もう絶対離さない
花火の見物客達の間を縫うように歩きながら、千夏は待ち合わせ場所の川べりに到着した。千夏があたりをキョロキョロしていると、後ろから声をかけられた。
「千夏」
千夏は呼ばれた方を振り返る。その姿を見た瞬間、激しく動揺する。なんと言えばいいのか、全然整理がついていない。頭は真っ白だ。なのに呼び出してしまった。すぐそばに立っているのは、他ならぬ正秋だ。
これだけ人で溢れかえってるのに、なぜか正秋の体だけは輪郭がはっきりとして見える。声もそうだ。本人はいつもと同じ、会社帰りと思われるスーツ姿なのに、何にも混ざらない色をしていて、その場に色濃く存在している。千夏とは距離にして三メートルは離れているのに、正秋の体温、その熱量を肌で感じられるのが、少し怖い。それでも本人のその情熱的な瞳に、胸のうちにあった氷が溶かされていくのを感じる。
正秋は歩み寄り、千夏の目の前に立った。
「あの。俺、びっくりしてる」
正秋の言葉に、千夏は急にホッとして、思わずくすりと笑う。笑いながら、涙が一雫流れ落ち、地面に落ちて染み込む。
「私もだよ。ねえ、これまでのこと。ちゃんと話したほうがいいかなって、思ってるんだけど」
「そんなのいいよ、別に」
「え?」
意外な反応に、千夏はわずかに上体をそらす。
「何があったかなんて、興味ない。どうでもいい」
「そう…」
遠くの方で、花火大会実行委員のものと思われるナレーションが聞こえる。花火がドン、ドンと打ち上がる。千夏は顔を上げ、夜空に散る大輪の花を見つめる。
「言い訳させてよ。どういう経緯で、ここに来たかとか」
「だってそれ聞いたら俺、冷静でいられない」
そう言って苦笑する横顔を、千夏は隣から見上げる。意志の強さと不安をないまぜにしたような正秋の瞳に、青い花火が映り込む。
「俺、器が小さいんだ」
「そうなの」
「幼稚だと思う」
夜空を縦に切り裂き、上空に一際大きな花火が上がる。最初は緑。その後は赤色に変わり、ドン、と大きな音が響く。
「本当はすっげえ気になってるし、聞きたい。でも、俺は嫉妬深いし、劣等感の塊だし、千夏が他の男とどこでどうしてたかなんて、考えたくない。だったら聞かない方がいい。だから、何も言わないで」
「うん。分かった」
千夏は素直に頷き、上目遣いでその顔を見る。
「小者でごめん」
遠くの方で、ナレーターがスターマイン、打ち上げ開始でございます、と言うのが聞こえる。地上付近で小さな花火が素早く連続で打ち上がり、色鮮やかに空を染めていく。それに遅れて、パンパンパンと軽快な音が響く。
「ねえ。じゃあ、私の好きな人の話なら、してもいいかな」
千夏は正秋の着ているシャツを掴み、少し挑戦的な物言いで尋ねる。
「好きな人の話?」
正秋は興味をそそられたように笑い、見つめ返す。千夏は手に持っていたビーグル犬のストラップを見せる。散々握り倒したので、ヘタってしまっている。
「あれ? そいつ、どっかで見たな」
「うん。私の好きな人と同じ顔してるの。この子」
「同じ顔? これと?」
「うん」
「犬みたいにつぶらな瞳で、すごく可愛くて、一途で、優しいけど。嫉妬深くて、劣等感の塊で、小者なの」
「うん」
正秋本人は腕を組み、面白そうに聞いている。
「それとね。お好み焼きを焼くのが上手で、ダイエットメニュー作るのも上手で、植物博士になれなかったんだけど、トックリヤシは愛でてる」
ハハハという自嘲気味な乾いた笑いを聞いて、千夏もつられて笑う。
「あと、妖精並みに清いのに、自分のこと人間だって思い込んでる」
「おい。なんだそれ」
「まだある。スイーツ占いで言うと、私はビスケットで、その人は紅茶なの。相性調べたら、最上級の上、って出た」
正秋は腹を抱えて笑い出す。千夏は少しだけ冬馬のことを思い出す。確か彼はルイボスティーで最高、とあったのに、それよりも相性がいいのだと千夏は解釈する。
「千夏、占い好きだよねえ」
「ううん。もう好きじゃない」
「じゃあ、なんで」
「結果が良いときだけ信じることにはしてる」
正秋はまだ笑いを引きずり、メガネのレンズの内側に指を突っ込み、目元をぬぐっている。
「最後。自分の作ったラブレター、ラジオ番組に採用されちゃってる」
千夏は言いながら笑い、涙をこぼす。
「ああ、うん。リアタイで聞いてくれたんだ」
正秋は笑いを引っ込め、恥ずかしそうに、でも真面目に見つめてくる。
「さっきちょうど、友達の沙耶香と一緒に聞いていたの。沙耶香、言ってたよ。私もこういうピュアな人と付き合いたいって」
千夏がくすくす笑う。
「思ったこと、正直に書いて送ってみただけだよ」
首の付け根あたりを指でかく仕草は、まるで犬が後ろ足で痒いところをかく仕草に似ていると、千夏は見ながら思い、さらにビーグル犬のストラップが視界に入り、吹き出してしまう。
「それとね。ナツは、言うほど暑がりじゃないよ」
「へ。そうなの」
「うん。痩せたらね。脂肪が減って、体感温度が変わったの。少し涼しくなっちゃって」
千夏は自慢のウエストのあたりを撫でる。今ならXSサイズのパンツだって入る。正秋が千夏のプロポーションを不安げに見てくるので、首を横に振る。
「ああ、でも心配しないで。最近またちゃんと食べてるし、寝られてるから」
千夏はその顔と正面から向き合う。夜空に、高く高く打ち上がるものが視界に入る。千夏の感情もそれとシンクロし、高く高く上ってゆく。上りきったところで、口を開いた。
「フユとは別れた。ナツは、アキがいい」
三尺玉らしき大きな花火が花開き、黄金に輝きながら光の筋を夜空に垂らしていく。自分より高い位置にある正秋の瞳に、光の筋はもう映らない。千夏だけが映っている。
「千夏」
低くて、少し照れくさそうで、でも優しい、柔らかい声が耳に響く。
「ん」
千夏は改めて、その瞳を見つめる。そこに透明な液体が滲む。白目の部分が、うっすらと赤く充血している。細く生え揃ったまつ毛の一本一本が、小さく痙攣しているのに気づいた。
「好きだ」
千夏は力強い腕に抱きしめられ、その胸に顔を埋める。少し汗臭いのに、その体から溢れる匂いに、深い安堵を覚える。急に呼吸がしやすくなったような気がした。千夏は心地よさを感じながら、目を閉じる。
「私も。好き」
自分も腕を回し、その背中を抱きしめ返す。ふと、目を開ける。夜空に再び、コスモス色の大輪の花が散る。空が揺れるほどの大音響が轟く。
「もう。もう、絶対離さない」
千夏を抱く正秋の涙声は裏返り、かすれている。千夏は手を伸ばして正秋のメガネを外すと、その唇にキスした。




