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ホタル②

千夏は驚いて、正秋の顔と手元を交互に見た。


前日の金曜日、千夏は三十三歳の誕生日を迎えたことを、今更ながら思い出す。ここ数年間、誰にも祝われてないし、ずっとスルーしてきたのだ。ホタルの光を受けてわずかに見える正秋の顔には、優しい笑みが浮かぶ。手にしているのはピンクゴールドの、華奢なブレスレットだ。


「知ってたの?」

「とっくにね」

「今まで言ってくれなかったよね」

「俺言ってたよ、毎年。でも、あーうん、ありがと、とかだけだったじゃん」

正秋はわざと千夏の声真似をし、そっけなくされてきたことを蒸し返す。

「そうだっけ。ごめん」

「いいから、手、出して」

ホタルのわずかな明かりを頼りに、正秋はチェーンロックをはずし、千夏の手首にブレスレットをはめる。

「綺麗ー。可愛いー。どうもありがとう」

ホタルの明かりに照らされたブレスレットは明るく、まばゆい。千夏は急に恥ずかしくなり、正秋を見られなくなる。ブレスレットに意識を集中させることにした。


正秋は虫かごのファスナーを開け、ホタル達を逃す。ホタルは二人の周りをゆらり、ゆらりと浮遊する。それから正秋は千夏の両肩を掴み、自分と真正面に向き合わせる。さらに背筋をゆっくり、手を這わせる。千夏は鳥肌が立ち、その顔を上目遣いする。メガネ越しに見える正秋の瞳は、闇の中でときどきホタルの光を受けて黒光りし、千夏の目をとらえたまま離さない。千夏はドキドキして目をそらす。


「ねえ、正秋」

薄暗がりの中で千夏は小さな声で尋ねる。

「ん?」

「そんなにカッコいい顔で見つめられたら、どうしたらいいか分かんないよ」

「千夏の口からカッコいいってのは初めてだな」

緊張を解かれたのが悔しいのか、そう言われたのが嬉しいのか、正秋は微妙な表情をする。

「だって私、正秋と違って恋愛慣れしてない」

「俺だって大して経験ないよ」

大して、とは具体的に何人なのか。千夏がぼんやり思っているうちに、ホタル達は(くう)を舞いながら遠ざかる。


「ホタル。綺麗なのが、行っちゃった」

千夏はそうつぶやき、ホタルの行方を目で追いかける。

「千夏の方が百倍、綺麗だからいいよ」

千夏は黙り込む。正秋はさらに千夏の手首を掴み、自分の胸に当てさせる。

「ほら。さっきから俺の心臓、こんなにドキドキしてる」

手のひら越しに伝わってくるのは鼓動だけではない。その体の熱、少し汗ばんだ体から漂う男の匂いもだ。千夏の心臓もシンクロするように、早鐘を打つ。


千夏が何も言えずにいると、正秋は千夏の背中を支え、そっと抱きしめる。

「千夏。柔らかい」

「ん…」

千夏は抵抗せず、正秋の力強い腕のなかに収まる。好き、が溢れているのがじわじわ伝わってくる。この人は決して裏切らない。私を大切にしてくれる。心でも体でも感じられた。やがて正秋の手が移動し、今度は首筋から鎖骨にかけて、少しザラついた指で愛撫する。それがたまらなく気持ちいい。千夏は目を細め、自分の心臓の音を聞く。

「あれ。千夏もドキドキしてる」

正秋が千夏の頸動脈のあたりを触る。再び舞い戻ってきたホタル達が右へ左へ行き交い、二人の姿を断片的に照らす。

「そりゃ、するよ」

千夏は正秋の鎖骨あたりに顔をうずめる。さっきより正秋の熱と匂いが濃くなり、目を閉じる。ドキドキするのに、安らぎもする。正秋が千夏の髪をかきあげ、耳にかけたので、千夏は顔を上げた。


一匹のホタルがお尻を点滅させ、幻想的な明かりで正秋の目元を照らす。強力な磁石に引き寄せられるように、千夏はその目に釘づけになる。正秋は首を傾げ、口を千夏の耳元に寄せる。

「それ。千夏も俺を好きなんだよ」


その声は低く、ほとんど囁き声だ。だけど耳元で語りかけるから、声の輪郭ははっきりしている。千夏はノーともイエスとも言えず、至近距離にいる正秋の顔を見つめる。本人にはまるで自惚(うぬぼ)れている様子もない。ごく当たり前の事実を言っているような、そんな言い方だ。

「千夏に触ると分かる。ちょっと好き、が、前より大きくなってる」

正秋は穏やかな声で言い、千夏のほおを優しく撫でる。千夏は正秋に見入ったまま、本当にそうだなと、頭の中で返事する。

「違うなら俺を拒んで。ほら」

正秋は試すように、千夏の両手を握ったり放したりを繰り返す。千夏は考えたくなって、視線を足下に落とす。


屋外灯を頼りにその薄暗がりをじっと見ていると、すぐそばに、チョロチョロと音を立てる小川があるのが見える。そこに、見頃を過ぎ、花を枯らしたカキツバタが群生している。細長いまっすぐな葉が四方に伸び、そこにゆっくり点滅している光があった。葉にしがみついているあれは、きっとメスのホタルだ。近くを舞い飛ぶホタル、あれはきっとオスのホタルだ。千夏が二匹の駆け引きを見ていると、正秋が千夏の顎に触れ、自分に向き直らせた。


「リアクションなしは、イエスと受け取るよ」

正秋はゆっくり、顔を近づける。唇同士が今にもくっつきそうな瞬間、千夏は急に手で静止する。

「待って」


正秋が千夏の手で口を塞がれて、面食らった顔を向けてくる。千夏は息を整え、意を決して正秋を見上げる。視界の隅で、草の上のホタルが逃げ出した。オスらしきホタルは追いかけるが、見えない場所へ逃げられてしまったようだ。千夏は再び正秋を正視する。


「ごめんなさい。なんかこういうこと、いい加減にしたくない」

千夏が口元をキュッと結ぶと、正秋は黙って見つめてくる。

「意識してるからドキドキしちゃっただけだもん。こんなロマンチックなシチュエーションだからだもん。優しくされたらすぐなびく、バカ女になりたくない。私がちゃんと好きになるまで、待って」

千夏がムキになり、かつ怯えた声を出すと、正秋はしばらく呆然とする。それでもすぐに元の余裕たっぷりの表情になり、ゆっくり頷く。

「うん。せかしてごめんね」

「私が好きになったら、私からキスする」


は? そうなの? 何言ってんだ私は。急に我に返り、千夏はあたふたする。自分で言っておきながら、自分が一番驚いてしまった。

「そうなんだー。すっごい楽しみに待ってる」

正秋は水を得た魚のように生き生きとしだし、少年のように破顔する。千夏はしまった、と思いつつ、目をそらして頷く。正秋は千夏の手を優しく握りしめる。

「分かってくれて、ありがとう」

恥ずかしい。まるで女子中学生だ。これでも三十二…いや、三十三というのが情けない。千夏は自分に向かって舌打ちする。


「ううん。いいよ。千夏はホタルみたいな人だから、逃げてかないか焦っちゃうけど。自分の意思で決めて」

そういう正秋は王子様に見える。何だこれは。夢か。幻か。王子様だったとしたら、どうして今までそれに気づかなかったのか。だけど、だとしたら尚更、自分はそれに釣り合うお姫様になりたい。気まぐれなメスのホタルなんかじゃなくて。

「ねえ、あっちの方、たくさんいるよ」

正秋は千夏の手を引いた。二人は連れ立って、ホタルの群れる場所へと歩き出した。

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