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好きな人の匂い①

数日後の夕方、千夏はどうにか仕事をやりおおせると、タイムカードを通した。スポーツバッグを持ち手を肩にかけ、まっすぐオシアスに向かおうとしたところ、エントランスで春菜にばったり会った。


「お疲れ様です」

春菜の声はまあまあに明るい。

「お疲れ」

「それ。千夏さんて何かスポーツでもしてるんですか」

「んー、まあ」

千夏は恋敵(ライバル)に出くわし、顔がこわばる。エレベータの扉が開く。二人は一緒に乗ると、扉が閉まった。

「千夏さん、痩せて綺麗になりましたもんね。ヨガとかですか?」

春菜は千夏の表情に気づかず、しつこく尋ねる。お願いだ。話しかけるな。

「ジムに通ってるんだ」

「何時までやっていくんですか」

「今日は早めかなあ」

千夏の答えはいい加減だ。

「最近、全然一緒にお昼食べてませんよね。明日とか一緒に食べませんか」

しばらく疎遠なままだったのに、急に接近してくるのはどういう了見か。千夏は横目で、春菜をそれとなく観察する。なんだかいつもの余裕な雰囲気がない。

「ああ、うん。そうだね」

やがてエレベータが一階につき、扉が開く。

「じゃあね」

千夏は目を合わせず、エレベータから駆け出した。


千夏は早足でオシアスに向かった。店内に入ってロッカールームで着替え、二階に上がると、そこで美穂は内ももを鍛えるマシン、ヒップアダクションを使っていた。千夏と目が合った美穂は、大きく手を振ってきた。


「やっほー、ちなっちゃん」

美穂は笑顔を振りまきながら、太ももにパッドを挟み、開いてくるパッドを内ももの力だけで閉じる、という動作を繰り返す。

「美穂さん」

千夏も嬉しくなって手を振る。それからすぐ隣の、背中を鍛えるマシンの椅子に座る。

「最近どーお。目標体重、いった?」

「いきました」

千夏が頭上にぶら下がるバーを両手で掴むと、美穂が拍手する。その笑顔は優しい。

「おめでとう。すごいじゃん。マイナス何キロ?」

千夏は朝に測った体重を思い出す。確か五十一・三キロだった。

「目標はマイナス十キロ。今もう少し減って、マイナス十一キロまできました」

「ホントにすごーい。もう維持期に入ってもいいんじゃない?」

「はい。でもあと、もう少しだけ」


千夏は誇らしげに笑い、バーを床と垂直に下ろす。肩甲骨がグッと寄り、背中の筋肉が鍛えられている感覚が気持ちいい。褒められるのはその十倍、気持ちいい。

「何キロ目指すの?」

「人に聞かれたとき、いつも四十八キロって答えたいんで。四十七・九キロになるまで、まだまだ頑張ります」

「短期間でいい女になったよねえ」

「ありがとうございます。美穂さんに言われると嬉しい」


二人はマシンで体を鍛えながら、しばらくボディラインのつくりかたについて意見交換した。そばにいた女性会員も会話に混ざってきて、なかなか白熱した。やがて二人は筋トレマシンを一周すると、ルームランナーのほうへ歩いていった。


