。
彼女はそれを気にすることもなく、ゆっくりと教壇を降りて、囁きの中を歩いた。
誰もが遠慮がちに、横目に彼女を見ている。
彼女は空いている席に目をやり、指先を机に触れた。
上谷かな。
殺されたリルの少女。
成績は上々、評判は悪くない。
目に情がよぎったように見えたが、見間違いだった。
それは、冷静な他人分析の視線だった。
すぐに固い椅子に座り、美しいが痩せぎすな足を組む。
その姿には妙な威圧感があり、誰も話しかけることはなく、ホームルームが終わった。
(scene:調理実習室A,AM11:30)
大きな調理台がゆうに20はあるだろう、広い実習室。
隣のBのクラスと合同の授業は、おもにここを使うらしい。
バレッタは他の学生と同じように、調理の実習服を着て、髪を帽子に入れる。
流れに乗って調理台についたとき、隣で声が聞こえた。
「ねえ、さっき、どこ行ってたの。」
背の高い男がバレッタに話しかけた。
二限目の実習の始まりのことだ。
たまたま近くにいた男。
彼女は作り笑いを浮かべた。
「別に。少し用事があったから。」
彼女はそれだけ言ってそっぽを向き、調理の用意を始める。
だが男はまだ話し続けている。
「初っ端から授業出ないとかやるねー。ね、バレッタちゃんって外人?ハーフ?」
うるさいな。
彼女は片手に持った包丁を握り締めかける。
「はい、今日は調理の授業です。初級は魚の捌き方から。二人一組で協力してやってください。」
突然、拡張された声が辺りに響いた。
この部屋はとにかく広いために、マイク無しでは指示が通らないのだ。
彼女は凶器となりかけた刃物を置いて、講師の話に耳を傾けた。
彼女には、そんな必要はない。
成績や授業など関係はないのだ。
だが上辺だけでもそうしていると、彼女の計算通り、男はそのおしゃべりな口をとじた。
作業自体はつまらなかった。
バレッタが今日、この時限に参加したのは、何もつまらない実技をするためではない。
この学校の学生について、詳しく知るためだ。
自由に動ける調理実習は、学生間のつながり、上下を調べるにうってつけだ。
その上、この時限はAに加え、Bの学生も参加する。
彼女の手間も省けるというものだ。
魔除には化生の本来の姿は見えない。
ただ、資料として渡された、個人個人のデータと、本人を見て確かめていくしかない。
使える人材を。
この計画を遂行するための。
もちろんそれもあったが、もうひとつ、これには目的があった。
彼女の仮説にすぎない、だが、それが事実であったなら、それはひどく¨おもしろい¨ことになりそうな。
「ねえねえ。」
再び、隣から声がした。
先ほどの男。
いつの間にか、彼とペアになっていた。
色のある女が遠くから睨む。
まったく、これだから。
「俺、青葉晃平。バレッタちゃん今日ヒマ?遊ばない?」
下心の見える笑顔だ。
青葉、と言ったか。
バレッタは頬を持ち上げた。
「いいよ。」
愛想よく笑ってやる。
本心の隠された笑みに彼は気付かない。
「まじ?じゃあ放課後ね。」
近寄ってきた講師を気にして、彼は食材に向かった。
先ほど見た、バレッタの真面目さを思ってのことだろう。
なるほど、女が惹かれるのには訳がある。
それは彼の技術であり、実践で積んだ経験だ。
化生としての、そして、生きうるための。
そう、バレッタは彼の正体を知っていた。
(scene:某居酒屋,PM10:00)
だいぶ酔いが回ってきた。
ショッピングモールで買い物をして回り、ゲームでさんざん遊んで、ようやく店へ腰を落ち着けたのが夜8時ごろ。
汗ばんだシャツがべたべたして気持ち悪い。
向かいには、未だ入ってきたときと同様に、シラフの顔でへらへらと笑う男。
隣の卓同士を程よく遮断し、尚且つ、店員からは目の届くように置かれた店の配置。
メニューの安さもあいまって、そのこだわりはとても気に入った。
店員がフルーツの添えられたジェラートを運んでくる。
それが置かれて、バレッタは彼女を見た。
「注文してないよ。」
店員は微笑んで答える。
「こちら、日替わりのカップルサービスです。本日は季節のフルーツのジェラートです。」
彼を見ると、にやりとこちらに視線を返してきた。
「ありがとー。」
と、すぐに店員へ人好きのする笑顔を向ける。
彼女はやや照れたように目を伏せて、空いた皿を下げて去っていく。
「ここ、来たことなかった?」
スプーンを手に、こちらを見ることもなく彼は問う。
「行くなら居酒屋より、バーの方が多い。」
彼女もジェラートに口をつける。
葡萄のジェラートらしい。
皮も入っているらしく、薄い紫が美しい。
