第5話 寄り添う声
夕暮れの駅前。
栄太の背中が雑踏に消えていくのを見送りながら、小夜は胸の奥にまだざわつきを抱えていた。
そんな彼女に、隣の春樹が静かに声をかける。
「送るよ。夜はまだ冷えるし」
「でも……小山くん、出張帰りで疲れてるでしょ」
「いいんだ。むしろ、松原と少し話したかった」
その一言に、小夜の頬は自然と熱を帯びる。
二人は駅を出て、人通りの少ない道を歩いた。
沈黙が続いたが、重苦しさはなく、むしろ心が落ち着いていく。
やがて春樹が口を開いた。
「……さっきの、嫌そうにしてただろ。断れないタイプだよな、松原は」
「う……図星かも」
苦笑しながら小夜はうつむく。
「昔からそうだったろ。頼まれると断れなくて、結局一番大変な役をやってた」
「覚えてるんだ……」
春樹は穏やかに頷いた。
「覚えてるよ。だから余計に、守りたくなる」
その言葉に、小夜の胸がじんわりと温かくなる。
無理をしなくても受け止めてもらえる
そんな安心感が、春樹の隣にはあった。
気づけば駅前のベンチに腰を下ろしていた。春樹が缶コーヒーを二本買ってきて、一つを差し出す。
「砂糖入りだろ? 昔から甘党だったよな」
「……なんで、そんなに覚えてるの」
「たぶん、気にしてたからじゃないか」
不意に目が合い、小夜は慌てて缶を開けた。
胸の鼓動が早くなる。けれど、不思議と嫌じゃない。
「……ありがとう、小山くん」
「ん?」
「今日、間に入ってくれて。私、きっと何も言えなかったから」
「当たり前だろ。困ってるのに見過ごせるわけない」
春樹の声は低く落ち着いていて、胸に染み込むようだった。
その夜。布団に入った小夜は、栄太の勢いに戸惑う気持ちよりも――
春樹と過ごした穏やかな時間を思い返していた。
(……やっぱり、私が安心できるのは小山くんの隣なのかもしれない)
そう思った瞬間、胸の奥が柔らかく満たされていくのを感じた。
平日の午前。
薬局は休みで、久しぶりに予定のない休日を迎えた小夜は、駅前のカフェでのんびりと本を開いていた。
けれど、文字はほとんど頭に入ってこない。
心に浮かんでくるのは、あの夜のこと。
(小山くん……私のこと、ちゃんと見ててくれた)
守られているような安心感。あの時の言葉や視線が、何度も胸の奥でよみがえる。
気づけば頬が緩んでいて、慌ててカップで顔を隠した。
「……私、ちょっと浮かれてる?」
笑って誤魔化したその時だった。
ふと、カフェの窓の外を人の群れが通り過ぎていく。
その中に、見慣れた背の高いシルエットを見つけて、小夜は思わず立ち上がった。
「……小山くん?」
間違いない。
スーツ姿の春樹が、電話を片手に歩いている。その隣には、一人の女性。
スラリとした体型に、落ち着いた雰囲気。長い髪をまとめ、知的な微笑みを浮かべている。
春樹と並んで歩く姿は、どこから見てもお似合いに見えた。
二人は笑いながら言葉を交わし、ときおり視線を合わせて頷き合っている。
まるで信頼し合うパートナーのように。
胸がぎゅっと締めつけられる。
「……あの人、同僚……かな」
小夜は自分に言い聞かせようとするが、目を逸らすことができない。
春樹がふと笑った。その笑顔は、あの夜に自分へ向けてくれたものと同じに思えた。
けれど今は、その女性へと向けられている。
心臓が重く沈んでいく。
自分と比べれば、その女性は洗練されていて、大人の余裕を持っているように見えた。
(私なんか……全然釣り合わない)
本を持つ手が震えているのに気づき、小夜は慌てて席を立った。
会計を済ませ、俯いたまま外へと歩き出す。
人波の中に紛れて、二人の姿はすぐに見えなくなった。
それでも、目に焼きついた光景は消えない。
胸の奥で小さく芽生えていた自信が、音を立てて崩れていくのを、小夜ははっきりと感じていた。
週明け
薬局の窓口に立つ小夜は、来客対応をしながらも心ここにあらずだった。
あの日の光景――春樹と美しい女性が並んで歩く姿――が、何度も脳裏によみがえる。
(……私、何を勘違いしてたんだろう)
自分なんかが特別に見られるはずない。そう思うたびに、胸が痛んだ。
昼休みにスマホを手にすると、春樹からの未読のメッセージがいくつも並んでいた。
《出張続きだったけど、今週は落ち着きそうだ。また飯でもどう?》
《元気してる?》
文章はいつも通りで、優しさが滲んでいる。
けれど、小夜は返すことができなかった。
指が止まったまま、画面を伏せる。
その日の仕事帰り
駅前で、偶然にも春樹と鉢合わせてしまった。
「松原?」
春樹が嬉しそうに笑う。その自然な表情に胸がざわついた。
「返事がないから、ちょっと心配してた」
小夜は咄嗟に視線を逸らし、曖昧に笑ってみせる。
「……ちょっと忙しくて」
「そうか。なら、また今度――」
「ごめん、急いでるの」
遮るように言って、足早に歩き出す。
背後で春樹が何かを言いかけた気配があったが、振り返ることはできなかった。
家に帰ると、胸が苦しくてたまらなかった。
(避けたいわけじゃない……でも、またあの人と比べてしまう)
スマホを握りしめながら、画面を見つめる。
そこに並ぶ春樹からの優しい言葉が、今は遠く感じられた。
春樹はスマホを手に、ため息をついていた。
未読のまま返事がないメッセージが、画面に並んでいる。
(どうしたんだ、松原……)
ここ最近、連絡が途絶えている。
駅で偶然会ったときも、慌ただしく立ち去っていった。
それは忙しさのせいに思えなくもなかったが――春樹の胸には、どうしてもひっかかりが残っていた。
仕事の合間にデスクに突っ伏しそうになりながら小夜のことを考えてしまう。
高校のころから変わらない、不器用で優しい性格。
この前の夜、あのときの安心した表情――あれは気のせいじゃなかったはずだ。
(……なのに、どうして急に距離を置くんだ)
疑問と不安が渦を巻く。
まさか、自分のどこかに嫌われる要素があったのか。
それとも――別の男の影があるのか。
思考がそこに及んだとき、ふと浮かんだのは斎藤栄太の顔だった。
同窓会の夜、彼が小夜と連絡先を交換していた姿。
ジムのインストラクターという立場もあり、明るく社交的な性格。
自分よりも接点を増やしやすいのは、むしろ栄太のほうかもしれない。
胸の奥がざわつく。
春樹はスマホを握りしめた。
送信画面を開きかけては、言葉を打てずに閉じる――その繰り返しだった。
「……会って話さなきゃ、駄目だな」
呟いた声は、夜のオフィスに小さく溶けた。
誤解なのか、事実なのか。
確かめなければならないと、春樹は強く心に刻んでいた。