よんかく関係じゃなかったの
ラブホテルの一室では、小さな雨音以外、聞こえる音は何一つなかった。
「こないだは電車で帰らせて、悪かった」
先に沈黙を破ったのは冬馬だ。冬馬は千夏の方を一瞬見て、小さく頭を下げる。千夏はいたたまれなくなり、ため息をつく。
「フラレたんだから当然だよ」
口をついて出てきた言葉は、自分が思った以上に辛辣だ。千夏はそれを誤魔化すように水を飲み、プハーッと威勢よく息を吐く。なぜか、苦い。この苦み、今の気持ちとシンクロする。
「そうだよな。悪い」
「もういいよ。先、帰れば。フッた相手なんかとこんなところにいるの、よくないよ」
そう言いながら、千夏は悲しくなる。
「ちゃんと好きな人のところ、行って」
「え?」
「春菜のとこ」
おい。フッた相手にここまで言わすな。千夏は冬馬をギロリと睨む。
「おい。春菜春菜って毎回、何だよ」
「へーえ? そんな言い方するんだ」
千夏はややキレ気味に言い返す。
「春菜はマサさんが好きだけど、振り向いてもらえないって。寂しいときにそばにいてほしいって。前からそんな感じ。よく泣くんだ、あいつ」
「へー」
何だかどこかで聞いたような話だ。千夏はテレビのリモコンを手に取り、選局ボタンを押す。突然、裸の男女が激しく交わる映像が映り、喘ぎ声が盛大に流れる。冬馬も目を見開く。
「おあーっ、と」
千夏は素っ頓狂な声を出して電源ボタンを押す。
「失礼」
千夏は画面が暗くなったのを確認し、すました顔で取り繕った。
「他の番組もほとんどコレ系」
冬馬はおかしそうに笑い出す。
「だろうね」
千夏はペットボトルの水を飲み、プハーッと息を吐く。
千夏は頬杖をつき、冬馬を観察する。やっぱり私たちは三角関係ならぬ、四角関係、いや、語呂がいいから、四角関係とでも呼ぼうか。千夏は鼻で笑う。
「どうした」
「だって。おかしいから」
「何が」
冬馬はこちらを見て、不可解そうな顔をする。そんなのは見ればわかる。だけど私の笑いを汲み取って欲しい。こんなに滑稽なことはない。笑い声が加速し、千夏は声を立てて笑い出す。
「私は冬馬が好き。冬馬は春菜が好き。春菜は正秋が好き。正秋は…」
「千夏が好き?」
冬馬がもしかしてという顔をして、言葉を引き継ぐ。千夏は顔をこわばらせ、自分の膝のあたりを見る。
「こないだ言ってた、千夏に片想いしてる人って。もしかして、マサさん?」
「そうだよ」
千夏は気まずそうに下を向いて言う。
「あー。そういえば前、飲み会で言ってたよな。俺のタイプは千夏とか何とか」
冬馬は顎に手をあてて頷く。
「そうだよ」
千夏は復唱する。冬馬は背もたれに寄りかかってうなだれる。無理もない。この状況を四人全員が理解しているとは思えない。二人の間に沈黙が流れる。千夏はペットボトルを手に取り、喉を鳴らして水を飲み、沈黙を壊す。
「あとさ。俺がいつ、春菜を好きだって言ったわけ?」
冬馬はそう言って、訝しげな顔を向ける。
「だっていつも春菜といるじゃん」
千夏の言葉に、冬馬はしばらく腕を組んで思案する。それから思い出したような顔をする。
「この前の釣りの時、先に帰ったことか? あー、それ、違うから」
「え?」
「俺の友達が春菜のこと好きだから、間、取り持ってくれって頼まれてたんだよ。春菜とそいつ、大学同じでさ。だから、春菜を紹介したらそいつ、ちょっとストーカーみたくなっちゃって。もう春菜につきまとうのやめろって、仲裁しにいったんだよ。それだけ」
「嘘」
千夏はポカンとする。
「嘘じゃねーよ」
「じゃあ、あれは? この前、会社の階段でやらしいことしてた。いい匂い、こっちも嗅がせてって」
「はー?」
はー、とは何だ。どこまでしらばっくれるつもりだ。千夏は情けなくて涙が出てくる。
「俺、こういうのに弱いって。春菜の首とか足とか、べったりくっついてたじゃん」
冬馬は真顔になって首を傾げ、再び考えをめぐらす。それが言い訳を考えているようにしか思えない。千夏は震えながら睨み続ける。直後、冬馬が急に合点のいった顔をする。
「あー。もしかして撫子ワークスの」
「え?」
撫子ワークスはクライアントだ。意味がわからない。
「ポップつくるのに、どういうモチーフ使ってデザインしようかなって少し悩んでて。香りのイメージ膨らませるのが必要でさ。春菜に香水、つけてもらったんだ。直接嗅ぐのと、つけてもらってから嗅ぐの、違うだろ。すげーいい匂いなんだよなー、あれ。レディ・デイジー」
純粋に目を輝かす冬馬に、千夏は再びポカンとする。確かに撫子ワークスは香水の会社だ。確かにあのとき、冬馬が何か小さなものを手にしていた。香水のサンプルだったのか。
「でも…。首じゃなくて、脚、触ろうとしてなかった?」
「あれは別のフレグランスを膝の裏につけてもらったんだよ。夢椿、ってやつ。顔の近くだと香りがキツいやつだから、そういう場合は膝裏につけるんだって」
冬馬は何でもなさそうに答える。
「じゃあ、何で皆の前で堂々とそれ、しないの。あんなところでコソコソしなくてもいいじゃん」
「だって昼休み中だったし。六階はどこも昼飯の匂い、してたろ。そんなとこじゃフレグランスがどうとか、よくわかんねーもん」
「でも…」
千夏の反論材料は品切れだ。おい。だったら、私が春菜にしたことは何だったんだ。冬馬と付き合えって言っちゃったじゃん。酔いも一気に覚めてしまった。
「でも、変なんだ。こないだ急に春菜が、俺に付き合おうって言い出してきた」
冬馬は目を細めながら千夏を見る。
「そ、そうなんだ。よかったね」
千夏は目を泳がせ、自分の髪を指に巻きつける。
「よくねえよ。マサさんのことは諦めたのかって聞いたんだ。そしたらもういいの、冬馬、私のこと可愛いって言ってたじゃん、私が彼女で何が不満なのとか逆ギレしてさ。お前、何か知ってる?」
「知るわけないでしょ。なんで私が」
千夏はシラを切り、突き放すように言う。さらに、余計に腹が立つ。やはり、冬馬が可愛いと発言するのは、千夏に対してだけではないようだ。
「マサさん、お前のこと好きなんだろ。マサさんが春菜に何か言ったのか」
「だから、知るわけないじゃん」
冬馬はそれに答える代わりに、さらに千夏をじっくり見据えてくる。千夏はドキドキとイライラをないまぜにして、巻きつけた髪をぐいぐい引っ張る。
「お前が春菜に何か吹き込んだのかなとも思った」
急に図星をつかれ、千夏は一瞬だけ目を見開く。
「何もしてないし言ってない」
だけど今日、仕返しはされたんだ、おそらく。千夏は脳内でつぶやく。
「ふうん。ならいいけど」
冬馬は足を組み、天井のシャンデリアを見上げる。
「フッた相手にそんな話するなんて、あんたもデリカシーのない男だよね」
「ごめん。でも千夏は、俺なんかのどこがよかったわけ」
冬馬は切れ長の目を千夏に向ける。千夏は深呼吸して、冷蔵庫を指さす。
「お水、お代わり」




