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付箋

午後九時を過ぎた頃だった。冬馬は制作部の部屋を出た。

給湯室でコーヒーを二人分入れてきたらしく、部屋に戻ってくる。それを千夏の電話のそばに置く。

ちょうど電話が終わったところで、千夏は受話器を置いた。

「やった…」

千夏は深く息を吐いた。傍にはびっしょり汗をかいている。

「どうしたよ」

冬馬は平然とした様子で、コーヒーに口をつける。

「印刷屋、見つかった。都内で見つからなかったから、千葉県の印刷屋なんだけど。前田設計の入稿データ、すぐ出せる?」


「えっ、あっ、うん」

冬馬はハッとして、コーヒーのカップを取り落とす。慌てて近くにあった箱ティッシュからティッシュを何枚も引きずり出し、かがんで床をポンポンと叩きながら拭く。千夏は廊下に出ると、雑巾を給湯室で絞り、それを持って部屋に戻る。同じく床を叩くように拭く。

「あーあ、やっちゃった」

そう言いながら、冬馬は興奮を隠せない様子だ。千夏もそれは同じで、メモ用紙を冬馬の前に突き出す。

「私がやっとくから、すぐこのメアドに送って」

「おう、分かった」

冬馬は千夏がメモした付箋紙を受け取り、自席に戻った。


冬馬はメモ通りのメールアドレスを送信先に打ち込み、入稿データを添付し、送信ボタンをクリックする。それから二人はコーヒーを飲み、大きく安堵のため息をつき合った。

「やったな。さすが天野先輩」

久しぶりに先輩と言われたのが腹が立ち、同時におかしくもあり、千夏もやり返すことにする。

「でしょ。杉崎大先生は何軒、電話かけたんですか?」

「もう分かんねえ」

冬馬は笑うも、青息吐息だ。

「疲れたね」

「うん」

冬馬は満身創痍のありさまで、顔を手で仰ぐ。

「印刷、明後日の午前九時までにやってくれるって。南船橋からお台場までなら、開場時間の十一時までに間に合うよ」

「うん。それにしても、先輩の電話の掛け方、プロだね。めちゃめちゃ早口なのに聞き取りやすいし。礼儀正しいのに交渉上手だし」

「それって褒めてんの、けなしてんの」

「最高の賛辞だよ」

「はいはい」

千夏は適当にあしらい、あくびをする。すると冬馬が意味ありげな表情になり、じっと見つめてくる。千夏が見ていると立ち上がり、千夏のすぐ隣の席に座った。

「あのさ」

「うん」

冬馬の表情が急にしぼんだのを見て、千夏も顔から笑みを消す。何の話かは何となく分かる気がして、両手を握りしめる。


「こないだ。ごめん」

「もういいよ」

なんだか冬馬に謝られてばかりな気がする。謝られれば謝られるだけ傷つくというのに。

「全部、千夏の言うとおりで。恥ずかしくて」

冬馬の言い方は、心から申し訳なさそうだ。

「うん」

「俺。仕事に集中するから。しばらく誰とも付き合わねえことにした」

「そうか。うん」

千夏は神妙に頷き、ヒナコとはどうするのと聞こうとしたが、黙っておくことにする。


「会社では仲良くやってよ」

「うん。分かってる。でもせっかくだから、ズバッと言ってほしいことがある」

「えー。何?」

冬馬は椅子をくるくる回して少し笑うが、千夏は少し真面目な顔になる。

「私って。女として魅力、ない?」

聞きながら、千夏は不安になる。自分は客観的にみてどうなのか。異性からの見解が欲しい。冬馬はピタッと回転を止め、それを見透かすように、穏やかに微笑む。

「超ー、魅力的」

「本当?」

「本当だよ。綺麗になったし、優しいし、占い好きってのは正直うぜえって思ったけど。つけてる下着、エロいし」

「エロいは余計」

千夏が怒って付箋の束を投げつけると、冬馬は笑いながらキャッチする。

「笑った顔、可愛いし。俺にはもったいない女なんだなって、よく分かった」

「それ。ていのいい断り文句だよね」

千夏が言うと、冬馬は黙り込む。その間、千夏の脳内はおしゃべりを続ける。


別れを切り出したのは私だ。だけど実際には、私が振られたのだ。冬馬は元妻、ヒナコに未練タラタラのくせして、優しすぎて好きでもない女の気持ちに応えようとする。だから余計に相手を傷つけていく。


