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俺を試着して

千夏はテーブルの向こう側にいる正秋を、驚愕して見つめていた。


「ちょ、待って。そんな言い方」

千夏は背中を曲げ、声をひそめた。

「千夏がさっき言ってたセリフだよ」

正秋もそれを察したか、ボリュームを落として答える。それでも背筋は伸ばしたままで、堂々とした物言いにかわりない。

「そうだけど」

「無理? ならいいよ」

正秋は急に気楽な口調になり、いつもの柔らかい笑みを向ける。それからスマートフォンを取り出し、アプリで追加オーダーする。


「どうしてそんなこと言うの」

「さっき、試着失敗した私なんか、って言ったから。だったら千夏も今度は受け身じゃなくて、能動的に誰かを試着してみたら」

「受け身じゃないよ。私から冬馬に言ったんだから。三十前に処女捨てたい、って」

「じゃあなんで試着失敗した女なんて言い方するの」

正秋に見据えられ、千夏は言葉を飲み込んだ。言われてみれば確かにそうだ。どうしてそんなふうに、私は自分を卑下するのか。

「いいの。とにかく。なんでそれが正秋なの」

千夏は思い直し、テーブルをパンと軽く叩く。正秋は琥珀のような瞳を輝かせ、優しく笑う。

「千夏、さっき俺のこと、ちょっと気になってるって言った。少しは好きなってくれたんだって、思っていいよね」


本当に正秋という男は、いちいち正解を言い当ててくる。その通りだと、千夏は小さく笑って頷く。店員がアイスティーを入れたカップを運んでくる。正秋はそれを受け取ってストローを刺し、ゴクゴクと喉を鳴らして飲む。

「俺で良かったら、千夏が望むだけ抱いてあげるよ。慰めにはなるんじゃない」

正秋は切なげに笑う。その顔に、その声に、千夏の胸は強く締めつけられる。これは少し好き、のレベルなのか。千夏は自分の気持ちがよく分からなくなる。

「変なこと言わないでよ。慰めてもらおうなんて思ってない」

本当は思っているくせに、反対のことを言う。

「別にいいよ、それくらい」

「良くない」

「俺にもメリットはある」

正秋はふいに目を細める。

「どんな」

「抱かれたから杉崎のこと、好きになったんだろ。だったら俺も抱きたい」正秋は手を伸ばし、千夏の手を握りしめる。「それで俺のこと、好きになって」


千夏は沈黙する。正秋から目を逸らし、周囲を軽く見渡す。近くの席で二歳くらいの女の子が母親らしき女性に抱かれ、おもちゃを振り落とす。それを父親らしき男性が拾い上げて子どもに手渡そうとするも、その子はフライドポテトを指さし、女性が手に取って食べさせてやる。兄らしい四、五歳くらいの男の子がそのおもちゃで遊び始める。女の子がそれを見て癇癪を起こす。男の子はそれを無視して遊び続けるも、ドリンクを倒す。男性に怒られながらタオルで服を拭かれる。


周りは騒がしいはずなのに、千夏には何も聞こえなくなる。ふいに我に返り、手を引っ込める。

「待ってよ。そんなことしても、好きになる確証はないよ」

千夏は正秋を一瞥して言うが、その声は尻すぼみだ。さらに自分の手を見る。ものすごく汗をかいていて、正秋のハンカチでそれを拭き取る。


正直に言えば抱かれたい。こないだは拒絶してしまったけど、今だったら言い訳が立つ。好きな男にフラレた。それで傷ついた。だから他の男で心を埋めてもらう。慰めてもらう。付き合う前に「試着」して体の相性を確かめたいとか、正秋をもっと好きになれるようになりたいとか、そんなことはまだ考えられない。もっと刹那的で、応急処置的なものでいい。ズルいのは分かっている。


