ホタル①
六月下旬の土曜日だった。千夏は正秋と電車に乗り、東京メトロ江戸川橋駅で降りた。都会のオアシスという表現にふさわしい、「ホテル静山荘」の敷地内は自然豊かで、庭園内には幾筋も人口の小川が流れている。ここでのびのび育ったホタルを見るため、毎年多くの観客が訪れることを、千夏は案内看板を見ながら知った。二人は先にミュージアムショップに入った。
「見て、正秋。ホタルのおもちゃ。ここ押すと光るんだって」
「うーん、要らないね」
実物大らしいホタルのおもちゃを千夏が手のひらに乗せて見せると、正秋が苦笑する。二人はそのほかにも色々なお土産を見ては感想を言い合い、笑い合う。
「どこかに遊びに来たからって、記念にお土産が欲しくなる年齢じゃなくなったね」
「とっくにね」
「あ、でも、ちょっと待って」
千夏はストラップ売り場を指さす。そこには犬や猫、ウサギの小さなぬいぐるみのストラップが売られている。千夏はビーグル犬のストラップを手にとり、ニンマリしてしまう。
「そんなのが欲しいの」
「うん」
千夏が言うと、正秋がポケットから財布を取り出す。
「いいの。自分で買う」
千夏はそう言って、レジで会計した。
それから二人は軽く園内を見てから、館内のレストランに入り、早めの夕食をとることにした。
「ねえ。このチラシ、よくできてるね」
テーブルの端に置かれた案内チラシを見て、千夏は言う。
「ああ、そう?」
「うん。誰に何を伝えたいのかよく分かる。親子連れにホタル、見にきてほしいんだなっていうのが」
「俺、営業だからデザインのことはよく分かんないけど。千夏はディレクターみたいになってきたね」
正秋はにっこり笑う。千夏はその優しい笑顔が、自分だけに向けられている貴重なものなのだとしみじみ思う。正秋は冬馬と違い、女友達はほとんどいない。春菜のこともまったく話さない。ほか、女絡みで千夏が不安になるようなことは一切ない。自分が見ていないところで、他の女達にどれだけ冷たくあしらっているのかと思うと、そんなドライさが少し怖くなる。
「まさか。ねえ、だんだん外、暗くなってきた」
千夏は大きな窓の外を指さす。夜の帳が今にも下りようとしている。
「おお。急ごう」
二人は慌ただしく食事を終え、屋外へ出た。夕闇のなか、他の訪問客とともに園内を巡り歩いた。ホタルが一匹、二匹と光りながら、宙を彷徨うように飛び始める。
「正秋ってさ。結構冷たいよね」
千夏はホタルを目で追いかけながら歩き、少し投げやりに言う。
「なんで?」
正秋は心外そうだが、愉快そうに小さく笑う。
「私には優しいけど」
「そんなの当然じゃん」
「会社の女の子達、なんで妖精って言ってたのか、今なら分かる気がする」
「童貞に見えるから?」
「ううん。それだけじゃないよ」
千夏はおかしくなって笑う。
「何?」
「人間味がないから。いつも営業スマイルだもん」
「てか、営業だし。俺は好きな女以外に愛想振りまかない主義」
振りまく主義の男もいる。冬馬がそれだ。冬馬はいつも、誰にでも愛想がいい。八方美人といえばそうだが、正秋と違い、素直に笑うことも多いようにみえる。だから私のように勘違いする女が多い。千夏はそんなことを思い、改めて正秋を見る。
「俺が誰にでも愛想振りまく男だったら、千夏は好きになってくれるのか」
千夏ははたと足を止める。無意識に眉間にシワが寄っていく。
「あー。ないかも」
それを聞いて、正秋はくすくす笑う。
「じゃあこれからも、千夏にだけ愛想振りまく」
正秋はそう言って愛しげに笑う。千夏は照れて正秋から離れ、ホタルを追いかける。ホタルはそこらじゅうに飛んでいるのに、ゆらゆら、ゆらゆらと舞い飛び、なかなか千夏の手のなかに収まらない。それなのに正秋が両手を伸ばすと、一発で捕まった。千夏は黙って正秋に近づき、手元を見つめる。
「見てごらん」
正秋は手元を千夏の前に差し出し、少しだけ指を開く。指の隙間から、ホタルが見える。尻部分をレモン色に光らせ、正秋の手の中をぼんやり照らしている。
「綺麗だね」
千夏は恍惚として言う。
「うん。こうやって光って、好きなメスを探してるんだよ」
正秋が撫でるように、しっとりした声で言う。千夏はふと、あたりを見回す。いつの間にか辺りはすっかり暗くなっている。屋外灯も必要最低限しか設置してないようで、足元の園路がかろうじて見えるレベルだ。ホタルもたくさんいるところにはたくさんの人だかりができている。
「ちょっと、俺のこっちのポケットから虫かご、出して」
正秋はホタルを手の内に収めたまま言う。千夏は言われた通り、左側のポケットから折りたたみ式の、メッシュ素材の虫かごを取り出す。
「連れて帰っちゃいけないんじゃないの」
「今だけだよ」
そう言って正秋は虫かごにホタルを入れる。そばを飛んでいた他のホタルも、正秋は器用に捕まえ、同様に虫かごに入れる。何匹か捕まえ終わると、正秋は千夏を竹林の方へいざなう。そこはさらに暗く、ほぼ漆黒の闇が広がっている。
正秋はそこで虫かごを千夏に持たせる。ホタルはその中で静かに、ゆっくりと点滅を繰り返しながら、暗闇にわずかな光を投げかける。千夏が見ていると、正秋は今度は右のポケットに手を突っ込み、何か細い紐のようなものを取り出す。
「何、それ」
「一日遅れたけど。お誕生日、おめでとう」




