第16話 温泉宿の夜
山道を抜けた先に、その旅館は現れた。木造の堂々とした門構えに、小夜は思わず息を呑む。
「すごい……。写真で見たより、ずっと立派」
チェックインを済ませ、仲居に案内されて部屋へと入った瞬間、小夜の目が丸くなった。
畳の香りがふわりと漂い、広々とした和室の奥には、障子越しに柔らかな夕日が差し込んでいる。テラスには湯気を立てる露天風呂。
「わぁ……!」
駆け寄った小夜が窓を開けると、目の前には山々の稜線が広がり、赤く染まった空がゆっくりと夜へ変わろうとしていた。
「気に入った?」
背後で春樹の声がして、小夜は振り返る。
「もちろん!もう、感動してる」
「よかった。誕生日だからな。どうしても特別にしたかったんだ」
不意にそんな風に言われ、小夜の胸はじんと熱くなる。
「……ありがとう」
視線を落とす小夜に、春樹は少し照れたように笑った。
夕刻、二人は浴衣に着替えて大浴場へ向かう。
木造の廊下を歩く足音だけが響き、時間がゆっくり流れているようだった。
それぞれ温泉に浸かり、身体の芯まで温まった後、待ち合わせたロビーで再会すると――小夜は湯上がりの頬をほんのり赤らめていた。
濡れた髪をタオルで押さえる姿に、春樹の視線が止まる。
「……なんか、いつもより綺麗に見える」
「えっ……な、なにそれ。やめてよ、恥ずかしい」
頬を隠そうとする小夜に、春樹は悪戯っぽく笑った。
夕食は個室の和室で。
テーブルいっぱいに並ぶのは、地元の旬の食材を使った豪華な懐石料理だった。
「こんなに贅沢していいのかな……」
「いいんだよ。今日は特別だから」
春樹は小夜のお猪口に地酒を注ぎ、軽く杯を合わせる。
ほんのり甘い酒が喉を通るたび、小夜の胸の奥もじんわり温かくなった。
春樹の視線が、いつもより優しく長く絡む。
「小夜が楽しそうでよかった」
「……春樹のおかげだよ」
その言葉に、ふたりは同時に照れくさく笑ってしまった。
食後、部屋に戻ると窓の外には満天の星空。
テラスの露天風呂からは、山の稜線が闇に沈み、かすかな虫の声が響いていた。
畳に座り、星を眺めながら並んでお茶を飲む。
小夜の横顔を見ているうちに、春樹は自然と手を伸ばした。
頬に触れた瞬間、小夜はわずかに驚いたように瞬きをしたが、すぐに目を閉じる。
唇が重なり、静かな夜に鼓動だけが響いた。
「……小夜」
名前を呼ぶ声は、いつもより低く、甘い。
春樹はポケットから小さなケースを取り出していた。
「今日、ずっと言おうと思ってたんだ」
そう言って、ケースを開ける。そこにはシンプルな輝きを放つ指輪。
小夜の目が大きく見開かれる。
「俺と結婚してほしい。これから先の時間を、全部一緒に過ごしたい」
静かな部屋に、その言葉が響いた。
小夜の胸は熱くなり、目の奥がじんわり潤んでいく。
「……春樹……私で、いいの?」
「小夜だからいいんだ。他の誰でもなく」
震える声で、小夜は頷いた。
「はい……お願いします」
春樹は小夜をそっと抱き寄せ、優しく口づけを落とした。
指に光る指輪を見つめながら、小夜は涙をこぼしていた。
胸いっぱいに広がる幸せに、言葉が追いつかない。
「こんなに嬉しいこと、初めて……」
春樹は彼女の頬を拭い、微笑む。
「俺もだよ。これからはもう、ずっと隣にいる」
その言葉に、小夜はたまらず春樹の胸に飛び込んだ。
抱きしめ合う腕が強くなる。
唇が重なり、温泉の湯気のように熱を帯びていく。
互いの想いを確かめ合うように、何度も何度も口づけを交わした。
布団に並んで横になると、春樹は小夜の手をぎゅっと握りしめた。
「もう離さない。ずっと小夜のそばにいる」
「……うん……」
その夜、二人は恋人から婚約者へと歩みを進め、
言葉よりも深く、心と身体で未来を誓い合った。




