表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
85/95

物置き部屋

相変わらず、会社では仕事が山積みだった。とはいえ、千夏はテキパキと仕事をこなし、なる早で帰れるよう努力した。冬馬にはメッセージで、しばらく忙しいからお互いちゃんと家で休もうと伝え、会うのをやめた。会いたいのに、会いたくなかった。冬馬と友人達との一件以来、千夏のなかで何かが変わってしまった。


たまに正秋と社内で顔を合わせると気まずかったが、正秋は何事もなかったかのように明るく振る舞ってきた。元々、誰よりも営業スマイルが得意な正秋は、千夏にも営業スマイルを通すようになった。千夏はそれに小さく傷ついたが、笑顔で大人の対応をした。春菜の方はほぼ完全無視を決め込んでいるようで、千夏もそれに取り合う気力もなく、無視し返すことにした。


ところが数日後、千夏が給湯室にいるとき、春菜に声をかけられた。

「千夏さん。ごめんなさい」

突然頭を下げる春菜に、千夏はきょとんとする。

「あの…。本当に。悪かったって私、反省してます」

春菜はさらにもう一度、頭を深く下げる。


合コンのことか。冬馬が言っていたように、理乃をけしかけたのは春菜だったのか。

だけど詳細を聞き出す気になれない。もうどうでもよかった。春菜と林の不倫のことを持ち出し、春菜を半ば脅した自分も同様にタチが悪いと、千夏は思えた。言ってみれば、おあいこだ。

「なんのこと?」

千夏はニコニコとつくり笑いして、水筒を流しに置く。スポンジに洗剤と、水をつけ、モコモコと泡を立てていく。


「千夏さん。今、冬馬さんと付き合ってるんですよね」

周りに聞かれないよう、春菜は小声で語りかけてくる。千夏は数秒黙り込んでから、首を縦に振る。

「なら、安田係長のこと。もういいんですよね」

千夏は水筒を洗う手を止め、思わず真顔で春菜を振り返る。

「そんなの、私に確認することじゃないじゃない」

千夏は再び笑顔をつくり、蛇口をひねる。


「私、まだ係長のこと諦められないんです。しつこいの、わかってるし、係長は私なんか興味ないのも知ってますけど。でもそれ言ったら、千夏さんだって係長に興味ないのに、一緒にいたら少し、好きになったんですよね。だから冬馬さんとどっちがいいか、迷っちゃったんですよね」

春菜の話ぶりには前回、四人でカフェで話し合ったときのようなトゲがない。冷静に状況確認するところ、かつ必死なところが正秋みたいだと、千夏はぼんやり思う。


「だから私も、こつこつアタックし続けようと思うんです」

泡にまみれた水筒が、千夏の手から滑り落ちる。懸命に言う春菜に、千夏は思わず春菜を無表情で見る。整った顔には、これまでのような余裕はない。必死さだけに支配されている。

「ふーん。そうかあ」

千夏はやけに明るい声を出し、水筒を拾い上げる。春菜は腕を組み、その様子を黙って見る。

「私はズルい女だからさ。そんなの、私なんかにお伺い立てなくてもいいんだよ」


「ねえ、千夏さん」

春菜は急に千夏のブラウスの袖を掴んだ。

「え、何」

「係長だけじゃなくて。私、千夏さんのことも好きです。だから前みたいに仲良くしたいし、千夏さんの本音、聞きたいです」

春菜は千夏にまた頭を下げ、肩を震わせる。

「春菜は私のこと避けてたんじゃないんだ」

本音は言わず、千夏は春菜に矛先を向ける。

「はい。避けてました。ムカついてたし、気まずくて。でも前みたいに三人でお昼、食べたいです」

それは春菜自身が正秋のそばにいたいがための口実だろう。恋敵の自分のことも好きだと言う春菜を、千夏はすぐに信用できない。


「それは正秋が嫌がるんじゃないかな」

「そんなことないです。係長、まだ千夏さんのこと、好きです。でも。でも、私も。好き、だし」

涙をこらえる春菜のことが、急にいじらしく思えた。前はいつも余裕たっぷりで、気楽にやっていたはずなのに。その余裕のなさから、本当に林との不倫関係は終わらせたのだろうなと、千夏は察する。


「だから苦しくても。辛くても。ちゃんと恋していたいんです。千夏さんも冬馬さんが好きだから、そんなに頑張って綺麗になったんでしょう?」

それは今となっては分からない。冬馬のためにというよりは、変わりたかったのだ。だけどもちろん、冬馬に女として見てもらいたい気持ちは当然、あった。千夏が遠い目をして水筒を拭くと、春菜が目を合わせてくる。


