甘い朝
正秋はベッドから降りると、トイレへ向かった。千夏はテレビのリモコンを見つけ、テレビに向かって電源ボタンを押した。
「今日の第一位は…乙女座のあなたです」
乙女座は正秋か。千夏は深く息をつき、ぼんやりしたまま、星座占いの順位結果を見ていく。双子座は十一位だ。
続けて朝のニュースが始まる。映像も音声も、まったく頭に入ってこない。トイレのドアが再び開き、正秋がキッチンへ向かう音が聞こえる。朝ごはんを作るのだろうとぼんやり思ったが、手伝う気になれない。全身の力が抜け、千夏はソファに身を預ける。自分を振った冬馬と、寄り添ってくれる正秋が交互に脳内を占拠し、疲労が増す。
いい匂いが漂ってくる。正秋は前夜に仕込んでいてくれたらしい具沢山のコンソメスープとトースト、それに山盛りのアメリカンチェリーをテーブルに並べる。食卓の完成だ。
「なんか夫婦の食卓みたいになってる」
千夏は照れてトーストをかじる。正秋はにこにこしてコーヒーを飲む。
「いいね。付き合うのすっ飛ばして、いきなり結婚するのも」
千夏はトーストが気管に入り、激しくむせた。
「ごめん。でも、本音なんだ」
「知ってる」
千夏は鎖骨のあたりをさすりながら頷く。
「あれ、知ってたの?」
「この前、正秋が言った。課長になったら俺に飼われてくれるか、って」
飼うってなんだよ。自分のほうこそ飼い犬みたいな顔して。千夏は脳内で突っ込み、密かに笑う。だんだん気持ちが上向いてきた。
「あー。飲んでるときかな」
「そうだよ。まあ、それも悪くないかもね」
千夏はますますおかしくなってきて、激しく笑った。
「ねえ。千夏は結婚願望あるんだよね」
「あるよ」
「ふーん。いつごろ?」
「なる早」
そう言いながら、この話題を避けたくなってきた。コンソメスープの水面に映る自分の顔を見下ろす。寝不足でひどくブスいと、千夏は辛口評価する。
「俺のこと好きになってくれたら、飼われてよ」
正秋は平然と言ってのけ、コーヒーをすする。
「言うと思った。本気なの」
「本気だよ」
「いや、いいよ。無理しなくて」
「無理してないよ。貯金もしてるし」
千夏はコンソメスープのカップを置き、じっと正秋を見つめる。正秋もコーヒーのマグカップをテーブルに置き、じっと見つめ返す。本当にどこから見ても死角のない優良物件だ。こんなにいい男を、どうして今まで妖精だとバカにしてきたのか。千夏は改めてこれまでのことを反省する。部署は違えど何の肩書きもない平社員の自分とは違い、正秋は主任になり、主任から係長になった。自分と違って役職手当ももらっているだろうし、妖精などという風評被害さえなくなれば、あっという間に誰かのものになってしまうだろう。
「貯金。いくらくらい貯まったの」
そう言って、千夏は目を細める。
「正確な数字言ったら、飼われてくれる?」
正秋はにんまり笑う。
「それはそれ。これはこれ」
千夏が眉間にシワを寄せると、正秋はくすくす笑う。
千夏はふと春菜のことが頭をかすめた。現に春菜は、千夏よりも先に正秋の良さを認めている。男を見る目はあっちの方が上だ。だけど口には出さない。千夏はアメリカンチェリーを引っ掴み、種を残して周りの果肉をちまちま食べる。
「千夏、可愛い。抱っこさせて」
「ええ?」
「抱っこするだけだから、お願い」
正秋のズルいところはその子犬っぽさだ。愛情を求めて鼻をひくつかせ、切なげに鳴く。同じ三十二には見えない。十六くらいの少年に見える。そんな顔をされて拒否できるはずがない。
「いいよ」
千夏が下を向いてチェリーをしゃぶると、正秋が立ち上がり、千夏の後ろにきてあぐらをかく。
「おいで」
そう言われ、千夏はおとなしく正秋の足の上に乗る。正秋に背後から抱きしめられ、頭を撫でられる。食べにくいことこの上ない。
「失恋ホヤホヤなのに俺を頼ってくれて、ありがとう。嬉しい」
「うん」
「あえて酷いこと言うけどさ。俺の言った通りになった。千夏、失恋。俺、チャンス到来。俺、嬉しい」
「本当に酷い」
千夏はそう言って振り返り、正秋のほおをつねる。正秋は嬉しそうに笑う。
「可愛い」
「知ってる」
「大好き」
「知ってる」
