第10話 気づかれてしまった声
朝から小夜は体に異変を感じていた。喉の奥が焼けるように痛く、体の節々もだるい。それでも「風邪くらい」と自分に言い聞かせて、薬局での仕事をこなした。
しかし、夕方になるころには視界がぼやけ、患者の声が遠くに聞こえる。
同僚に心配をかけたくなくて、「大丈夫」と笑顔を作りながらなんとか勤務を終えた。
(……今日は早く寝よう)
そう思って帰宅したものの、熱はどんどん上がっていく。布団に潜り込んでも寒気とだるさで眠れず、ひとり部屋の中で身を縮めるしかなかった。
夜八時過ぎ。
スマホが震え、画面には「小山春樹」の名前が浮かんだ。
心配をかけたくない気持ちが勝ち、一瞬出るのをためらったが、着信音が鳴り続けるのを無視できずに通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『小夜?声……どうした?』
低く落ち着いた春樹の声が、イヤホン越しに響く。
普段なら胸が温かくなるその声が、今は胸の奥を締めつけるようで苦しかった。
「……ううん、なんでもないよ。ちょっと疲れてるだけ」
『いや、違うな。その声、喉やられてるだろ?』
春樹の言葉に、小夜は言葉を失った。
無理に笑って取り繕おうとしても、声のかすれが隠せない。
「……ちょっと風邪っぽくて。でも寝れば治るから」
『熱、あるんだろ?』
「……少しだけ」
小さな声で答えると、電話の向こうで短い沈黙があった。
次の瞬間、春樹の声が強く、迷いなく響いた。
『待ってろ。今から行く』
「えっ、だめだよ!移るかもしれないから……」
『関係ない。小夜がしんどいときに放っておけるわけないだろ』
その言葉に、胸がじんわり熱くなった。
嬉しさと申し訳なさが入り混じり、涙がにじむ。
「……ほんとに、来るの?」
『当たり前だ。場所はわかってるから。何も考えず待ってろ』
通話が切れたあとも、小夜の胸には春樹の声が残っていた。
ひとりで抱え込もうとした風邪。
でも、もうひとりではない。
布団の中でスマホを抱きしめながら、頬を濡らす涙をそのままに、小夜は静かに春樹を待った。
インターホンが鳴ったのは、電話を切ってから三十分後だった。
夜の静かな住宅街に、短い電子音が響く。
布団にくるまったまま、心臓が跳ねた。
(……本当に来てくれた)
体はだるいのに、玄関まで這うように向かう。
扉を開けると、そこには心配そうな顔をした春樹が立っていた。スーツ姿のまま、片手にコンビニの袋を下げている。
「小夜……」
目が合った瞬間、涙腺が緩んだ。
なにも言えずに立ち尽くしていると、春樹がそっと肩に手を添えた。
「無理して立つな。中、入っていいか?」
「……うん」
靴を脱いで入ってきた春樹は、すぐに袋からペットボトルの水とスポーツドリンク、ゼリー飲料を取り出した。さらに体温計まで。
「ほら、座って。体温測ろう」
「……なんでこんなに用意いいの?」
「心配だったから」
笑う春樹の声に、少し安心する。
震える手で体温計を受け取り、測ってみると—
「……三十八度八分」
「やっぱりな。完全に熱出てる」
春樹の眉がきゅっと寄る。
小夜は「大げさだよ」と言おうとしたが、喉が痛くて声にならなかった。
布団に横たわると、春樹が冷たいタオルを持って戻ってきた。
額にそっと置かれた瞬間、ひんやりとした感触に思わず目を閉じる。
「……ありがとう」
「礼なんていらない。俺がそばにいたいだけだ」
その一言に、胸が熱くなる。
弱っているときにそんなことを言われたら、涙が止まらなくなりそうだった。
「迷惑……じゃないの?」
「バカ言うな。小夜が辛そうにしてるほうが、よっぽど迷惑だ」
真剣な眼差しに、もう反論できなかった。
静かに頷くと、春樹の手がそっと小夜の髪を撫でた。
しばらくして、熱のせいで意識がぼんやりしてくる。
それでも耳には、春樹の低く落ち着いた声が残っていた。
「大丈夫だ。俺がここにいるから」
その言葉に包まれながら、小夜は安心したように眠りに落ちていった。