「それで? 冬馬くんとは最近どうなの?」

「あー、それが、実は」

そう言って、千夏は意気消沈してしまう。美穂の隣のルームランナーに乗り、スタートボタンを押す。足元のランニングベルトがゆっくり動き出す。

「フラレました」

千夏は小声で言い、速度調整ボタンを押す。じわじわとベルトは回る速度をあげてゆく。それに合わせて歩き進める。

「そうなんだ」

美穂は笑顔を引っ込める。気遣わしげな顔を向けられ、千夏は胸が痛んだ。


「でも。今、正秋がそばにいてくれて」

「えーと。それって誰だっけ」

「営業部の係長です」

「あー。安田係長! この前襲われかけた人?」

美穂の言葉に、周りのジム会員達が何人か目を向ける。

「シー。美穂さん、声大きい」

千夏は辺りを見回し、恥ずかしそうに人差し指を立てる。

「あ、ごめん。それでそれで?」

美穂は声のボリュームを落とし、好奇に満ちた目で尋ねてくる。千夏はつられて笑ってしまう。

「エッチとかはしてないですけど。家に泊まりました」

「キャー。エッチ抜きで他にすることあんのお」

甲高い声を張り上げる美穂に、千夏はもう諦めることにする。

「だって、失恋したばかりだし」

「失恋直後が一番グラッといきやすいもんなのよお」

美穂はやたら色っぽい目つきで笑う。この人には敵わないと、千夏は声を立てて笑う。


「一晩中、ギュー、してもらいました」

「キャー。ひどーい。残酷ー。係長、ヤリたくて悶え苦しんでたでしょ」

「んー。まあ」

「そうに決まってる。好きな女が目の前にいて、可哀想ー。もう、なる早でヤラせてあげなよ。ちなっちゃん、マシンで鍛えてプリケツになったしさあ」

美穂は千夏の尻をバンバン叩く。

「ちょっと。まだそういう関係じゃないです私達」

そういう関係とはどういう意味か。自分で言っておきながら、千夏はその発言が気になる。まるでこれからそういう関係に向かって突き進みたいような言い草だ。冬馬はどうした。綺麗さっぱり忘れたか。


「んんー。じれったくていいわね。素敵。そうよね。愛情には忍耐がつきものだから」

美穂は還暦とは思えないほど、形のいいその尻をフリフリしながら、速い速度で歩き続ける。

「私、失恋したてですから」

「もしかしたらさあ。失恋してよかったのかもよお」

「そうですか?」

「確かに冬馬君、いい男よ。私も大好き。だけど、係長はさらにいい男じゃない? ちなっちゃんのためにどんだけ我慢してきたのかな、これまで」

「なんか、聞いたらずっと片思いしてたって言われました」

自分で言ってて恥ずかしくなり、千夏は苦笑いしながら歩く。

「どれくらい?」

「本人も分かんなくなっちゃってて。最低でも六年以上」

「えええええ。えええええ。いい大人が六年? あり得なくない?」

「諦めて他の人と付き合ったって言ってますけど。話、盛ってるんですかね」

千夏は呆れたように笑う。

「それはあり得る。でもあの係長なら、嘘は言わなそうだよね」

「やっぱりそう思います?」

「うん。純真そうじゃん」


純真ではない。妖精でないからだ。千夏は歩きながら、正秋の「トックリヤシ」を思い出し赤面する。

「ビーグル犬みたいな顔してるよね」

美穂の遠慮のない発言に、千夏は盛大に噴き出した。周りの会員達が一斉にこちらを見たので、千夏は慌てて周りに頭を下げる。

「美穂さんのせいで、次会ったらビーグル犬にしか見えなくなります」

「で、どうなのお。ビーグル犬と一晩中抱き合ってみた感想は」

千夏は顔が急激に熱を帯びるのを感じた。

「わりと癒されましたよ。落ち着かなかったけど」

「ふうん。匂いは?」

「え? 匂いですか」

「うん。匂い、好きだった? 嫌だった?」


千夏は歩きながら思い出す。ベッドと枕、タオルケットの匂い。正秋の匂いはキツくなかったと思う。でも男だと分かる匂いだ。

「好きか嫌いかだと…。嫌な匂いではないです」

千夏は正直に言う。

「キャー。それってもう、好き、だよ」

「えー? 違いますよ」

「ううん。違わないのよ。好きな人にしか、いい匂いだって思えないの。そういうものよ」

「そうなのかなあ」

「この梅雨どきにね、男の匂いなんて男臭くてヤなもんなのよ、普通」

そう言って美穂は顔をしかめ、片手を振る。千夏はそれも一理あるな、と納得しながら歩く。

「はい」

「だからね、ちなっちゃん、ちゃんと恋してるんだよ」

「えー?」

「もしかしたら、ちなっちゃんこそ、ずーっと前から好きだったんじゃないの。あはははは」

美穂は速度調整ボタンを長押しして、タンタンタンと駆け出した。千夏も速度を上げ、同じように駆け出す。脳内が再び激しく喋り出すのを聞く。


は? 何、私ってすでに正秋が好きなわけ? 雑魚すぎない? 抱かれた冬馬はともかく、抱かれてもいない正秋に?

確かにこの間の朝はドキドキしっぱなしだった。正秋に後ろから抱きしめられ、アメリカンチェリーを口移しされたとき、嫌じゃなかった。ねっとりした正秋の唾液が絡みついて…。


千夏はハッとして首を横に激しく振る。これだから男に免疫のない女は。本当に自分に腹が立つ。この先、冬馬と正秋以外の男にも、優しくされたら簡単に落ちるのか。そんなに自分が「無い」のか。


改めて冬馬のことを思い返す。冬馬はカッコいい。不誠実というわけでもなかった。ちゃんと大切な友達だと言ってくれて、謝ってくれた。日帰り温泉でのやりとりを思い出すだけで胸がうずき、鼻がつうんとする。

千夏は美穂に並んで走った。その後は美穂の恋バナに耳を傾けながら笑い、走りまくり、思いを昇華した。

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