「悪くない。」
「でしょ。これ食べたくて、女の子誘うときもあるくらい。あ、バレッタはそうじゃないから。」
そう言ってこちらを向いた彼の目は、あのどこかふざけたようなものではない。
真っ直ぐ射抜くような、男の目だった。
バレッタは手を休めずに深く息をはいた。
「アオ、君らしくないやり方だ。」
その返答に、男は訝しんだ。
まるでこちらを知っているような、と。
言葉につまる彼へ、バレッタはさらに問を投げかける。
「私は特別なの?それとも、私を知っているから?」
わざと重要な情報を抜かすような問いかけ。
「…バレッタ?バレッタは、一体…。」
青葉は、彼女の言うことを掴みかねていた。
だが、何か漠然とした不安めいたものは感じていた。
「もっと性急なものかと思っていた、その、手口は。それとも君だけなのか、しらないけど。インキュバス。」
そう呼びかけて、時が止まった。
音も、景色も、色も、気配も。
彼の笑いが剥がれていき、やがて色をなくす。
仕切られたこの個室だけ、別の世界のようだった。
「、そう。」
彼の動揺がようやく終わった。
納得したように、彼は応える。
「どうして知ってるのか、しらないけど。確かに俺は¨そう¨だよ。」
バレッタは食べ終わったジェラートのスプーンを置いて、テーブルにひじを突いた。
対して彼は緊張を解かず、ジェラートは溶けていく。
「怖がらないんだね。」
そう言った彼の、彼女を見る目が、警戒していた。
「仕事だから。」
「仕事ってケーサツ?」
彼の声が力む。
「そう、私のことは知らないの。」
バレッタは、ここがカウンター席でなくて心底よかった、と息をついた。
「今ニュースでやってる事件、確かにあれは俺らの種族がやったんだろうけど、でも俺は、」
「そんなことはどうでもいい。」
早口にまくし立てる青葉を遮り、バレッタは冷たく言い放った。
彼はきょとんとしている。
「私は君がインキュバスだと言っただけ。」
何も言わない彼を見て、彼女は背もたれにゆったりと身を埋めた。
ため息をつく。
「噂話をしようか。」
「へ。」
拍子抜けする青葉を後目に、バレッタは淡々と言葉を紡ぐ。
「なぜ、事件があの日だったのか。いつもはあの商店街もあまり混んではいない。あの日は確か、花火大会が近くであったんだ。そして授業の帰りに、彼女はそこまで行く予定だった。」
ここまで話して、彼はようやく気づくものがあったらしかった。
「上谷かなの話か?」
バレッタは返事の代わりに、話を続けた。
「彼女は乱暴に体を押された。でも目撃者はいない。」
「その辺でガラの悪いやつらにやられたんだろ、しかも、偶然だ。」
口を挟む彼に、彼女は質問する。
「彼女はなぜ、人通りの多い商店街を選んだ?もっと他の道もあったのに。」
「それは、」
口ごもる青葉。
それをしばらく無言で見守って、彼女は目を閉じた。
「彼女をおそったのは悲劇なんかじゃない。もっと巧妙な、誰かの意志だ。」
いくばくかの沈黙。
もう時間は11時になろうかとしている。
切り出したのは青葉だった。
「それを調べるのが、バレッタの仕事?」
ためらいがちだが、大胆な問いだ。
ずっと胸にくすぶらせていたのだろう。
「いいや、こっちはついでだよ。私の仕事は別にある。」
彼女は姿勢を正して、足を組み直す。
「バレッタは何者?人間だと思ってんだけど。」
彼は会ったときと同じ馴れ馴れしさで、身を乗り出して聞いてきた。
「私は、元々は人間だったよ。今は魔除だ。」
バレッタは、別段機嫌を悪くすることもない。
「マジョ。」
へえ、と目を丸くする青葉。
ようやくあの生意気な笑みが戻ってきた。
「さっきの問いだけど、君のことは知らなかった。そうだね、君を落としたかったから、かな。」
そう言い残し、会計に行く青葉。
今日は彼のおごりらしい。
根っからのインキュバス。
バレッタは一人でくすりと笑った。
(scene:夜の繁華街,PM11:30)
「ねえ、カラオケ行かない?」
「パス。」
カラオケ店を通り過ぎながら、バレッタは冷たくあしらう。
「ボウリング。」
「いや。」
「俺んち。」
「却下。」
かつかつと歩を進める。
バレッタの方がペースが速かった。
1m、3m、距離はどんどん広がっていく。
「ねーえ。」
青葉は立ち止まる。
仕方なく振り向くバレッタ。
「もう帰っちゃうの?」
ぶすっと膨れた表情が店の明かりに照らされる。
女をうならせる、生まれ持った容姿の才能。
まるで子供のようだ、バレッタは思った。
「じゃあ、送ってくれる?家まで。」
そう言ってまた歩き出すと、とびっきりの笑みが走ってきた。
