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緊急事態

梅雨が明け、気温がグッと上がった頃、クリエイティブEXPO(エクスポ)に出展する日が間近に迫った。用意したカタログ、パンフレット、リーフレット、チラシ、それにヒロイン・デザインの特製うちわ、ポスター、デジタルサイネージ、ほか展示用機材や備品が制作部の部屋の一角に集められた。制作部だけでなく営業部も集まり、営業部長の田中がミーティングを開いた。


「あとは前田設計の会社案内だけか」

田中が尋ねると、課長の林に目配せする。

「そうなんです。ちょうど今、高光が混んでて。刷り終わったらすぐ持ってくるって言ってますが、ギリギリです。EXPO前日、正午に納品予定だそうです」

「沢井モーター、ジャパン製菓、前田設計は知名度が高い大手だ。必ず間に合わせろよ」

「しっかり売り込みしてくれ」

田中に続き、社長の亀石も扇子を仰ぎながら念を押す。

「はい」

営業達は皆、笑顔だ。

「名刺は全員、切らしてないだろうな」

田中が営業達に尋ねると、正秋が咳払いする。

「大丈夫です。それなんですが、黒岩さんに頼んで新しい名刺、デザインしてもらいました」


正秋が黒岩の方を見て言うと、デザイナーの黒岩が見本を田中に手渡す。

「おー。さすが黒岩さん。今っぽくてカッコイイね」

田中はそれを受け取り、高い位置に掲げる。黒岩はドヤ顔で会釈し、偉そうに腕を組む。

「そこの箱、開けろ」

正秋が命令すると、部下達はこぞってそばにある段ボールを開ける。千夏が少し前のめりになってそれを見ると、名刺の束が箱から出てくる。

「営業とディレクターの分は全員分、刷ってありますので」

正秋が抜かりなく言ってそれらを配ると、田中は満足そうに微笑む。

「マサー。デキる男は違うね」

「ありがとうございます」

褒められている正秋を、千夏はちらりと見る。本人は爽やかに笑い、黒岩に向かって礼を言っている。


正秋はカッコいい。今更、正秋がいいと言ったら、どんな顔をするだろう。冬馬と別れたからといってすぐ擦り寄ってくるような、そんな女を受け入れてくれるはずがない。そんなムシのいい話はない。千夏はその頼もしい姿を傍観しつつ、しばらく恋愛からは遠ざかろうと、自分に言い聞かせる。


「あまなつ。招待メール、ここの人達にも送っといて。最近あまり取引がないんだけど、これを機会にまた取引したいから」

「あ、はい」

千夏は我に返り、亀石から顧客リストを受け取る。それから早速自席に戻り、メールを作成し始めた。


クリエイティブEXPO二日前になった。この日は朝からよく晴れていたが、夕方になって外がどんより曇り始めた。

「夕立が来るかも」

黒岩が窓の外を見て言う。

「勘弁してほしいですよねー。今日、新しい靴おろしたばかりなのに」

冬馬が迷惑そうに合いの手を入れる。

千夏はデザイナー達の方に顔を向ける。どうやら繁忙期から解放され、気ままにやり過ごしているようだ。部屋にはデザイナー三人と千夏しかおらず、のんびりした空気が流れ、平和なことこの上ない。千夏は伸びをして、彼らの様子を何気なく見たあと、再びパソコンに目を戻す。