前はそうみえなかったのに、冬馬はモテても、恋愛経験が少ないのかもと、千夏はぼんやりと思う。別れ方を気にしている時点で、そこが幼稚だ。千夏自身も経験がゼロに等しいが、経験豊富な美穂と一緒に過ごしているせいで、この頃、知識や心構えだけはかなり身についている。恋愛は綺麗に別れようとすればするほど、そんなことできやしない。別れは残酷で当たり前だ。それを冬馬は分かっていない。


「ごめん。でも今の千夏は真夏のひまわりみたい、キラキラしてて眩しい。ヒナコのこと忘れること、何度もあった」

冬馬は目を細めて、切なそうに笑う。それから、手にしたひまわり柄の付箋紙を千夏に見せる。

「いいね。この付箋」


同じことを、前にも正秋に言われている。付箋はたくさん余っているからひと束あげようかと言ったのに、それは千夏に使っててほしいと言われたのだ。千夏は急に目頭が熱くなり、何度も瞬きをする。


「ひまわりって。私、そんな陽キャじゃないよ」

千夏は涙をこらえて言い返す。

「そう言えば、ちょっと気づいたことがあるんだけどさ」

「何?」

「マサさんと春菜。あれ、無理だと思うよ」

冬馬の言葉に、千夏は目をぱちくりさせる。

「どうしてそう思うの」

「今日、二人が昼飯食ってるの見た。もう完全に、マサさんが保育士で、保育園児の春菜をあやしてる、みたいになってる。あしらわれてて、全然相手にされてない」

冬馬はおかしそうに笑い出す。

「ふーん」

「気になるなら、俺がマサさんに聞いてみよっか」

「やめて」


千夏がむくれると冬馬は楽しそうに笑う。かと思えば急に真顔になり、千夏の両肩に手を置く。千夏はビクッとして顔を見上げる。

「一人になってみて。時間おいて。それでもし、まだ千夏が一人だったら。俺とまた付き合って」

冬馬は千夏の目を覗き込む。その顔は精悍で、いつにも増してイケメンだ。冬馬が手を引くので、そのまま椅子から立たされる。

「マサさんのところ。行かないで」

冬馬は手を伸ばし、千夏を抱き寄せた。


千夏は抱きしめられながら、冬馬の背後にある壁をぼんやりと見つめる。このセリフ、エクスタの冬馬の取り巻きが聞いたら私は殺されるだろう。この顔。この体。いい男以外の何ものでもない。そう、自分もずっと好きだった。でも、過去形になっている。少し前の自分なら、肩に手を置かれただけで舞い上がっていただろうに。今じゃきっとキスされても、抱かれても、何も感じないだろう。千夏は冬馬の腰を両手で掴み、離させた。


「さー、それはどうかなあ。最近、モテ期だからな、私」

千夏は無理やり明るい声で調子に乗り、自分の腰に手をあててビシッとポーズを決める。それはモデルのヒナコがエクスタでとっていたのと同じポーズだ。

「なんだよ」

冬馬はすねたように言い、下唇を突き出す。

「天野先輩はねえ、SNSの人気者は嫌いなの。天野先輩と同じく、自分に自信があるフリしときながら本当は自信がなくて、嫉妬深くて、結婚願望が強い人が好きなんだ」

「えー? そんなのがいいの?」

冬馬は肩をすくめて苦笑する。その苦笑はしだいに純粋な笑いになっていく。千夏もそれを見ているうち、だんだんと笑えてくる。その笑いは、わずかな期間、二人が恋人同士だったときの偽りの笑顔とは違う。吹っ切れた者同士の、解放された温かい笑顔、本物の笑顔だった。

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