「そうなったらそれまで」

正秋はため息をつき、達観するように言う。

「それに、付き合ってもいないのにセックスなんかしたら、私達、普通の友達でいられないよ」

「そんなことない。現に杉崎とどうなんだよ」

千夏は少し顎を引き、大真面目に考えをめぐらす。

「…友達になってる」

「だろ?」

「でも冬馬には三年間、音信不通にされたんだよ。正秋とはこれからも会社で会うのに。セ、セフレになっちゃう。傷つくのは正秋なんだよ」

そうだ。セフレになったら厄介だ。そんなの、理乃や春菜がやってることと変わらない。正秋はどうかしてる。それを真面目に聞いてる自分もだ。冷静になれ、自分。千夏は唾を飲み込んだ。


「セフレっていうのは愛がないんだろ」

「うん、多分」

「課長と春菜みたいな感じか」

正秋の不快そうな言葉に、千夏は心臓が止まりそうになる。

「知ってたの?」

「そういう千夏も知ってたんだ」

正秋の白けた様子に、千夏はしばし黙り込む。自分以外に目撃者がいてもおかしくはないかと、妙に納得する。


「俺は千夏が好きだよ。千夏は他に好きな奴がいるけど俺のことも、少しは好き。なら、少しは愛がある。セフレじゃない」

「何それ」

「俺はそんなことくらいで傷つかない。千夏に試着失敗って言われて捨てられても、しょうがない。そんなことよりもっと大事なことがある」

正秋はまるで自分に言い聞かせるような口ぶりをする。

「大事なこと?」

聞き返しておきながら、答えを聞くのが怖い。まっすぐな正秋がまぶしい。千夏は少しだけ目をこする。

「俺は好きな人のこと、目一杯、愛してあげたい。支えてあげたい。そうやって泣かないように」

正秋は真正面から千夏を見入る。今日、何度目か分からない、正秋の本気が伝わってくる。声がかすれて、しんどそうだ。正秋が傷つかないわけないのに、それを知ってて敢えて傷つかないと言い張っている。千夏は急にしゃくり上げた。肩が震え、唇も震えた。そのせいだろうか。正秋の顔の筋肉が急激にゆるみ、いつもの少年のような、柔らかい表情へ戻っていく。

「って、言ってること、変か? 変だよな。ただのヤリモクの口説き文句だよな。ハハハ、マジでキショいわ俺。変なこと言ってごめん。杉崎みたいにイケメンじゃないのに。忘れて」


正秋のから笑いを聞きながら、千夏の目から涙が後から後から出てくる。何度も何度もハンカチで拭く。自分もハンカチも、そろそろキャパオーバーだ。


「この話は、なし。また謝罪案件が増えちゃったね。ごめん、もう泣かないで」

正秋は、手を伸ばし、千夏の頭を優しく撫でる。千夏はそれを甘んじて受け入れ、ハンカチで目元を拭き続ける。

「それでも、同期じゃなくて友達がいい。週末、こうして会いたい」

正秋は撫でる手をとめ、自分の顔を千夏の顔に近づけて覗き込む。甘えた子犬のような、切なげなその顔はズルい。可愛い。千夏は黙って頷いた。


「外の空気、吸いに行かない? 晴れたよ。今日の双子座、外に出るとラッキーだって言ってたよ」

正秋は椅子を後ろに引いて立ち、窓の方を見ながら明るく笑いかける。千夏はその形のいい卵型の顔に引き寄せられるように、自分も席を立つ。

「雨上がりの植物って綺麗なんだよ。雨の匂い吸って、イキイキしてて…」

「正秋」

「うん?」

千夏は正秋の顔をまっすぐ見つめる。笑顔になれない。どんな顔すればいいのか分からない。

「どうしたの」

正秋が尋ねるも、喉から言葉が出てこない。どうすれば出るんだろう。千夏は身振り手振りで何かを表現しようとしながら、悪戦苦闘する。それを見て正秋は、優しく微笑みかけてくる。

「俺、やっぱり植物博士の方が幸せな人生だったかもな。なんで営業なんかやって…」

「私は、自分の気持ちにしたがうことにする」

千夏はうつむきながら正秋の手を取る。

「え?」

正秋は口を半開きにする。

「今日、正秋の家、泊まりたい」

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