「食べちゃいたい」
「だめ」
「でも、俺、ゆうべ食べるの我慢できた。千夏は食べられたがってたのに。偉いだろ。褒めてよ」
正秋は目を潤ませ、覗き込んでくる。
おかしい。色々おかしい。私はフラれて凹んだはずなのに。もう別の男にドキドキしている。自分はこんなに移り気だったのか。いや、そもそも正秋の戦闘力が高すぎる。それをひた隠しにして、いきなり迫ってこられたら、雑魚い自分など瞬殺だ。千夏は正秋に頬擦りされながら、顔を赤くする。
そういえば星座占いの結果もおかしい。双子座は十一位で、「恋愛運ダダ下がり、まさかの落とし穴が」とか言われていたはずだ。これのどこがダダ下がりなのか。爆上がりの間違いだろ。いや、乙女座の正秋が一位だから、簡単に丸め込まれてるのでは。そうだそうだ。そう思うことにしよう。
「偉い。偉い。偉い」
千夏はわざと呪文のように繰り返す。
「ご褒美は?」
千夏は、黙って正秋の頭を撫でる。心の内では、一晩付き合ってくれたことに感謝してるのだ。
「それだけー? まあいっか。はい。新しいやつ」
「自分でとれるよ」
千夏はムキになってチェリーに手を伸ばす。すると正秋はチェリーの入った皿をサッと取り上げ、千夏の手の届かないところに掲げる。
「返して」
「俺が食べさせてあげる」
「そんなの友達同士はしない」
「するよ? 辞書にも書いてあるから」
正秋が大真面目に言うので、千夏は吹き出した。
「分かったよ。じゃあ食べさせてもらう」
観念して言ったのに、正秋は対になった二粒のチェリーを千夏の口の前に差し出し、軽く揺さぶる。千夏は正秋の片手で羽交締めにされているので、手は使えない。顎を突き出して咥えようとするも、サッと動かして咥えさせてくれない。
「ちょっと、何の罰ゲーム」
「千夏は下手だなあ」
正秋はチェリーを揺さぶり、くすくす笑う。
「どう食べるの」
「こうするの」
正秋はそう言ってチェリーを一粒、口に入れた。モゴモゴして種だけそっと吐き出すと、有無を言わさず千夏にキスした。
「んー」
千夏がジタバタしているうちに、種のないチェリーの果肉が、千夏の口の中へちゅるりと滑り込む。
「美味しい?」
正秋は得意そうに笑う。千夏は素早く咀嚼して飲み込み、赤い顔でキッと睨みつける。
「キスしないってゆうべ、言ったじゃん」
「うん、言ったよ」
「じゃあ何でよ」
「今のはキスじゃない。食べさせただけ」
正秋は開き直って笑う。負けた。完全に正秋のペースだ。だけど怒る気にならない。千夏は諦めて、一緒になって笑う。
「もっと食べる?」
「要らない」
「ごめん。可愛くていじめたくなる」
それ以上言うな。顔から湯気が出る。どう見てもこれは友達同士の朝ごはんじゃない。くすくす笑う正秋が憎たらしいのに、拒めない。やってることは冬馬よりも大胆だ。実はモテ男か。千夏はだんだん正秋が分からなくなる。
「ねえ、千夏は夏休み、いつ取るの」
急に話題を変えた正秋に、千夏は少しホッとする。
「んー、まだ取れるかどうか分かんないけど、七月下旬に申請してる」
千夏は敢えて正確な日付を伝えないことにする。
「そうなんだ。帰省するの」
「ううん」
「何するの。どこ行くの」
正秋の追及が厳しくて、千夏は思わず笑った。
「鳥取砂丘」
「砂丘? そういえばこの前、砂漠のドキュメンタリー見てたよね」
「あれはたまたま。真夏の砂漠っていいじゃん。すんごく熱くて空っぽで。水分ゼロのパッサパサ」
そう。今の自分と砂漠は同義語だ。後ろから千夏を抱っこする正秋を振り返ると、分かったような分かってないような顔をする。
「ふうん。まあいいや。じゃあ今週末、ホタル、見に行かない? 今しか見られないんだ」
「ホタル? えー、どこで見られるの」
「東京でも見られるとこがあるんだよ」
正秋がスマートフォンでブックマークしていたらしいサイトを見せる。六月が見頃で、ゲンジボタルが一万匹ほど見られると記載がある。
「行きたい」
「じゃあ、決まり」
正秋はそう言って、千夏の顎をつかんで顔を横に向けさせる。千夏がビクッとして目を閉じると、正秋は頬をそっと撫で、まぶたに優しくキスした。




