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こんな男

それから数日経った朝のことだった。


千夏は自宅で体重計に乗ってみた。四十八キロが目標だったのに、いつの間にか四十六・三キロまで落ちていた。鏡をよく見ると、ほおの肉が落ち、痩せこけていた。正秋があれほど心配していたのも無理はなかった。それでも気落ちして、朝食をとる気にもなれず、そのまま出勤した。


通勤電車のなかで、千夏はスマートフォンを開いた。会社にいる昼の時間も、自宅にいる夜の時間も、千夏はしばらく冬馬を避けていた。冬馬は忙しそうにしていたが、メッセージだけは毎日飛んできた。千夏はそれらをすべて既読無視していたし、会社でも必要最低限しか話さなかった。冬馬がいよいよ怒り出しそうな気配がして、返信することにした。冬馬からは、了解、とすぐに返信があった。


仕事を終え、二人はいつものように、冬馬の家に連れ立って入った。千夏は一人がけのソファ、冬馬はラグの上に座った。千夏は何とはなしにチェストを見た。そこにはいつも通り写真立てや鉱石、アロマストーンなどが置かれていた。ここには何度か来ているのに、このとき、千夏は初めて気づいた。そして確信を強めた。重たい空気のなか、千夏から先に口を開くことにした。


「別れよう」

冬馬は黙り込み、膝の上で手を握りしめている。その横顔は整っていて綺麗だ。なのに、何も表情がない。

「なんで」

ようやく冬馬が言葉を口にして、千夏は軽く咳払いする。

「無理だから」

「無理? 何が」

「ああ、そうか。分からないんだね」

千夏は力が抜け、ため息をつく。

「分かんねーよ」

冬馬は顔をしかめる。千夏はうんざりして、深呼吸する。

「私のこと、好きだって思い込もうとしてるところ」


「なんだって?」

冬馬は思いっきり目を細める。意味がわからない、といった様子だ。

「言った通りだけど」

「そんなことねーよ」

「じゃあなんで、好きって言えないの」

千夏がじっと目を見て尋ねると、冬馬は挙動不審気味に少し体をのけぞる。

「好きだよ」

その言い方は、わずらわしいハエを追い払うような言い方だ。

「へえ。私に指摘されて、やっと言えるくらいのレベルなんだね」

「なんだよ。レベルとか関係ねーよ」

「関係ある。蟻くらいの好きなのか、宇宙くらいの好きなのか。冬馬はせいぜい、蚤くらいの好きしかない」

いや、もしかしたら蚤ほどもないかもしれない。微生物くらいだろうか。

「そんなわけねーだろ」

イライラした様子で、冬馬は頭の後ろを掻く。そのイライラぶりに、千夏もイライラしてくる。


「エクスタで他の女の子達と話すのやめてって言ったら、これはこれ、って言ってきたよね。あなたが好きなはずの恋人が不快だと訴えてるのに、どうしてやめてくれないの」

「だって…。あれ全部、友達だし」

何が悪いんだと言わんばかりに冬馬は言い、鼻息をつく。

「ふーん。リアルで付き合いのある私よりも大事なわけ」

千夏の口調は徐々に速く、キツくなっていく。

「そうは言ってねーだろ」

「なんで私にもエクスタやれって言ったの」

そうだ。そんなの見せつけられるくらいならやりたくなんかない。どうせ自分は投稿するものなんてない。

「千夏ともみんなとも、楽しくやりたかっただけだよ」

「二人きりで話す時間の方が大事なのに、冬馬はスマホ、離さないじゃん」

「離さないわけがねーし。そんなに言うなら控えるよ。だから──」


「それと。私が冬馬の友達に不愉快な思いさせられたこと、気づいてたかなあ。わかってたかなあ。俺は歳上の女無理とか、歳下彼氏は嬉しいのかとか。ずけずけ言われて嫌だった。私が嘘ついて帰るくらい」

千夏は冬馬の言葉を遮り、声を荒げて自分の膝をビシビシ叩く。

「あれ、やっぱり嘘だったのか」

何やら傷ついたような顔をする。千夏はカッとして目をむき、ソファを立ち上がる。

「やっぱりって何。じゃあなんでもっと庇ってくれないの。私のことほったらかしにして」

冬馬は気まずそうに上目遣いする。

「ごめん」

「ねえ。あのさあ」千夏は再びソファに座り、言葉を切る。「全部に笑顔。全部に対等。全部に公平。だから嫌い。冬馬のそういうところ、大嫌い」

「何それ」

冬馬は意味がわからなそうだ。


「冬馬は私のことも。他の人のことも。みんなフラット。全部フラット。私は恋人には、特別扱いされたいのに」

そう。恋人の笑顔も優しさも、全部独占したい。なのに、させてくれない。してくれない。

「俺は友達も彼女も全部大切にしたいって思ってるだけだよ。そういうスタンスだよ」

「そうかな? 特別扱いしてる人、他にいるよね」

「は? 誰それ」

言うべきか。言わざるべきか。ここまで言ったら言おう。千夏は自分にハッパをかける。


「ヒナコさん」

千夏はスマートフォンの画面を掲げる。冬馬はカッと目を見開いた。


直後、室内は水を打ったように静まり返った。沈黙している間、冬馬はずっと画面を見ていた。千夏は冬馬の横顔を見ているうち、静かに涙が流れ落ちていくのを感じた。冬馬の目の前には膝上十センチのデニムスカートを履き、ポーズを取るモデルのヒナコの画像が映っている。千夏は音を立てたくなくて、鼻をすすることもせず、冬馬が喋り出すのをひたすら待った。


