物置き部屋
相変わらず、会社では仕事が山積みだった。とはいえ、千夏はテキパキと仕事をこなし、なる早で帰れるよう努力した。冬馬にはメッセージで、しばらく忙しいからお互いちゃんと家で休もうと伝え、会うのをやめた。会いたいのに、会いたくなかった。冬馬と友人達との一件以来、千夏のなかで何かが変わってしまった。
たまに正秋と社内で顔を合わせると気まずかったが、正秋は何事もなかったかのように明るく振る舞ってきた。元々、誰よりも営業スマイルが得意な正秋は、千夏にも営業スマイルを通すようになった。千夏はそれに小さく傷ついたが、笑顔で大人の対応をした。春菜の方はほぼ完全無視を決め込んでいるようで、千夏もそれに取り合う気力もなく、無視し返すことにした。
ところが数日後、千夏が給湯室にいるとき、春菜に声をかけられた。
「千夏さん。ごめんなさい」
突然頭を下げる春菜に、千夏はきょとんとする。
「あの…。本当に。悪かったって私、反省してます」
春菜はさらにもう一度、頭を深く下げる。
合コンのことか。冬馬が言っていたように、理乃をけしかけたのは春菜だったのか。
だけど詳細を聞き出す気になれない。もうどうでもよかった。春菜と林の不倫のことを持ち出し、春菜を半ば脅した自分も同様にタチが悪いと、千夏は思えた。言ってみれば、おあいこだ。
「なんのこと?」
千夏はニコニコとつくり笑いして、水筒を流しに置く。スポンジに洗剤と、水をつけ、モコモコと泡を立てていく。
「千夏さん。今、冬馬さんと付き合ってるんですよね」
周りに聞かれないよう、春菜は小声で語りかけてくる。千夏は数秒黙り込んでから、首を縦に振る。
「なら、安田係長のこと。もういいんですよね」
千夏は水筒を洗う手を止め、思わず真顔で春菜を振り返る。
「そんなの、私に確認することじゃないじゃない」
千夏は再び笑顔をつくり、蛇口をひねる。
「私、まだ係長のこと諦められないんです。しつこいの、わかってるし、係長は私なんか興味ないのも知ってますけど。でもそれ言ったら、千夏さんだって係長に興味ないのに、一緒にいたら少し、好きになったんですよね。だから冬馬さんとどっちがいいか、迷っちゃったんですよね」
春菜の話ぶりには前回、四人でカフェで話し合ったときのようなトゲがない。冷静に状況確認するところ、かつ必死なところが正秋みたいだと、千夏はぼんやり思う。
「だから私も、こつこつアタックし続けようと思うんです」
泡にまみれた水筒が、千夏の手から滑り落ちる。懸命に言う春菜に、千夏は思わず春菜を無表情で見る。整った顔には、これまでのような余裕はない。必死さだけに支配されている。
「ふーん。そうかあ」
千夏はやけに明るい声を出し、水筒を拾い上げる。春菜は腕を組み、その様子を黙って見る。
「私はズルい女だからさ。そんなの、私なんかにお伺い立てなくてもいいんだよ」
「ねえ、千夏さん」
春菜は急に千夏のブラウスの袖を掴んだ。
「え、何」
「係長だけじゃなくて。私、千夏さんのことも好きです。だから前みたいに仲良くしたいし、千夏さんの本音、聞きたいです」
春菜は千夏にまた頭を下げ、肩を震わせる。
「春菜は私のこと避けてたんじゃないんだ」
本音は言わず、千夏は春菜に矛先を向ける。
「はい。避けてました。ムカついてたし、気まずくて。でも前みたいに三人でお昼、食べたいです」
それは春菜自身が正秋のそばにいたいがための口実だろう。恋敵の自分のことも好きだと言う春菜を、千夏はすぐに信用できない。
「それは正秋が嫌がるんじゃないかな」
「そんなことないです。係長、まだ千夏さんのこと、好きです。でも。でも、私も。好き、だし」
涙をこらえる春菜のことが、急にいじらしく思えた。前はいつも余裕たっぷりで、気楽にやっていたはずなのに。その余裕のなさから、本当に林との不倫関係は終わらせたのだろうなと、千夏は察する。
「だから苦しくても。辛くても。ちゃんと恋していたいんです。千夏さんも冬馬さんが好きだから、そんなに頑張って綺麗になったんでしょう?」
それは今となっては分からない。冬馬のためにというよりは、変わりたかったのだ。だけどもちろん、冬馬に女として見てもらいたい気持ちは当然、あった。千夏が遠い目をして水筒を拭くと、春菜が目を合わせてくる。
