引き潮
千夏は全身の力が抜けていた。ソファから滑り落ちそうになるのをこらえ、改めて膝を揃え、座り直した。そして、冬馬を改めて見た。まるで全然知らない、赤の他人に見えた。
「それに。冬馬、私の前でちゃんと笑わなくなったよね」
千夏は自然と冷静で、穏やかな口調になる。
「え?」
冬馬は怪訝そうに目を細める。
「笑ってない。付き合う前の方が笑ってた。そうだよ。私もそう。付き合う前の方が、楽しかった。冬馬、友達の前ではすっごく楽しそうに笑ってるの、自分で気づいてる?」
「そんなことねえよ」
「あるよ。鏡、見てないだけ」
千夏は自分の目元にまだ残っていた涙に気づき、近くにあった箱ティッシュを引きずり出すと、それで拭き取る。
「ねえ。怖いんでしょ」
「怖いって、何が」
「誰かを本気で好きになって、また失うのが」
想像以上に、千夏の声は部屋に力強く響く。
「正秋に詰められて、決断させられちゃって。でも、本当は不本意だったんでしょ。私のことは、危なっかしくてほっとけなくて。でも。多分、それ以上でも以下でもない」
「そんなことない。好きだよ」
「今更遅い」
「だって」
「もうそういうのいらない」
千夏は冷たく言い放つ。
「じゃあどう言えばいいんだよ」
冬馬は前髪をかき分け、頭をガリガリ掻き出す。その必死さを見て、千夏はますます平静になる。
「冬馬は自分で気づいてない。まだ、ヒナコさんのこと、引きずってる」
千夏の顔は能面のように無表情になる。その顔でチェストの上にある写真立てを冬馬の前に突きだす。写真のなかの冬馬は大勢の仲間に囲まれている。さらに、冬馬のすぐ隣で微笑んでいる女性は、間違いなくヒナコだ。冬馬は目を見開き、それを凝視する。
「ほら。このときの冬馬。すっごいいい笑顔。本当に好きな人といるときの顔」
見れば見るほど、冬馬は顔中の筋肉を弛緩させ、幸せそうに笑っている。これが本来の冬馬だ。千夏の前では表さない。表せないのだ。
ずっと、千夏は冬馬に付き合ってもらってると思っていた。若いし、圧倒的に外見がいいから、気後れしていた。だから思っていることもろくに伝えられずにきた。だけどそれは間違いだ。恋愛は互いが対等なはずだ。私にだって、プライドがある。
「んなわけねえし」
冬馬は吐き捨てるように言い、舌打ちする。
「ヒナコさんのこと忘れたくて、でも忘れられないから、この写真、ここに置いてる。それに、また失うのが怖くて、私に踏み込めないんでしょ」
「違う」
「違わない。そんな意気地なし、私には無理。ヒナコさんより魅力的になりたいとも思ったけどね。そもそも私の方が、冬馬を受けつけない」
千夏のはねつけるような言い方に、急に冬馬は真顔になり、いきなりラグから立ち上がる。千夏が少し動揺して見ていると、冬馬は千夏の両腕を引っ掴んでソファから引きずりおろし、床に押し倒す。
「やめて。今、セックスしたって何にもならない」
千夏は叫びながらもがく。
「おー、そうか。じゃあ確認すっか」
冬馬は千夏のシャツを掴み、強引に左右に引っ張る。ボタンが弾け飛び、ブラが剥き出しになる。冬馬は千夏の胸に噛みつくようにキスし、股間のあたりを弄り始める。
「いや」
千夏は勢いよく冬馬の頬を張る。
「いって…」
「最低」
ああ、もう、自分には無理だ。涙も出ない。千夏はドタドタと部屋を横切り、ドアに向かう。すぐに冬馬に捕まり、後ろから羽交締めされる。
「ごめん」
「帰る」
「帰るな」
「離して」
冬馬の腕力に敵わず、千夏はその顔を力の限り睨みつける。
「じゃあ、私のこと愛してるって、言えるの」
張り上げた声は壁に跳ね返り、二人の耳を貫く。千夏は息を整えながら冬馬を睨みつける。冬馬も見つめ返す。
「ねえ。私が今言ったこと、聞こえた?」
冬馬は黙り込み、下を向く。千夏はイライラして襟首を掴んだ。
「愛してるって言えるはずだよね。好きなんだよね。私のこと」
千夏は襟首を揺さぶる。冬馬は抵抗せず、なすがままになる。
「ヒナコさんとの写真、今すぐ捨てて。香水も。エクスタのアカウントも削除して。ねえ、できるよね。私のために」
千夏はツカツカとチェストに歩み寄り、写真立てと香水の瓶を引っ掴み、床に叩きつける。割れることを期待したのに、割れない。逆上して二つまとめてドスドスと踏みつけると、写真立ての方だけ亀裂が入った。そこへ、冬馬が千夏の背中を後ろから押さえ込んだ。
