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冬馬と付き合って

翌日、千夏は仕事がまったく手につかなかった。

電話でやり取りした内容は忘れるし、住谷に何かお願いされたが完全に右から左だった。長谷川に印刷仕事を頼まれ、十部印刷してと言われたのに、百部も印刷してしまった。廊下ですれ違いざま、生野がまたセクハラしてきそうだったので反射的に手を振ったところ、その鼻の穴に指を突っ込んでしまった。何度も自分を叱咤激励するものの、不可能だった。前日見た光景が頭にへばりついて離れなかった。


だらだらと午前の時間が過ぎ、正午を迎えた。

千夏は空腹をおぼえ、部屋を出てエレベータへと向かった。今日はお弁当を作ってこられなかった。だから、コンビニで何か買うことにした。エレベータホールについて、下向き三角のボタンを押した。誰かが隣に立った。


「お疲れ様です」

春菜が礼儀正しく声をかけ、軽く頭を下げる。千夏は一瞬動揺したが、すぐに笑みをつくる。

「お疲れ」

「お昼ですか」

「うん」

エレベータの扉が開く。二人は乗り込み、春菜が一階のボタンと「閉」のボタンを押す。千夏が黙っていると、春菜が少しこちらを向いた。

「お昼、今日こそ一緒にいきませんか」

久しぶりのランチ。だけど楽しい予感はしない。自分は気が滅入っているし、笑顔になれない。だけど今日は断る気力もない。千夏は腹を(くく)る。

「いいよ」


二人は会社から数分歩いた先の蕎麦屋に入った。冬馬と以前も来た店だ。二人は奥まったところにある座敷にあがり、座卓に腰を下ろした。

あんなにお腹が空いていたのに、春菜の顔を見た途端、食欲が失せてしまった。自分はざる蕎麦を、春菜はおろし蕎麦を注文した。セルフサービスの水をくんできた春菜が、コップをテーブルに置いた。


「千夏さんと二人きりで外にランチ行くの、初ですね」

春菜は笑顔とも怒り顔とも判断のつかない顔をする。

「ありがとう。そうだね」

千夏はコップを受け取りながら言う。

「前置きなしに言ってもいいですか」

春菜ははっきりした口調で言い、隙のない目つきをする。千夏は身構え、背筋を正す。

「どうぞ」

「安田係長のこと。本気じゃないなら手を引いてください」


え。そっちなの。軽くパニクり、千夏は春菜から目を逸らし、コップを見つめる。

「私は本気です。でも係長は、千夏さんのことが好きだって言ってます」

「うん」

千夏は小さく頷く。無性に喉が渇いてきた。コップに手を伸ばし、水を飲む。

「千夏さんは係長のこと、どう思ってるんですか」


どうもこうもない。魅力的だし、以前より好きになってきてる。付き合えるなら付き合いたいと思ってる。だけど冬馬にまだ未練がある。温泉でフラレたときの情景、さらには前日の階段での光景がフラッシュバックし、千夏はめまいに襲われる。

「千夏さん」

痺れを切らした春菜が答えを急かす。必死なその顔は、女である千夏から見ても美しい。千夏は深呼吸して、めまいが落ち着くのを待つ。

「お待たせしました」

店員がざる蕎麦とおろし蕎麦をテーブルに置き、去っていく。千夏は器に入った蕎麦つゆを見る。こっくりした深い焦茶色は、自分が堕ちた沼のように見える。


「春菜こそ、正秋のこと、どれだけ本気なの」

「どれだけって…。本気は本気です。量も質も関係ありません」

「へー。じゃあなんで社内不倫なんかしてるの」

千夏の何気ない言葉に、春菜はサッと青ざめた。千夏は目を細め、春菜の出方を伺う。

「不倫なんてしてません」

「そう? 場所はいつも資料室なわけ?」

どうだ。言い訳できるもんならしてみろ。千夏は凍るほど冷たい目で春菜を見る。春菜は反抗的な目で見返してくる。

「林課長とは別れました」

少し意外な答えだ。千夏はてっきり、正秋と付き合えるまでは林とくっついていると思ったからだ。だけど真実を言っているとは限らない。相手は女だ。男よりも嘘が上手い。

「本当に?」

「はい。好きな人がいるのに、他の人と付き合うわけにもいかないので」

春菜は悔しそうに、唇周辺の筋肉をひくつかせる。千夏はどうもその理由が気に入らない。不倫ではなく、あくまで交際していたことだと春菜は言い張りたいらしい。だが林は既婚者だ。千夏は不快感を隠そうともせず、半眼になる。

「じゃあ、冬馬とは遊びなわけ?」

遊びだったら許さない。許せない。千夏は鼻息荒くして春菜を凝視する。


「え。冬馬さんとは…別に…」

「別に何なの」

「付き合ってないです」

付き合ってないならなんで休みの日、冬馬を呼び出すんだよ。職場でイチャイチャすんだよ。冬馬の気持ちはどうなる? もてあそぶつもりか。千夏は手元のおしぼりを握りしめる。もう、嫉妬で頭がおかしくなりそうだ。


「私が好きなのは係長です」

春菜は切なそうに、かつ真面目そうな目を向けてくる。

「信用できない」

「何でですか」

「私が証拠、持ってるから」

それを言う気はなかった。だけど我慢ができず、口が滑ってしまう。

「何ですか、それ」

春菜は急に青い顔をする。

「正秋にも見せてもいいんだよ。それ以外の人にも」

正秋はすでに知っているが、知らないとでも思っているんだろう。

「デタラメ言うの、よしてください」

「えー? 見たいの? あるよ、証拠」

千夏はオーバーなリアクションをしてみせ、スマートフォンをかざす。映像は見せないが、何がここにあるかは春菜にも察しがつくはずだ。


「私。千夏さんと前みたいに仲良くしたいです。もうこういうの、嫌です」

「それはあんた次第でしょ」

千夏はワナワナ震える。自分から相手を怒らせておきながら、泣きたくなってくる。だけど春菜の表情から察するに、千夏への友情、好意が少しはあるらしい。胸がわずかにズキンと痛む。


こんなアバズレ女でも、冬馬の好きな女だ。冬馬のようないい男と付き合えば、アバズレは卒業するかもしれない。自分と違って二十代で若いし美人だし、魅力的だ。千夏は笑いをフェードアウトさせ、春菜の顔をまじまじと見る。


「千夏さん、私にどうしてほしいんですか」

春菜は恨みがましそうな目をして声を落とし、低い声で尋ねる。千夏はすましてざる蕎麦を箸ですくい上げ、蕎麦つゆに流し入れる。それを咀嚼すると、真っ直ぐ春菜の目を見る。

「うん。正秋のことは忘れて。冬馬と付き合ってよ」

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