第3話 不意の優しさと、もう一つの着信
金曜の夜。仕事を終えた小夜は、待ち合わせの駅前に立っていた。
スーツ姿の人々が行き交う中、彼の姿を見つけると自然に足が止まる。
「松原」
低く落ち着いた声に呼ばれて顔を上げる。春樹はスーツの上着を腕にかけ、ネクタイを少し緩めていた。仕事終わりの疲れがにじむのに、不思議と余裕があった。
「待った?」
「ううん、私も今来たとこ」
近くの居酒屋に入り、カウンター席に並んで腰を下ろす。
グラスを合わせると、懐かしい空気がすぐに戻ってきた。
「それにしてもさ、松原が薬局で働いてるなんて驚いたよ」
「ふふ、地味でしょ?」
「いや、似合ってる。落ち着いてて……患者さんも安心するんじゃないか」
軽口を叩くようでいて、どこか真面目な響きがある。
胸がほんのり熱くなる。
話題は自然に高校時代に戻った。部活のこと、文化祭のこと。
そして――。
「そういえばさ」
春樹が、グラスを指先で回しながら視線をこちらに向ける。
「同窓会のとき、斎藤と連絡先交換してたろ」
「えっ……」
不意を突かれ、心臓が跳ねる。
「見えてたんだ。別に気にしてるわけじゃないけど……ちょっと気になった」
彼の視線は穏やかなのに、探るような色が混じっている。
どう答えればいいのかわからず、小夜はグラスを握りしめた。
「……昔から明るい人だから。声かけてくれて、つい」
「そうか」
飲み終え、駅前で別れるとき。
「また行こうな」
春樹が軽く手を振り、小夜は胸の奥でまだ鼓動が収まらないまま帰路についた。
玄関に入るなり、スマホが震えた。
画面には「斎藤栄太」。
《松原、今度の休み空いてる?一緒にご飯行こうよ!》
春樹の余韻が残る中で届いた、もう一つの誘い。
小夜の心は、再び静かに揺れ始めていた。
約束の日の夕方。仕事を終えた小夜は、栄太と待ち合わせた駅前に向かった。
スーツ姿の会社員たちが足早に行き交う中、スポーツウェアの上にジャケットを羽織った栄太の姿はひときわ目立っていた。
「おっ、松原!こっちこっち!」
大きな手を振る姿は、高校の頃と変わらない。けれど、体格は一回りも二回りも大きくなっていて、頼もしさを感じさせた。
案内された焼き鳥屋は、常連客で賑わう隠れ家的な店だった。炭火の香ばしい匂いと、ざわめきに包まれる空間。暖簾をくぐった瞬間、小夜は思わず笑みをこぼす。
「なんだか落ち着くね」
「だろ?ここ、穴場なんだよ」
カウンターに並んで座り、ビールとお通しが出される。
「じゃ、久々に乾杯!」
「うん、乾杯」
グラスを合わせると、泡のはじける音が心地よかった。
栄太は串を頬張りながら、ジムでの仕事について語り始めた。
「最近はさ、トレーニングってより“健康づくり”に来る人が多いんだよ。体を動かすって、やっぱり大事だよな」
「食事指導までしてるんだっけ?」
「そうそう。だから松原も気になるなら、俺がメニュー組んでやるよ。保証する、体も心も軽くなるから」
白い歯を見せて笑う栄太は、眩しいくらいにまっすぐだった。
その勢いに小夜は少し照れながらも、素直に嬉しさを感じていた。
(……高校のときも、こんな風に前向きな人だったな)
グラスが進むにつれ、話題は自然と学生時代に移る。文化祭の準備で徹夜したことや、体育祭で栄太が張り切りすぎて転んだこと。笑い合ううちに、時間があっという間に過ぎていった。
夜風が心地よい帰り道。駅前で立ち止まった栄太が、少し真剣な顔で言った。
「松原、また一緒にご飯行こうな。次は松原の好きな店でもいいし」
「……うん、ありがとう」
その笑顔に胸が温まるのに、同時に心の奥で、別の誰かの影が薄く差し込んでいるのを小夜は感じていた。
数日後。仕事を終えて帰宅した小夜が食器を片づけていると、スマホが震えた。
画面には「小山春樹」の名前。
《今週末、ちょっと時間ある?仕事の合間にランチでも》
読み返すたびに胸が熱くなる。
(……ランチ。夜じゃなくて、お昼にってところが小山くんらしいな)
週末。待ち合わせのカフェは、ガラス張りの落ち着いた雰囲気の店だった。
先に着いていた春樹が立ち上がり、軽く手を振る。
「松原」
「待たせちゃった?」
「いや、俺も今来たところ」
テーブルにつき、コーヒーとランチプレートを注文する。
「松原って、休みの日何してるの?」
「カフェに行ったり、家でゴロゴロしたり、映画観に行ったりいろいろだよ」
「映画か…いいな」
柔らかな眼差しでそう言われ、小夜は頬が熱くなるのを感じた。
春樹は自分の仕事について話した。大手商社での営業。出張の多さ、数字のプレッシャー。
「正直、きついことも多いけど……誰かに話すと、少し楽になるな」
「それなら、いつでも聞くよ」
口にしてから、小夜は自分でも驚いた。自然に出てしまった言葉。それに春樹は少し笑って、コーヒーを口にした。
食後、店を出ると春の風が吹き抜ける。
二人は歩調を合わせて並んで歩いた。
「……また誘っていい?」
「もちろん」
その短いやり取りが、小夜にとっては胸いっぱいの贈り物だった。
電車に揺られて帰宅する途中、彼の横顔や声が何度も頭に蘇る。
(やっぱり……小山くんの隣は、居心地がいい)
けれど、その想いを噛みしめながらも、小夜の胸の奥には焼き鳥屋で笑っていた栄太の顔が、ほんの少しだけ重なっていた。