「ごめん」
冬馬がかすれた声で謝る。千夏は息を荒くし、踏みつけるのをやめる。
それから冬馬は千夏を自分の方に向き合わせる。黙って膝を折り曲げ、その場に座りこむ。千夏が見ていると冬馬は床に両手をつく。さらに頭をつく。完全に土下座の姿勢だ。
「千夏。本当に、ごめん」
千夏ははだけた胸をシャツで隠し、冬馬をじっと見下ろす。なんで恋人の、こんな無様な姿を見せつけられなければならないのか。結局、私は冬馬にとってなんだったのか。もう怒りも悲しみも湧いてこない。冬馬のすすり泣く声を、ただただ黙って聞く。
「ねえ、冬馬」
千夏の呼びかけに、冬馬は答えない。まだ額を床にくっつけたままだ。千夏はしゃがみ込み、冬馬の背中に手を当てる。
「誰かと付き合うとか、結婚するとか。私はそういう枠に自分をはめていたい。それでいいと思ってる。でも、冬馬はやめたら」
千夏の疲れた声に、冬馬は顔を上げる。目には涙が浮かび、ほおをつたい床に落ちる。
「だって。千夏が俺のこと、好きって言うから。泣くから。千夏、綺麗になったし。いちいち言うこと可愛いくて、なんか、いじらしいし。だから、応えてあげたいって、思って」
冬馬はしゃくりあげながら、肩を震わせながら、一つ一つ、絞り出しながら言う。
「そう。ありがとう。私に合わせてくれようとしたんだね」
千夏は急に罪悪感を覚える。自分がひどく愚かに思えてきた。
「ヒナコに離婚突きつけられたとき。死にたいくらい、辛かった。全然ラクになれなくて。だから今度こそ、ちゃんと誰かを幸せにしてやんなきゃダメだって。前向こう、変わろうって思って。転職して、千夏見てたら、すげー頑張ってるし、どんどん変わっていくから。千夏となら俺も変われそうだなって思えて」
「うん。見ててくれてありがとう」
千夏は素直に感謝を込めて言い、冬馬の背中を撫でる。冬馬は目元をこするが、涙は後から後から出てくる。
「ごめん。本当にごめん。千夏」
「うん。もういいよ」
謝られれば謝られるだけ、みじめだ。
冬馬は顔を上げ、床に膝をついたまま千夏を抱き寄せる。千夏は冬馬に身を預けながら、わずかに背中をポンポンと叩く。
「もっと自分のこと、解放してあげなよ」
それからしばらく、冬馬は千夏を抱きしめて泣き続けた。千夏は虚空を眺めながら冬馬の背中を撫でた。ぼんやりと、あの日のホタルが見えた気がした。
「でも。千夏は? マサさんと…?」
少し涙が落ち着き、正秋の名前を持ち出した冬馬は、ひどく苦しそうだ。
「私のことはいいの」
言い方が不自然に明るくなってしまったと思いながら、千夏は鼻がつうんとする。
「春菜がねえ、やっぱりまだ正秋のことが好きだから、こつこつ頑張るんだって。振り向いてもらえるまで。それで私とは、また一緒にランチ、行きたいんだって」
言いながら少し笑い、千夏はスカートのポケットに入れておいたもののことを思い出す。冬馬に抱きしめられたまま、こっそりポケットに手を伸ばし、それを掴み取る。冬馬の背中越しに、そのビーグル犬のストラップを見つめる。愛しさと涙が泉のように湧いてくるのを、胸と目元、それぞれの場所に感じる。再びストラップをポケットに戻し、冬馬の肩のあたりにまぶたをあて、押し寄せる激情に耐える。
「俺、やっぱり無理だ。別れたくない」
冬馬は千夏をさらに強く抱きしめる。
情ならある。だけど、こんなに抱きしめられても、一度引いた潮が再び満ちる気配はない。自分に必要なのは冬馬ではない。千夏はそんな自分を冷静に観察する。それから、力づくで冬馬の腕を離す。
「何言ってんの。あんなにたくさん、友達いるじゃん」
千夏は少しだけ笑い、冬馬の頬をつねる。
「私は冬馬の友達、嫌いだけど。冬馬はみんなが好きなんでしょ」
「うん。俺の友達が千夏を傷つけて、ごめん」
冬馬は素直に頭を下げる。
「もういいよ。どの道、私は一杯七百円以上のカフェに気楽に入れないし」
「え?」
不思議そうに聞き返す冬馬を無視して、千夏は仕方なさそうに笑う。
「一旦全部、手放して。そうすればラクになれるから。ほら、すぐに友達呼びなよ」
千夏は、冬馬の背中を優しく叩く。
「それか」
それ以上は言いたくない。だけど、言ってあげた方がいい気がする。
「もう一度、ヒナコさんに伝えるの。やり直したいって」




