第6話 苦しい距離
薬局の受付カウンターで、小夜は来客の応対を繰り返していた。
声は普段通りに出ている。けれど、心の奥はずっと重く沈んでいた。
(小山くん……)
数日前、駅で偶然会ったときのことが頭を離れない。
本当は立ち止まって、話したかった。
笑いかけられて、胸が跳ねたのも事実だ。
それなのに、咄嗟に逃げるように背を向けてしまった。
あの時の春樹の表情。驚いたようで、それでも追いかけずに見送ってくれた顔。
思い出すだけで胸が締めつけられる。
(避けたいわけじゃない……でも、隣に立つ資格なんてない…)
あの日見た女性の姿がよみがえる。
仕事もできそうで、大人っぽくて、綺麗で。
自分がそこに割り込むことなんて、到底できないと思わされた。
連絡が来ているのはわかっている。
返事をしたくて、何度も文章を打ちかけた。
けれど、「元気だよ」と送ったら――その先に何を望んでしまうのか。
怖くなって、送信ボタンを押せなかった。
気づけば、溜息が漏れる。
「……こんな自分、嫌だな」
帰り道の夜風が、余計に胸の寂しさを煽った。
春樹のことが気になって仕方がないのに、自信のなさが足を縛っている。
きっと、彼はもう気づいているだろう。
自分が距離を取っていることに。
(嫌われたら……どうしよう)
そんな不安が、さらに小夜の足を重くしていった。
薬局を閉め、レジの締め作業を終えて戸締まりを確認する。
外に出た瞬間、小夜は足を止めた。
「……小山くん?」
街灯の下に立つスーツ姿。
ネクタイを緩め、片手をポケットに突っ込んだまま、じっとこちらを見ている。
驚きで胸が跳ねた。
どうしてここに――と問う前に、春樹がゆっくり歩み寄ってきた。
「仕事終わった?」
「……どうして」
「最近、避けられてる気がして。だから、直接会いに来た」
あまりに真っ直ぐな言葉に、小夜は息を呑む。
目を逸らそうとしても、その視線が離れない。
「……そんなこと、ないよ」
咄嗟に口にしたものの、自分でも説得力がないと分かっていた。
春樹は小さくため息をつく。
「俺、嫌われたのかと思った」
「ち、違うよ」
思わず声が大きくなる。通りすがりの人が振り返り、小夜は慌てて声を潜めた。
「違うんだよ……ただ……」
「ただ?」
「……」
答えられない沈黙を、春樹は静かに見つめ続ける。
夜風が二人の間を吹き抜けた。
小夜の胸は苦しくてたまらなかったが、その視線から逃げることもできなかった。
街灯に照らされる歩道。
小夜の言葉を受けて、春樹はしばらく黙ったまま彼女を見つめていた。
逃げ出したくなるような沈黙の重さに、小夜の心臓は早鐘を打つ。
「……松原」
低く呼ばれる声に、肩が震える。
「……この前、私、見ちゃったの。小山くんが……綺麗な女性と一緒に歩いてるの」
言ってしまった瞬間、顔が熱くなる。
嫉妬めいた気持ちを吐き出した自分が恥ずかしくて、視線を落とした。
だが春樹は、驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「……ああ、もしかして営業の同僚のことか。取引先への訪問の帰りだった」
「……え?」
「ただの仕事だよ。俺が一緒に歩いていたのは、同じチームの先輩だ」
軽く言われたその事実に、小夜は一瞬言葉を失った。
胸の奥にこびりついていた不安が、音を立てて崩れていく。
春樹は一歩近づき、真剣な眼差しを向けた。
「俺が見てるのは、松原だけだ」
真っ直ぐな言葉に、鼓動が耳の奥で響く。
逃げたくても足が動かない。
春樹の声が胸の奥に染み込んでいく。
「高校の頃も、同窓会で再会した時も……ずっと気になってた。お前がどんなふうに笑って、どんなふうに生きてるのか」
「……小山くん……」
小夜の目にじわりと熱いものが込み上げる。
劣等感も不安も、春樹の言葉がすべて塗り替えていくようだった。
「俺は、松原を大切に思ってる」
夜の街に響いたその言葉は、告白に限りなく近かった。
小夜の心臓は壊れそうなほど高鳴り、胸の奥に押し込めていた想いが、静かに解き放たれていくのを感じていた。