「なんでヒナコのこと知ってんだよ」

小さくて、少し非難めいた低い声で冬馬が尋ね、千夏の方を一瞥する。

「前にエクスタにコメントしにきてたしね。冬馬とやりとりが一番多いのも知ってる。私と同じで三十三歳。でも、知りたくて知ったわけじゃない」

千夏は手で涙を拭き、目に怒りを込める。冬馬は少し考えるふうに宙を見つめ、千夏と向き直る。

「俺の友達が言ったのか」

「そう。でもこの件は友達のこと、責めないで。直接聞いたわけじゃない。知っちゃったのはたまたま」

千夏は震えて言い、チェストに手を伸ばす。鉱石の影に、小さなボトルがあり、千夏はそれを取り上げる。「LADY DAISY」と書かれたその香水を、冬馬の面前に掲げる。

「レディ・デイジー。デイジーって、ヒナギクって意味だよね。ヒナコさんがプロデュースした香水」

冬馬は頭を垂れ、深く息をつく。


「撫子ワークスの仕事、楽しそうだったもんね」

「別に」

冬馬の態度はそっけない。

「好きな人の香り。ヒナコさんが、いつもつけてたんじゃないの」

冬馬は何も言わない。言わないのはイエスと同じだ。

「忘れられなくて、これ。アロマストーンに垂らしてたんじゃないの。私がいないとき」

千夏は、今度はアロマストーンを指さす。冬馬はまだ黙りこくったままだ。

「春菜にもつけさせてたしね。私も知らずにホテルでつけたら、襲いかかってきたよね。私にじゃなくて、ヒナコさんの匂いに興奮したんでしょ。あんたがやってること、変態と変わんないからね」

「んだと」

冬馬は目をむいて逆上した。

「本当に最低」

千夏は容赦なく言い捨て、涙を流し、正面から向き合う。


「ねえ、だからなの」

「何がだよ」

冬馬は声を荒げる。

「冬馬のセックス、ひどい。ほんと、嫌い。全然幸せじゃない」

「はっ…。いつも気持ちよさそうにしてんじゃん」

冬馬の、少しあざ笑うような言い方は、千夏がキレるには十分だ。

「そういうことじゃないから」

「どういうことだよ」

「冬馬は。シてるとき、上の空だもん。他の誰かのこと、想ってるみたいな顔して。私だけ気持ちよくなればそれでいいって、すぐ終わらせる。それじゃまるで…。まるで、私だけがシたくて付き合ってやってるみたいじゃん」


冬馬はまたしても黙り込む。千夏の感情は怒りから悲しみへシフトする。恥ずかしさと虚しさも湧き上がり、涙が溢れる。ひどい男だ。最低という言葉じゃ表現しきれない。

「ヒナコさんのこと想いながら、私のこと抱いてたんでしょ」

涙はもう洪水だ。千夏は唇をわなわなと震わせる。

「ねえ」

冬馬は答えない。

「だけど、ち、違うから。わ、私はヒナコさんじゃないから。ねえ。だ、だからあんな、そっけないセックスで…」

しゃくりあげながら、千夏の脳裏に疑問符の雨が降る。


女にここまで言わせる男ってどうなの。ねえ、千夏。あんたはこんな男の、どこがいいの。どこに惚れたの。別れた妻を忘れられなくて、未練タラタラで、優柔不断で。具体的に教えて。本当に、好き? 優しいのと、穏やかなのは違うよ。意味、履き違えちゃダメだよ。騙されないで。こんな男を信頼できる? こんな男に、あなたは安らぎを感じられる? その先に、未来は見える?


自分に問いかけた直後のことだった。

千夏のなかで、何かの水位が急に下がった。潮が引くような、そんな感覚に襲われた。体温が奪われていくような、肌寒さすら感じた。ついさっき、高潮のような激情が湧き上がったばかりだった。なのに今は何もかもが引っ込み、その感覚ごともぎ取られ、波にもまれ、沖へ押し流されてしまった。干潮のときに見られる、荒涼とした浜のように、残っているのは小さな流木と、ひび割れた貝殻だけだった。千夏のなかにはもう、ない。何もない。頭のなかの霧が晴れてきた。そしてそれは次第次第に、クリアになっていった。

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