その直後、ゴロゴロと空が唸り出す。バリバリという嫌な亀裂音が聞こえたと思うや否や、ガラガラドーンと激しい落雷音が轟く。

「うわ。どっか落ちたかな」

黒岩が窓の外を凝視する。千夏も立ち上がり、同じ方を見る。窓の外では一斉に雨が降り出した。

「高光さん、無事、来られますかね」

隣に白井もやってきて、心配そうに窓の外を見る。薄いグレーのアスファルトが、濃いグレーへと様変わりしてゆく。

「うーん。無事だといいね」

千夏は腕を組んで顔をしかめた。


三十分ほど経った頃、強烈な雷雨はおさまったものの、小雨は降り続いていた。千夏が壁掛け時計を見ると、ちょうど午後六時だった。

「ほら、今のうちに帰りなよ。今日、もう暇なんでしょ」

千夏はデザイナー達を急かす。

「俺はちょっとこの島崎重機の修正、やっちゃいますね」

冬馬が作業中の画面を指さしながら黒岩に声をかける。

「杉崎君、めっちゃ助かるー。お願いね。お先」

「冬馬さん、天野さん、お先です」

黒岩と白井は立ち上がり、タイムカードを通し、部屋を出ていく。千夏もパソコン上のアプリケーションを閉じる。


そのときだった。新卒の営業、山本が血相を変え、制作部の部屋に飛び込んできた。

「すいません、失礼します」

「どうしたの」

千夏が首を伸ばす。

「高光…。納期に間に合わないとの連絡が入りました」

「えー! なんで」

千夏がとっさに山本に問いかける。冬馬も顔を上げる。

「はあ、高光の周辺一帯で停電があったみたいで。今、印刷機が全部止まっちゃってるらしいんです」

「えー。じゃあ前田設計の会社案内も?」

「そうです。電力の復旧のめどが、まだ経ってないそうなんです」

「分かった。とりあえず長谷川さんに連絡する」

千夏は固定電話の受話器を取り、長谷川の携帯に電話をかける。呼出音だけが鳴り、一向につながらない。

「ダメか。じゃあ、もう社長だ」

千夏は部屋を出て、エレベータで七階へ上った。


社長室に亀石の姿はなかった。他の部屋もほぼ照明が落ちていて、定時上がりした社員が多いようだった。千夏はひとまずメーリングリストを使い、全社員向けに一斉メールを送り、緊急事態を知らせた。すぐに亀石から返信があり、他の印刷屋に掛け合えとのことだった。


「なんだよ。緊急事態発生かよ」

状況を察した冬馬が、千夏の席に近づき、声をかける。

「そうなの。冬馬も手伝って。あ、私、ヒロイン・デザイン株式会社の天野と申します…」

千夏は冬馬に印刷屋リストを手渡し、受話器に向かって話しかける。冬馬は向かいの机に座り、そこの固定電話の受話器を取ると、電話をかけ始める。山本も黒岩の机上の電話を使い、同様に電話をかけ始めた。


午後六時五十分になった。山本が席を立ち上がり、千夏に声をかけた。

「あの。こんなときにすみません」

「どうしたの」

「俺、七時半からマサさんと、クライアントと会食の予定が入ってて」

「分かった。お前はもう上がれ。お疲れ」

冬馬は顔もあげず、リスト内の電話をかけた会社に取り消し線を引いていく。

「はい。お疲れ様です。お先に失礼します」

山本は部屋を出る。千夏と冬馬はそれに構わず電話をかけ続ける。なかなか印刷を請け負ってくれる会社は見つからず、焦燥感に駆られていく。


午後八時になった。冬馬が受話器を置き、千夏に声をかけた。千夏もちょうど電話を切ったところだ。

「ねえ、少し休まねえ?」

「だめ」

「リフレッシュしたほうがいいよ」

「時間との勝負。そんなこと言ってる場合じゃないよ」

千夏がキッと睨むと、冬馬はやれやれと言わんばかりに両手で天を仰ぐ。

「無理かもな」

「無理じゃない」

「そう?」

冬馬は首をぐるりと回す。


「そうだよ。前田設計、正秋がせっかく冬馬のために取ってきた仕事なんだよ。冬馬だってやりたかった仕事じゃん」

千夏は噛みつくようにいい、リストをめくる。

「まあ、そうだけど」

「制作してみて、それの出来はどうなの」

「過去最高」

冬馬は自画自賛して言い切る。

「その過去最高傑作を、そんな簡単に諦めていいわけ。無理です、で終わらせていいわけ」

千夏は椅子から勢いよく立ち上がり、バンと机を叩く。冬馬は少し体をのけぞらせるだけで、何も言わない。

「私は許さないよ」

千夏の言い方は、まるでガミガミ母ちゃんだ。さらに千夏は椅子に座り直し、受話器を耳にあて、目にも止まらぬ速さで固定電話のプッシュボタンを押す。冬馬は呆気に取られて、くすくす笑い出す。

「はい。すいませんでした」

冬馬も椅子に座り、再び電話をかけ始めた。

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