レディ・デイジー
男どもに構うのに飽きた千夏は、比較的大人しそうな、髪をローテールにした女の子に話しかけてみた。そばに近づくと、ほのかに良い香りがした。
「ねえ、その香水、すごく香りだね」
千夏は彼女に笑いかける。笑いかけながら、どこかで嗅いだことがあるなとも思うが、思い出せない。
「かわいいですよね。友達からの誕プレなんです」
「なんていうブランド?」
「ブランドっていうか。そういう企画があって、制作したやつみたいなんですけど。出してるのは撫子ワークスです」
千夏ははたと動きを止める。
「へー。そうなんだ、いいな。私も買おうかな」
千夏は愛想よい笑顔を再開し、ゆっくり頷く。頷きながらいやな予感がした。だけど聞かなければいけない気もしてくる。
「友達が以前、プロデュースしたフレグランスなんです。レディ・デイジーってやつです」
千夏の顔から笑みが消えた。
「あいつ、美人な上にセンスもいいから。さすが…」
そう言いながら坊主頭が話に割り込んできた途端、ローテールの子がいきなりその口に手をあてる。
「やめなよ」
「あ、ああ、うん」
坊主頭が気まずそうに口をつぐむ。
「どうしたの」
千夏は不可解に思い、二人に尋ねる。二人は冬馬の方を見る。冬馬は別の友達と楽しそうにおしゃべりを続けている。
「さすが、何なの?」
聞きながら、千夏は怖くなる。もう笑顔はつくれない。聞いてはいけないのが分かる。二人は気まずそうに、互いに目配せし合う。
「冬馬さんの、元奥さんなんですけど。私らとも友達なんですよ」
千夏はめまいを覚え、一人で洗面所に向かった。
洗面所の鏡に映った自分の顔は疲れて老け込んでいる。三十代どころか、四十代のようだ。早く冬馬と二人きりになりたいと思うが、一方で逃げ出したくもある。どう伝えるのがいいのか。
バッグから化粧ポーチを取り出し、パウダーでメイク崩れを直す。パウダーの香りがふと鼻につき、さっき嗅いだフレグランスが思い出され、さらにその香りを好きだと冬馬が言い、それつけた千夏を激しく抱いたことまで思い出される。
冷や汗が出てきた。急いでポーチをバッグにしまうと、洗面所からそっと出る。首を伸ばし、皆がいるテラス席をこっそり覗き見る。冬馬が仲間達と笑い合っている姿が、窓越しに見える。
自分と二人きりでいるときより、今の冬馬は遥かに楽しそうだ。目元に細かな笑いジワがたくさん集まり、屈託なく笑っている。ここにいるメンツは全員、冬馬が結婚し、離婚していることを知っている。そしてその女とも未だに付き合いがあり、エクスタ上でもつるんでいる。そういえば最近、あの笑いジワを見ていなかったなと、千夏は今更ながら気づく。
なんで。どうして。千夏はまた洗面所に駆け戻る。
洗面所の鏡を再び見つめる。そういえば自分も、最近はちっとも笑っていない。表面上は笑っているが、偽物の笑いなのだ。千夏は頑張って口角を上げてみる。口角を上げていると、いつの間にか感情が引っ張られて、勝手に本物の笑顔になっていくと、美穂のダンスサークル仲間が教えてくれたのを思い出す。
だけど、ならない。どうやっても。本物の笑顔に、ならない。せめて笑顔がなきゃ、自分は元妻に太刀打ちできないのに。鏡の中の自分はやり方を忘れてしまったのか。
なんで。どうして。千夏は躍起になって、口角を上げ続ける。
先ほどの坊主頭の言葉を思い出す。本当に、私は冬馬のどこが好きなのか。外見か。いや、それだけじゃない。デザイナーとして自立心が強いところか。優しいところ、とさっき自分は発言したが、どんなところに優しさを感じたのか。
分からなくなり、急に鼻がつうんとした。鏡の中の自分も鼻が赤くなる。見れば、目も少し充血して、涙が滲み出ている。
なんで。どうして。千夏はまたしても洗面所を出て、テラス席を覗き見る。
いつの間にか歯を食いしばり、スマートフォンを握りしめる自分に気づく。千夏はほぼ衝動的に店を出て、駅に向かって早足で歩く。駅の改札を通り、階段を上り、ホームにたどり着く。まだ冬馬から連絡はない。心配はしてもらえていないようだ。なら、もういい。
千夏はホームに進入してきた電車を見つめる。電車が停まり、ドアが開く。降りてきた客に道をあけ、千夏は逃げ込むように車内へ乗り込む。必死な思いで吊り革につかまるとドアが閉まり、電車はゆっくり動き出す。窓の景色もゆっくり変わっていく。千夏はそれを見ながら深呼吸する。冷や汗はまだ止まらない。
しばらくして、バッグの中でスマートフォンがバイブする。千夏はスマートフォンを取り出した。画面には冬馬、と表示されている。だがその着信画面を、漫然と見つめるだけにする。やがて電話が切れた。
夜になって、再び冬馬から電話があった。今度はその電話に出た。突然どこへ行ったのと冬馬から問い詰められた。千夏は、熱中症になったっぽくて病院に行ってた、電話できなくてごめんねと嘘をついた。冬馬は驚いた様子で、大丈夫なのと聞いてきたが、大丈夫だよとさらに嘘をついた。冬馬はまだ何か言いたそうだったが、まだゆっくり休みたいからといい、千夏は電話を切った。
勝手に店からいなくなった私が悪い。千夏は分かっていたものの、スマートフォンを部屋の隅に放り投げた。




