第8話 届かぬ想い
春樹とのデートから数日後。
小夜は仕事帰り、薬局を出て歩道を歩いていた。
夜風に吹かれながら、心の中はまだほんのり温かい。
(……小山くんと一緒にいると、安心できる)
彼の言葉、優しさ、真っ直ぐな眼差し。
思い出すたび、胸が甘く高鳴った。
――そのとき。
「松原!」
振り返ると、そこには斎藤栄太の姿があった。
ジム帰りなのか、スポーツバッグを肩に下げ、息を切らして駆け寄ってくる。
「久しぶり。……最近、連絡返してくれないからさ」
「……ごめん。」
小夜は曖昧に笑う。
けれど、栄太の視線は真剣そのものだった。
「この前は、強引に誘ってごめん」
「…ううん」
「俺、本気でなんだ。松原と、二人で会いたい」
真っ直ぐすぎる言葉に、小夜は返事を詰まらせる。
春樹の顔が頭に浮かぶ。
でも、それを正直に言えるほど自分の気持ちを整理できてはいなかった。
「斎藤くん、私、実は…」
精一杯の返答をしようとすると、栄太は何かに気付いたように、小夜の言葉を阻んだ。
「……待って!俺は諦めないから」
その声に、胸がずきりと痛んだ。
彼が本気で想ってくれていることは伝わってくる。
だからこそ、小夜はどう答えればいいのかわからなかった。
別れ際、栄太の背中を見送りながら、小夜は小さく息をついた。
(……小山くんに、ちゃんと伝えなきゃ……)
心を決めたいはずなのに、まだ少し迷いが残っていた。
仕事帰りの小夜は、また栄太に呼び止められた。
ジム帰りなのか、いつもと同じジャージ姿で、明るい笑顔を浮かべている。
「なあ松原。この前の話、考えてくれた?」
「……」
小夜は小さく息を吸い込む。
このまま曖昧にしては駄目だ――そう自分に言い聞かせ、口を開いた。
「……ごめん、栄太くん。私……付き合ってる人がいるの」
その一言に、栄太の表情が固まった。
けれどすぐに、探るような眼差しを向けてくる。
「……春樹、か?」
小夜は目を伏せ、ゆっくりと頷いた。
否定はできない。むしろ、自分の気持ちをはっきりさせるためにも、ここで認めるしかなかった。
栄太は短く息を吐き、そして笑顔を作った。
「……そうか。なら仕方ないな」
「斎藤くん……」
笑顔の裏に、どこか寂しさが滲んでいるのがわかる。
それでも彼は明るく振る舞った。
「松原が幸せなら、それでいいよ。俺、しつこいのは嫌われるしな」
軽い調子に見せかけているけれど、その声にはどこか力がなかった。
小夜は胸が締めつけられる思いで栄太を見つめた。
「ありがとう……」
そう呟くのが精一杯だった。
栄太は片手をひらひらと振って歩き出す。
その背中はまるで何かを諦めたように見えて――けれど小夜には、彼の中にまだ火が残っている気がしてならなかった。
(私……小山くんに、もっとちゃんと気持ちを伝えたい)
小夜は胸の奥で強くそう思いながら、夜の街を歩き出した。
週末。
小夜は春樹と待ち合わせて、駅前の商店街を歩いていた。
人混みの中でも、春樹が隣にいるだけで不思議と安心できる。
「何食べたい? せっかくだし、好きなもの選んでいいぞ」
「えっ、じゃあ、オムライスとか」
「いいな。昔から好きだったよな」
「覚えてたの?」
「もちろん。松原、給食でオムライスの日はやたら嬉しそうにしてた」
思わぬ一言に、小夜の頬が熱を帯びる。
そんな昔のことまで覚えていてくれる――その事実がたまらなく嬉しかった。
商店街の奥にある洋食屋で並んで座り、オムライスを食べる。
春樹は時折、小夜の表情を見て笑っていた。
「なんか、幸せそうだな」
「本当に好きだから」
素直にそう言うと、春樹の目が優しく細められた。
食後は雑貨屋や古本屋をのぞいて歩き回り、小さなストラップを春樹が買ってくれた。
「松原に似合うと思ったから」
四つ葉のクローバーの形。
そのささやかな贈り物に、小夜の心は甘く震えた。
駅まで戻ると、春樹がふと足を止めた。
「このまま、送っていくよ」
「え、悪いよ」
「悪くない。むしろ、送らせてほしい」
その言葉に、小夜は胸を高鳴らせながら頷いた。
並んで歩くうちに、春樹の手がすっと差し出される。
一瞬ためらったが、小夜もそっと指を絡めた。
温かな掌が、自分を優しく包み込む。
(ああ……やっぱり、この人と一緒にいたい)
心の奥で、確かな答えが芽生えていった。
自宅近くまで来ると、名残惜しそうに春樹が立ち止まる。
「今日はありがとう。すごく楽しかった」
「私も……本当に楽しかった」
その瞬間、春樹が一歩近づく。
夕闇の中、互いの距離がゆっくりと縮まり――小夜は瞼を閉じた。
頬に触れる温もり。
ほんの短い、けれど優しいキス。
唇が離れると、春樹は小さく笑って囁いた。
「……次は、もっと一緒にいたい」
その言葉に、小夜の胸は甘く満たされる。
その夜、小夜はベッドに横たわりながら、ずっと唇の温もりを思い出していた。