「お昼の時間、私はこれからもずっと係長大好きって言っていたいんです。千夏さんから朝の占い結果とか、ラジオの話とか、そういうの聞いて、笑ってたいんです。それに」
「それに──?」
「全部やれること、やり切ったら…。やり尽くしたら…。私、もしかしたら係長のこと、諦められるかもしれません」
春菜は消えそうな声で言い、うなだれた。その顔には悪意も、演技も感じられなかった。
「んー。でも、お昼を三人で、は無理かな。冬馬が嫌がると思うから…」
千夏は冬馬にラブホテルで抱かれたときのことを思い出す。あのとき、冬馬は明らかに正秋に対抗意識を燃やしていた。余計な波風は立てたくはない。
「なら、冬馬さんも一緒に」
「それは絶対に無理だって、わかるでしょ」
千夏は呆れて、力なく笑う。
「じゃあ、私と外で一緒にランチ、行ってください」
「ねえ、どうしたの? 理乃は?」
執拗にランチ友達を要求する春菜を、千夏はいぶかしがる。
「理乃には絶交されました。私のせいで冬馬さんになじられたから…」
ああ。そういえば問い詰めたと言ってたな。千夏はだんだん、春菜が哀れに見えてくる。同時に、これだけ赤裸々に告白できるその姿を、少し可愛く、健気だと思えてくる。
「冬馬さん。千夏さんのこと、本当に大切に思ってるんですね」
「どうだろうね」
「どうしたら、千夏さんみたいにいい女になれますか」
それはこっちのセリフだ。千夏は急に滑稽に思え、くすくす笑いだす。春菜とこれ以上言い合うのがどうでもよくなってきた。
「何がおかしいんですか」
「別に。今度、ランチ、一緒に行こう。女二人だけでね」
千夏は自然と笑顔になる。手を振り、給湯室を後にした。
よんかく関係はこれで終了か。春菜ともわだかまりが解けたし、万々歳のハッピーエンド、大団円だ。だけど自分と冬馬はどうだろう。自分の気持ちに自信が持てなくなっている。ぼんやりして前を見て歩いていなかったせいで、千夏は誰かと正面衝突する。
「うわっ。あー、ごめん、大丈夫?」
ぶつかったのは正秋だ。千夏は廊下に尻もちをつき、正秋を見上げる。正秋は相変わらず営業スマイルのまま手を差し伸べてきたが、千夏は春菜の言葉を思い出し、その手を振り払う。
「大丈夫。こっちこそごめん。あのさ」千夏は一人で立ち上がり、軽く咳払いする。「言うの遅れちゃった。前田設計、受注おめでとう。本当にすごいね」
「ありがとう」
正秋は驚いたように言い、顔から営業スマイルを消す。目を細め、優しい笑みを浮かべる。千夏と二人きりのときに何度も見た、あの優しい目だ。千夏は束の間、その目に引き込まれてゆく。自分はこの目が嫌いじゃない。好きだ。
「じゃあね」
千夏は意を決して手を振り、制作部の部屋へ逃げようとする。
「ねえ。また手伝ってもらいたい仕事、あるんだけど」
追い打ちをかける正秋に、千夏はため息をついて振り返る。
「それは部下に頼みなよ」
「ううん。制作部の人間がいい」
「じゃあ冬馬に言ったら」
冬馬の名前を口に出した途端、正秋の瞳から輝きが失せた。千夏は今度こそやり過ごそうとするも、正秋が手首をつかんだ。
「ちょっと、こんなところで」
正秋はすぐそばの物置きのドアを開け、千夏をそこにねじ込み、自分も続いて入り、内側からカチャリと施錠した。
「正秋、ちょっと」
「デザイナーは実作業があって忙しいだろ」
階段下を利用した物置き部屋で、千夏は声をひそめ、手を振りほどこうともがく。
「今まで通りに接してほしいって、頼んだはずだけど」
正秋は力を込めて、千夏を抱きしめる。
「これのどこが今まで通りなの」
千夏が暴れ続けると、正秋はふと、肩を引き離した。こんなところで何をされるのか、怖くなって震える。
「そんな目、するなよ」
正秋は千夏の顎を引き寄せ、そっとキスした。千夏は抵抗できず、唇を離してくれるのを待つ。
「ダメだよ、正秋」
心のどこかで、ダメとは思っていない。むしろ奪ってほしい。冬馬から自分を。何もかも。千夏が震えながらも、物欲しげに正秋の唇を見ていると、正秋が千夏の頭ごしに何かを見る。千夏もちらりと振り返る。細長い室内の奥は階段のせいで一番天井が低く、二人がけの、擦り切れた古いソファが置かれている。ちょうど手前にあるスチールラックのせいで、パッと見ではそこにソファがあることを気づけない。
「ごめん。俺が百パー、悪い。でも、もう…」
正秋は千夏を抱きすくめたままソファに押しやり、無我夢中で唇を貪った。




