三年前
千夏はフラフラしながらトイレに入り、用を足した。さいわい、吐くことはせずに済んだ。トイレから出ると、冬馬が冷蔵庫から新しいペットボトルの水を手に取り、千夏に持たせた。千夏はベッドに戻り、それを喉を鳴らして飲んだ。冬馬はそれを見てからソファに腰を下ろした。
「ねえ。その香水のサンプル、今、持ってるの」
「ん。あるよ」
冬馬はそばにあったビジネスバッグのファスナーを開け、なかを漁り出す。水色とオレンジ色のキャップがそれぞれついた、小さなスプレー瓶を二つ、千夏の方に差し出す。千夏はペットボトルをベッドそばのサイドボードに置いて立ち上がり、それを受け取る。
「どっちの方がいい」
「俺は断然、レディ・デイジー。オレンジの方」
千夏は手の中の瓶をじっと見つめる。そのままフーッとため息をつき、再びベッドに腰を下ろす。
「ねえ。三年前に私達、シたでしょ」
千夏は小瓶を掴んだまま足を組み、冬馬を見据える。冬馬はこちらを見ようとしない。
「あったね。そんなことも」
「私、そのせいで好きになっちゃったんだ。雑魚だから」
「あー、うん」
その口ぶりから、冬馬はあの日、千夏が向けた好意には気づいていたんだなと理解する。目を細め、再び髪を指に巻きつける。
「うん。ほら、私さ。処女だったでしょ。二十九まで処女だと、男に免疫ないのよ。セックスなんて刺激的なことしちゃうと、一発でその男が好きになっちゃうわけ。ほら、雑魚だし」
「雑魚とか言うなよ」
冬馬は憂鬱そうに、ちらりと千夏を一瞥する。
「ありがと。でも冬馬、それから連絡してくれなかったじゃん。なんで」
そうだ。これが聞きたかったのだ。傷つくのが分かっていても、それが知りたい。千夏はサイドボードの引き出しを無造作に開ける。コンドームが二つ入っているのを見て、慌てて引き出しを閉める。
「俺はお前とするまでは、結構好きだったんだけどな」
つぶやくような冬馬の言葉に、千夏は急に覚醒する。
「嘘」
「本当だよ」
「会ってもいないのに」
「でも毎日、かまってくれたじゃん」
「メッセージで?」
「うん。おかしいよな。でも俺、お前のこと好きだったんだ。いつも俺の立ち位置で話、合わせてくれるし。お姉さんって感じで。話も面白くて」
冬馬は急に楽しそうに笑い出す。その笑い方は正秋のとはまた違う、健康的で少しワイルドで、爽やかな笑いだった。
「そう? こんなに陰キャなのに」
「うん。明るくはなかったよな。でも、自虐ネタとかで笑わせてくれたじゃん。なんだっけ、私はビヤ樽体型の女じゃなくて、本物のビヤ樽なの、だから頭の後ろに隠してあるレバーを回すと、マーライオンみたいに口からビール出てくるのとか」
冬馬は腹を抱えて笑い出す。千夏はかつて自分が言ったであろうセリフを思い出し、恥ずかしくなって笑う。
「それにさ。俺の内面、みてくれてたじゃん。あのとき離婚した直後だったし、病んでたし。自分に自信なくて。千夏にすげー救われた」
冬馬は笑いを徐々に引っ込めると、今度は一つ一つ、つぶやくように言う。素直な幼子のようにみえ、千夏は胸がキュンとする。
「ねえ。冬馬は好きな人、いるの」
これは今、一番聞きたいことだ。春菜じゃなければ誰なんだ。
「…よく分からない」
「何かあったの」
「あんま話したくない」
冬馬の言い方はしおれた花のように、心からしんどそうだ。千夏は少し様子を観察する。
「そうか。話したくなったら話してよ。聞くからさ」
「今は、千夏がいるからいい」
冬馬は軽く微笑む。それと反比例するように、千夏は沸々と怒りが湧いてくる。
「フッた相手にそういうこと言うの、残酷すぎるからやめて。カッコいい顔で言うのやめて。本気でムカつくから」
「お前こそそうやって、初対面のときと変わんねーじゃん。外見の話ばっか」
冬馬の言い方は子どもっぽくて、非難めいている。千夏は居心地悪そうに、今度は爪からはげたジェルネイルを睨みつける。せっかくサロンにいったばかりなのに、男達と揉み合ったときにはがれたらしい。
「だってそれは冬馬がイケメンだから仕方ないでしょ」
「なんか、そのイケメンっての、バカにされてるふうに聞こえんだよ。あのときもそれで興醒めした。こいつも他の女と同じかーって。残念だった」
「え…」
遠い目をしてため息をつく冬馬の横顔が、何だか儚い。千夏は胸がギュッと締めつけられる。
「でも千夏が、処女捨てたいって言うからさ。もう二度と会わないし、とりあえずヤればいいのかなって」
千夏は黙り込んだ。確かに会ったとき、カッコいいとか私なんかとは釣り合わないとか、そんな言葉を連呼していた気がする。そうだった。前に二人で会社の休憩室にいたときも、初めて外見以外で褒めてくれたねとか、そう言って冬馬は笑ってた。
「外見を褒めるのは社交辞令だとも思ったのにな。伝わらないか」
「ごめん。俺、ガキだったし」
「ガキだったしじゃなくて、今もガキだよ」
「はい、はい。ですね」
「ね、今だからこそ教えてほしいんだけど」
「何?」
冬馬の長い指を見ながら、千夏はスプレー瓶を握りしめ、緊張して息を飲む。
「初対面の私を見たとき。今より十キロ以上重たかった私を見たとき。どう思った?」




