一晩中
その夜、千夏は正秋のマンションに入り、ベッドの上に座って向き合った。
「本当にいいの」
薄暗い部屋で、正秋が小さな声で尋ねる。千夏はしばらく正秋を見つめてから、下を向いて頷く。
正秋は千夏の後頭部に手を回し、優しく撫でる。ゆっくりと顔を近づけ、唇に唇を重ねる。千夏の口に舌を侵入させると、千夏の舌を少し乱暴に吸い上げる。後頭部を撫でていた手は肩、胸元へと降りていき、着ているブラウスのボタンを上から順に、ゆっくりと外していく。ブラウスがはらりとベッドの上に落ちると、正秋は両手を背中に回す。ホックを外し、ブラをまくりあげる。あらわになった千夏の胸に顔を埋める。そのまま千夏の上体を後方に倒し、仰向けにさせる。
千夏は壁掛け時計の音を聞きながら硬直し、されるがままになる。もう何も考えられない。考えてもしょうがない。自分を求めてくれる人に、激しく抱かれればいい。正秋ほど優しい男はいない。なのに、どうしてこんなに怖いんだろう。自分は何に怯えているんだろう。千夏は無意識に目をギュッとつぶる。
「千夏?」
正秋が静かに問いかける。千夏はゆっくり目を開け、正秋の顔を見つめる。自分の内ももに正秋の硬いものが触れ、息をのむ。唇が震え、自然と全身も震えてきた。正秋は千夏のほおを丁寧に、何度も何度も優しく撫でる。
「怖い?」
「ううん」
千夏は目を逸らし、嘘をつく。
「震えてる」
「気のせい」
千夏は強がって言いはるものの、鳥肌は止まらない。その気はないのに、涙もうっすら滲んでくる。正秋は深くため息をつくと、起き上がってベッドの縁に座る。
「やめちゃうの」
千夏は仰向けのまま、小さな声で問いかける。正秋は背中を向けたままだ。
「うん」
「どうして」
「好きな人が泣いてるから」
正秋は肩を落とし、力なく答える。千夏は上体を起こし、背後から正秋を抱きしめる。
「ごめんなさい」
「謝るなよ」
正秋は後ろに手を伸ばし、千夏の頭をヨシヨシする。その手はじんわりと温かい。
「正直、千夏のこと、すんごく抱きたい。だけど、しない。キスももう、しない。千夏が泣かずに俺を受け入れてくれるまで、友達でいよう。俺、待つから」
正秋の声は小さく、かすれている。
「うん」
千夏は正秋が両手で顔を覆うのを、後ろから見る。急に愛おしさが増し、千夏は衝動的に背中へ頬ずりする。
「セックスなしで、抱きしめてもらいたい。そういうの、ダメ?」
千夏は背中に向かって小声で問いかけ、抱きしめる腕の力を強める。正秋は振り返り、千夏の瞳を捕える。
「いいよ」
二人はベッドに並んで横になった。正秋が性欲をこらえているのは分かったので、口でしてあげようかと千夏が尋ねた。そう言いながら、自分は一度しかセックスの経験がないし、上手くできる自信もなかった。正秋はそれを見透かすように、それだけで済まなくなるからいい、大丈夫だよと答えた。でも、と反論すると、お願いだから俺の前では頑張ろうとしないで、無理しようとしないでと正秋は訴えた。それから千夏の体を引き寄せ、より強く抱きしめた。千夏はその忍耐を信用し、それ以上は口をきかず、黙って身を預けた。
目を閉じると冬馬がいた。声も聞こえた。自分の気持ちが怖くなり、正秋の腕の中から逃げ出したかった。だけど言い出した手前、逃げ出すわけにいかなかった。一方で、温かく優しい正秋のそばにいたい気持ちもあった。千夏は正秋のパジャマを握りしめ、ギュッと抱きついた。また少し、涙が滲んだ。
正秋は一晩中、ベッドの中で千夏を抱きしめた。ときどき頭やほお、背中を撫でた。千夏が暗がりのなかで見上げると、正秋と目が合った。二つの黒い瞳が自分に向けられ、闇の中で揺れていた。するとわずかに笑い、千夏の額にキスした。それから自分の胸に、千夏の顔を押しつけた。
長い夜を越え、二人は朝を迎えた。
「おはよう」
正秋は千夏のほおにキスする。夜があけて周囲が明るく、顔がはっきり見えると恥ずかしい。それでも曲がりなりにも一晩をともに過ごした相手だ。自分から望んでここに来ている。距離が近いとかスキンシップが多いとか、もうその手のことは反論材料にならない。千夏は抵抗せず、なすがままにされる。正秋は今度は背中に手を回し、抱き寄せる。
「おはよう。全然眠れなかった」
千夏は寝起の低い声を出す。
「俺も」
「会社行きたくない」
「俺も」
「休みたい」
「俺も。でも二人で休んだら俺、今度こそ何するか分かんないよ」
体を引き離し、寝不足な顔した正秋の口から飛び出した言葉に、千夏ははっきり目が覚める。正秋はくすくす笑い、体を起こした。