暗い住宅街。
一人暮らしの部屋がたくさん、だがどこも静まり返っている。
男女の歩みは遅い。
「ねえ、アオ。事件のこと、教えてよ。」
バレッタがふと言った。
「何の?」
青葉は頭にいくつか候補を並べた。
「連続婦女暴行事件。あの、レイプのやつ。」
「ああ。やられて、頭おかしくなったっていう?」
「それ。」
まるで何てことない話のように飛び交う会話。
青葉は語る。
「インキュバスは、サキュバスもなんだけど、夢を見せるんだ。人の脆くなった部分から入り込んで、その人に最高の夢を見せる。」
バレッタが彼を見る。
横顔にこれといった感情はない。
「その夢は、例えば現実よりも。」
彼女はあまり考えていなかった。
彼は頷く。
「覚めたら悪夢、ってね。」
「そう。」
彼女はまた前を向いて口を閉じた。
あ、と、青葉は思い出したように立ち止まり、ポケットを探る。
バレッタもつられて足を止めた。
「メアド、教えて。ケー番も。」
ワインレッドのスライドケータイを彼女の前に差し出す。
「どうして。」
バレッタは突き放す。
「また飲みに行きたいから。」
青葉はめげずに返す。
「さすがインキュバス。女慣れしてる。」
「違うって。」
笑って目を細める。
開いた彼の目が、またあの目だった。
そうか、これが噂に聞く夢魔の瞳。
バレッタは他人事のように思う。
「バレッタだから。特別。」
近づいてくる妖しい輝きを持った目。
彼女はそれを真っ向から睨み返し、タイトスカートのサイドに手を突っ込んだ。
「そうだね。私はある意味特別かも。」
もはや数cmという所まで詰めた青葉の顔から、余裕が消えた。
目を見開き、視線はゆっくりと下へ降りる。
首筋にきらりと光る冷たいもの。
「言ったよ、アオ。私は魔除だって。」
バレッタは華奢な手で彼の首を押す。
「ロザリオ?」
彼は素直に身を引いた。
心なしか顔色が悪い。
「神に愛された御印みたいなものだよ。君の¨誘惑¨は残念だけど聞かない。ごめんね、気持ち悪いでしょ。」
「うん、すっごく。」
青葉は猛烈に頷いた。
バレッタは笑う。
「ほら、交換するんじゃないの。」
白いケータイをいつの間にか持っている。
ストラップのようにつけられたロザリオが当たって、カチャカチャと音をたてた。
それを見て彼はつぶやく。
「ロザリオをチェーンストラップにするの、神さまに失礼じゃない?」
「さあ?」
バレッタは軽くはぐらかした。
「呼んだら来てくれる?」
画面の名前を見ながら、彼女は問う。
「バレッタのためなら。」
ケータイの画面の明かりに照らされた、顔色の悪い彼。
「アオはケンカ得意?」
「何。ケンカ要員で呼ばれんの。」
半分ふざけたふうに彼は返した。
バレッタは至って真面目である。
「そ。助けてくれる?」
ケータイを再びポケットにしまって彼女は歩き出した。
青葉も後に続く。
「人間相手ならね。でも化生ん中では、インキュバスはとびきり弱い。特にサキュバスには頭が上がらない。」
彼は自虐的に言って肩をすくめた。
「じゃあ、期待できないな。」
ため息をつくバレッタに、彼は繕うように続けた。
「でもさ、俺、逃げんのは得意。なんたって飛べるからね。」彼は笑った。
「それだけはあてにしとく。」
バレッタは笑わない。
気にせず話す青葉。
「でも、ケンカって。犯人探すのに、一人一人あたってみるの?」
「そうだね。必要になってくるよ。蛇の道は蛇だから。」
ついた、とバレッタは立ち止まった。
背の高いマンションだ。
入り口はオートロック。
「ここでいい。」
彼女は鍵を取り出し、明かりの中に入っていく。
「明日学校来る?」
青葉は子犬のような顔をした。
「さあ?」
冷たいバレッタ。
だが、その口元には笑みがある。
「じゃあね。明日、ちゃんと来てよ。」
念を押し、去ろうとして、また振り向いた青葉。
「あとさ、バレッタもう少し太った方がいいよ。」
「さっさと帰れ。」
自動ドアが閉まる。
(scene:バレッタの部屋,AM0:00)
暗がりの中、勢いで乱暴にドアを閉める。
彼女は荷物を放り出して、トイレに駆け込んだ。
そのまま吐く。
立て続けに、何回も。
ようやく何も出なくなって、バレッタは床にへたり込んだ。
汗がこめかみを伝い、肩で息をする。
架された代償は、絶対的なものらしい。
彼女は静かに後悔していた。
すぐに考えを振り払う。すぐ横の壁を拳で殴りつけた。
「負けて、たまるか。」
ずるり、と壁を支えに立ち上がる。
「生きてやる、生きて、」
カーテンの空いたままの部屋。暗い部屋に光が差し込む。
月明かりに金色が輝く。