俺が悪いってことにして
千夏と正秋は声を押し殺し、物置きのソファの上で抱き合い、キスしていた。
「んん」
正直なことを言えば、千夏は正秋のキスを拒否したくはない。だけど理性はまだ残っている。正秋の両頬を掴み、唇を引き剥がす。
「正秋」
「お願い。このままでいさせて」
「ダメ」
「分かってる。全部俺が悪いってことにして」正秋は切なげな声を漏らす。「杉崎に言えよ」
「え?」
「千夏は悪くない。俺に無理矢理、襲われたってことにすればいいから」
正秋は千夏のブラウスをまくりあげ、ブラごと胸を掴んだ。
「やめて」
千夏は声を殺してたしなめる。
「千夏。愛してる」
ずっと言われたかった言葉だ。それは冬馬からはもらえてない。千夏は抵抗する理由が分からなくなり、徐々に体の力が抜けていく。正秋はさらに服を脱がしてくるかと思いきや、なぜかそこで手を止める。代わりに千夏の首筋に顔を寄せてしがみつき、震え始める。
「正秋…?」
「ご、ごめん。また、こんなことして。最低だな、俺」
正秋はメガネを外し、溢れる涙をぬぐう。千夏は黙って様子をうかがう。
「で、でも。愛してる。ああ、愛してるんだ。気が狂いそうだよ。君しか見えない。許して」
「正秋──」
「幸せか? 杉崎と一緒で」
正秋は泣きながら千夏の両肩を掴む。
「そんなのどうだっていいでしょ」
千夏も正秋の肩を掴み返す。
「よくない」
「どうしてよ」
「じゃあ、聞くけど。なんでこんなに痩せちゃったんだよ」
そう言って、正秋は千夏の脇腹に触れる。
「─え?」
意外な言葉に、千夏は少し冷静さを取り戻す。
「いくらダイエットしてるからって。痩せすぎだろ。ちゃんと食べてんのか」
「食べてるよ」
本当は食べてない。そのせいで胸が減ってしまった。
「肋骨、こんなに浮き上がってる」
正秋は肋骨部分を撫でる。千夏も少し体を起こして自分のお腹を見る。両サイドの肋骨が数本ずつ、浮き上がっている。
「クマもできてる。ちゃんと寝られてるのか」
正秋は、今度は千夏の目元を撫で、心配そうな目をむける。メイクはばっちりしてきたはずなのに、コンシーラーでも隠しきれていなかったらしい。
「食べるようにも、寝るようにもしてる」
努めて冷静に言い返すも、正秋は険しい顔になる。
「そうしたいだけで、できてないんだろ」
「ほっといて」
「ほっとけないよ」
正秋は再び千夏を強く抱きしめる。
「シー。誰か来る」
千夏は息を飲んだ。
「おい、鍵かかってんぞ。誰だよ、鍵かけたの」
誰かがドアの外から言う。
「知らね。待って、鍵持ってくるから」
別の誰かがそれに答える。どうしようかと必死で頭をめぐらしていると、正秋がひしっと抱きしめた。
少し経って、物置き部屋のドアが開いた。男性社員が何人か話しながら入ってくる。千夏と正秋は身動き一つせず、その場に固まる。薄暗いし、手前にはラックがある。近づいてこられない限り、こちらは見つからないはずだ。そんな状況にも関わらず、正秋は音も立てず千夏を強引にソファへ仰向けにさせる。自分はそこに覆い被さり、千夏の唇をこじ開け、舌をジュウウと吸い上げてくる。
声が漏れ出そうなのを千夏はグッとこらえる。男性社員達は、パイプ椅子を手分けして運び出しているようだ。早く終わってと願いながらも、千夏は正秋の舌が口の中に侵入し、激しく舐め回すのを受け入れる。足音を立て、すぐ近くまで社員の一人が近寄ってくる。千夏は心臓が止まりそうなのに、正秋は動じず、千夏とのディープキスをやめようとしない。手足にも力が入らなくなり、千夏はどんどん思考力が落ちていく。
もうどうにでもなれ。千夏は投げやりになりながら、その甘く激しいキスに身を委ねる。
やがて社員達は椅子を廊下へ出しきったらしく、ドアを閉めて出ていった。
暗がりで正秋と目があう。充血したその目からは心配と、愛おしさが溢れ出ている。正秋は起き上がり、千夏のことも抱き起こす。それから再びぎゅっと抱きしめる。
「本当にごめん。俺。遊び相手でもいいから」
「バカ言わないで」
「俺からは連絡しないから」
「ダメ。そんなのよくな──」
正秋は再び唇を奪い、千夏を黙らせる。千夏もまた嫌がらず、されるがままになる。
「愛してるから、やっぱり、襲えない。そんなにげっそりしてて。どうしたんだよ。心配かけんなよ。俺がご飯つくってあげたい。ゆっくり寝かせてあげたい。あいつ、そんなこともできないのか」
正秋に泣いて頭の後ろを撫でられ、千夏ももらい泣きしそうになる。そっと体を離し、立ち上がる。正秋が座ったまま呆然と見上げる前で、千夏は服の乱れを直す。
「あいつに、何かされたんだろ」
「大丈夫。心配してくれてありがとう」
「千夏。行くな」
「行かなきゃ」
「待って」
後ろ髪を引かれる。だけど千夏は必死で笑顔を浮かべ、物置き部屋を出た。
その後の千夏は制作部の部屋にもどり、大急ぎで仕事を終わらせた。タイムカードを切り、冬馬の座っている方を見た。デザイナーは三人とも今が最高に忙しいらしく、長谷川とあれこれ話したり、パソコンのマウスを熱心に動かしていた。千夏はスマートフォンで冬馬へお疲れとメッセージを送り、まっすぐ帰宅した。
気分が悪い。千夏は自宅の玄関ドアを勢いよく開け、勢いよく閉める。靴を脱ぎ、音を立てて床の上を歩く。キッチンのシンクで水をくみ、一息に飲む。勢いをつけすぎて、咽せ込んでしまう。
千夏はバッグを持ったままキッチンを出て、ノロノロとベッドの方へ近づく。バッグから定期入れを取り出し、そこから折りたたんでおいた小さな紙を引き抜く。冬馬が以前描いてくれた、千夏の似顔絵だ。それをしばらく見つめた後、スマートフォンを手に取る。ブラウザのアプリを開き、「撫子ワークス レディ・デイジー」と検索する。撫子ワークスの公式サイトがトップにヒットし、千夏はそのリンクをタップする。出てきたページを見て、千夏はあっと声を上げた。プロデュースした女性の顔を、よく知っている。
千夏はそのページの記事を斜め読みすると、スマートフォンを脇に放る。それからベッドの棚に手を伸ばし、ビーグル犬のストラップを掴む。ベッドに横向きに倒れ込み、ストラップをほおに寄せると、ボタボタと大粒の涙がこぼれてくる。
スマートフォンが何度かバイブを繰り返した。そのすべてが冬馬だったが、すべて無視した。




