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仮病

六月最後の土曜日だった。梅雨はまだまだ勢力が衰える様子はなく、朝から景気よく雨が降り続いていた。

千夏は胃薬を飲み、自宅のベッドに横たわった。午後から正秋との約束があったが、キャンセルした。目を閉じても、前日のラブホテルでの一件が頭から離れなかった。


ホテルで激しく抱かれた後、千夏は冬馬を抱きしめた。愛しくて愛しくてたまらなかった。ずっと離れたくなかった。それなのに冬馬は逃れるように、言葉少なに帰ってしまった。


翌日も、翌々日の月曜日も千夏は自宅から出なかった。これまで仮病を使ったことはなかったのに、初めて使ってしまった。長年真面目に勤務してきたのだから、いいだろうと投げやりになった。ほぼ飲まず食わず、ベッドの上で過ごした。


何度も冬馬にメッセージを送ろうとして、文章を打っては消し、打っては消しを繰り返した。冬馬からは一度も連絡はないのに、正秋からは何度もきた。着信もあり、留守電も入った。千夏はそれに応じず、スマートフォンの画面をただただ見つめるだけだった。


眠ることもできず、かといって起き上がって何かをする気になれなかった。このまま死んでしまえばいいのにと、何度となく思った。


夜になり、インターホンが鳴った。

「はい」

ベッドから起き上がって部屋を横切る。玄関ドアの覗き窓を見ると、正秋が立っている。

「ごめん、会社も来ないし、メッセージの返信もないし、心配で。どうしてるのかなって」

覗き窓から見えるその顔は、子犬のように人懐っこい顔をしている。

「来てもらって悪いけど、気分が悪くて。帰って」

二人はドア越しに会話する。

「風邪? 熱とかあるの」

「ないよ」

「色々買ってきた。受け取って」


正秋の言葉に、千夏は黙ってドアを開ける。正秋がスーパーで買い込んできたらしい食料品が入ったレジ袋を差し出し、千夏に手渡そうとする。千夏が伏し目がちにそれを受け取ろうとすると、正秋は手首を掴む。

「泣いてたの」

正秋は千夏の泣き腫らした顔を食い入るように見つめ、静かに尋ねる。

「泣いてない」

千夏はうつむいて嘘をつく。

「ねえ、頼むから。中に入れて」

正秋は懇願するように、下を向く千夏と目を合わせてくる。千夏は黙って頷き、正秋をドアの中に入れる。


正秋が靴を脱ぐのを見届けると、千夏はキッチンに立つ。ケトルに水を注ぎ入れて蓋をし、ガスコンロの上にケトルを置く。操作レバーを回し、点火する。

「適当に座って」

「うん」

ぼんやり、冬馬が訪問した日を思い出す。家がボロくて恥ずかしいだの、吉高由里香のポスターをいちいち見るなだの、ワーワー騒いでいた情景が浮かぶ。今日はそんな気力もなく、かろうじて正秋にお茶だけ淹れようとする。

「そんなことしなくていいよ」

正秋はいつの間にか千夏の真後ろに立ち、千夏を後ろから抱きしめる。さらに千夏の肩に顎をのせ、顔を覗き込んでくる。ガスコンロの上でケトルの吹き出し口から、大量の蒸気が出ているのを、千夏は呆然と見る。

「何があったの」


千夏は小さく震え、黙り込む。何から話したらいいのか分からない。むしろ、何も話さないのがいい。千夏は立ち昇る蒸気を見つめ、正秋の手を取り、その腕から逃れる。それからベッドのそばに歩いていき、アクセサリーケースを開く。ピンクゴールドのブレスレットを手に取ると、千夏は正秋の前にしずしずと戻る。二人は向き合い、静かに見つめ合う。千夏の心臓の鼓動が速まっていく。それから、ブレスレットを正秋の手に握らせる。


「返す。ごめん。私達、やっぱり付き合えない」

切羽詰まった声が室内に響く。窓の外から、風の唸り声が聞こえる。千夏は自分より背の高い正秋の顔をまっすぐ見上げる。正秋は真顔のまま、凍りついたように何も言わない。

「ごめん、正秋」

千夏は正秋の片手をとり、床を見下ろす。ほおを伝い落ちる涙の粒が、床に透明な水玉模様をつくる。小さくしゃくりあげると、正秋が千夏の両手首をグッと掴む。怖くなって、千夏は顔を上げる。ほぼ無表情の正秋の顔には、押し殺しきれない怒りと嘆き、動揺が滲み出ている。

「どうして」


正秋が手首を握ってくる力が強まる。千夏はますます怖くなり、目を逸らす。逸らした先で、正秋の胸が膨らんだり凹んだりしている。千夏はそれを見るも、涙で視界がしだいにぼやけていく。

「どうしても」

「ちゃんと話してくれないと分かんないよ」

「言えない」

「どうして」

「正秋のこと、傷つけるから」

正秋は千夏の手首をグッと引き寄せ、力強く抱きしめる。力が強すぎて、千夏は息が止まりそうだ。

「それでもいいから」

正秋の声は裏返り、かすれていた。


二人はテーブルの前にしゃがみ込み、向き合った。千夏が一部始終を話す間、正秋は千夏の方を見ず、テーブルを見つめていた。一言も言葉を発さず、頷きだけを繰り返した。取り乱す様子のない正秋に千夏は次第に落ち着き、話し終えた頃には涙は止まった。正秋はそこで初めて顔をあげ、千夏の顔を見つめた。


「勇気出して、話してくれて。ありがとう」

正秋は喉仏を震わせ、ぎこちない笑みを浮かべる。千夏は黙って頷く。ありがとうと言われる筋合いはない。そういうところがきちんとしている正秋の人間性に、改めて尊敬の念を抱く。だけど寒気もする。その笑顔がとてつもなく怖い。男らしい顔つきで誰にでも優しい冬馬より、少年のような顔で千夏にだけ優しい正秋の方が数倍、恐ろしさがあるのだ。


「行こう」

正秋が軽い調子で言い、立ち上がる。

「どこへ──」

「確認しにいかないと」

正秋は千夏に微笑みかけると、途端に顔から表情を抜き取る。それから、まだ座っている千夏の手を強く引く。部屋を横切って玄関のドアを開けると、千夏にも靴を履くよう急かす。履き終わると勢いよくドアを締め、アパートの階段を駆け降りた。

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