「お昼の時間、私はこれからもずっと係長大好きって言っていたいんです。千夏さんから朝の占い結果とか、ラジオの話とか、そういうの聞いて、笑ってたいんです。それに」

「それに──?」

「全部やれること、やり切ったら…。やり尽くしたら…。私、もしかしたら係長のこと、諦められるかもしれません」

春菜は消えそうな声で言い、うなだれた。その顔には悪意も、演技も感じられなかった。


「んー。でも、お昼を三人で、は無理かな。冬馬が嫌がると思うから…」

千夏は冬馬にラブホテルで抱かれたときのことを思い出す。あのとき、冬馬は明らかに正秋に対抗意識を燃やしていた。余計な波風は立てたくはない。

「なら、冬馬さんも一緒に」

「それは絶対に無理だって、わかるでしょ」

千夏は呆れて、力なく笑う。

「じゃあ、私と外で一緒にランチ、行ってください」

「ねえ、どうしたの? 理乃は?」

執拗にランチ友達を要求する春菜を、千夏はいぶかしがる。

「理乃には絶交されました。私のせいで冬馬さんになじられたから…」


ああ。そういえば問い詰めたと言ってたな。千夏はだんだん、春菜が哀れに見えてくる。同時に、これだけ赤裸々に告白できるその姿を、少し可愛く、健気だと思えてくる。

「冬馬さん。千夏さんのこと、本当に大切に思ってるんですね」

「どうだろうね」

「どうしたら、千夏さんみたいにいい女になれますか」

それはこっちのセリフだ。千夏は急に滑稽に思え、くすくす笑いだす。春菜とこれ以上言い合うのがどうでもよくなってきた。

「何がおかしいんですか」

「別に。今度、ランチ、一緒に行こう。女二人だけでね」

千夏は自然と笑顔になる。手を振り、給湯室を後にした。


よんかく関係はこれで終了か。春菜ともわだかまりが解けたし、万々歳のハッピーエンド、大団円だ。だけど自分と冬馬はどうだろう。自分の気持ちに自信が持てなくなっている。ぼんやりして前を見て歩いていなかったせいで、千夏は誰かと正面衝突する。

「うわっ。あー、ごめん、大丈夫?」

ぶつかったのは正秋だ。千夏は廊下に尻もちをつき、正秋を見上げる。正秋は相変わらず営業スマイルのまま手を差し伸べてきたが、千夏は春菜の言葉を思い出し、その手を振り払う。

「大丈夫。こっちこそごめん。あのさ」千夏は一人で立ち上がり、軽く咳払いする。「言うの遅れちゃった。前田設計、受注おめでとう。本当にすごいね」

「ありがとう」

正秋は驚いたように言い、顔から営業スマイルを消す。目を細め、優しい笑みを浮かべる。千夏と二人きりのときに何度も見た、あの優しい目だ。千夏は束の間、その目に引き込まれてゆく。自分はこの目が嫌いじゃない。好きだ。


「じゃあね」

千夏は意を決して手を振り、制作部の部屋へ逃げようとする。

「ねえ。また手伝ってもらいたい仕事、あるんだけど」

追い打ちをかける正秋に、千夏はため息をついて振り返る。

「それは部下に頼みなよ」

「ううん。制作部の人間がいい」

「じゃあ冬馬に言ったら」

冬馬の名前を口に出した途端、正秋の瞳から輝きが失せた。千夏は今度こそやり過ごそうとするも、正秋が手首をつかんだ。

「ちょっと、こんなところで」

正秋はすぐそばの物置きのドアを開け、千夏をそこにねじ込み、自分も続いて入り、内側からカチャリと施錠した。


「正秋、ちょっと」

「デザイナーは実作業があって忙しいだろ」

階段下を利用した物置き部屋で、千夏は声をひそめ、手を振りほどこうともがく。

「今まで通りに接してほしいって、頼んだはずだけど」

正秋は力を込めて、千夏を抱きしめる。

「これのどこが今まで通りなの」

千夏が暴れ続けると、正秋はふと、肩を引き離した。こんなところで何をされるのか、怖くなって震える。

「そんな目、するなよ」

正秋は千夏の顎を引き寄せ、そっとキスした。千夏は抵抗できず、唇を離してくれるのを待つ。

「ダメだよ、正秋」

心のどこかで、ダメとは思っていない。むしろ奪ってほしい。冬馬から自分を。何もかも。千夏が震えながらも、物欲しげに正秋の唇を見ていると、正秋が千夏の頭ごしに何かを見る。千夏もちらりと振り返る。細長い室内の奥は階段のせいで一番天井が低く、二人がけの、擦り切れた古いソファが置かれている。ちょうど手前にあるスチールラックのせいで、パッと見ではそこにソファがあることを気づけない。


「ごめん。俺が百パー、悪い。でも、もう…」

正秋は千夏を抱きすくめたままソファに押しやり、無我夢中で唇を貪った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