謝罪
翌日の日曜日、午後になっても雨は降り続いていた。千夏は正秋と約束したバーガーショップのマケドナルドへ向かった。正秋はバツの悪そうな顔を引っさげて、時間通りに現れた。一方、千夏は泣き腫らした目を隠さず、正秋の前に立った。どうしたのと聞かれたものの、その前に正秋が私に言うことがあるよねと、千夏は一喝した。
二人はカウンターでコーヒーを受け取って二階席に上がると、窓から少し離れた席についた。中高生や家族連れで混雑していて、千夏が想像した以上にやかましかった。二人は部屋中央の席に向かい合わせに座り、互いに目を合わせずじまいだった。
マケドナルドを指定したのは千夏の方だった。とにかく、ロマンティックな雰囲気にしたくなかった。そのためには室内が明るく、チープで、騒々しくて、こちらが主導権を握れる場所がよかった。正秋はそれについて何も意見しなかった。
「この間は、ごめん」
喧騒のなか、正秋は開口一番そう言って、頭を下げる。千夏は正秋の頭をしばらく見る。そのつむじをぼんやり見てから、黙って頷く。
「友達に手を出さないとか言っときながら、本当にごめん」
千夏はまた頷く。
「ごめん。あのとき、酔ってて」
正秋の言葉に、千夏はうつむく。なんだか虚しい。もっとマシな言い訳はないのか。
「どうしても我慢できなかった」
千夏はコーヒーの入った紙カップを一つ、手に取る。
「どんな我慢なの」
千夏は力なく笑い、カップに口をつけ、コーヒーをすする。ひどく苦く感じる。
「千夏があんまり可愛くて。理性がぶっ飛んだ」
正秋が顔を上げ、二人は目が合った。その目は必死で、真剣そのものだ。千夏はカップをテーブルへ静かに置く。急におかしさが込み上げてきて、クスクスと笑い出す。三十過ぎると、可愛いと言われる機会がグッと減るのだ。なのに最近は正秋といい、冬馬といい、急に言ってくれる人が増えている。
「そういうの、早く言ってほしかった」
「なんで?」
正秋は少し緊張が解けた顔をする。千夏につられて、少しだけ笑う。
「少なくともあと三年、早く言ってほしかった」
「三年どころか、俺はもっと前から好きだったよ」
「どれくらい?」
千夏は興味を引かれ、少し目を大きく開ける。
「会社で箱根に行ったときはもう好きだったよ」
箱根の社員旅行。千夏は素早く記憶を辿る。そこへ行ったのは六年前だ。
「なんで今になって言い出す気になったの」
「急に綺麗になってくし、焦ったから」
「ダイエットする前の私の、どこが好きだったの」
千夏はそう言い、椅子を後ろに引いて立ち上がる。テーブルのそばにある棚へ歩み寄り、シュガースティックをごっそり掴み取る。今日は謝罪を受ける日なのに、何やら砂糖が必要な気がする。失恋直後とは思えないほど、今の状況は甘々だ。それに合わせたくなったのだ。千夏はおもむろにシュガースティックを開封すると、ザーッとコーヒーに流し込む。もう一袋開け、同様に流し込む。正秋はそれを見つめ、ゆっくり頷く。
「全部」
当然のように正秋は言う。
「ははは。あんなにデブスだったのに」
マドラーでコーヒーをかき混ぜながら、思わず乾いた笑いが漏れる。
「千夏は太ってても可愛かったよ」
正秋はその笑いにつられない。
「痩せたら可愛くなくなった?」
「そんなことないよ。すごく綺麗だし…ドキドキする」
そう言って、正秋は照れてうつむく。
やっぱり甘い。甘すぎて耳が痒い。夢か。幻か。こんな現実、耐え難い。千夏はさらにスティックの封を切る。
「事実だから」
「大事なことだからもう一回言う。二十代のときに言ってほしかった」
千夏はコーヒーを再びかき混ぜる。四本分入れた砂糖のざらざらした触感が消え、溶けてゆく。
「だって、千夏が職場恋愛とか面倒なこと絶対しないって言うから」
千夏はマドラーを持つ手を止めた。それは飲み会のときの決まり文句だ。
「もしかして、今までそれが原因で言わなかったの」
「そうだよ」
そうだよじゃない。言えよ。千夏は脳内で突っ込む。
「それで正秋はどうしたの」
「諦めて他の人と付き合った」
「何年くらい?」
「どれも長く続かなかった」
正秋の口ぶりはそっけなく、どうでもよさそうに見える。千夏はため息をつく。と同時に、正秋を観察し始める。私が聞くから答えるのであって、必要以上に語らない。そんなドライさが感じられる。
どれも長く続かなかった、という言葉が少し引っかかる。元カノが一人だったら、長く続かなかった、だけでいい。二人だったらどちらも長く続かなかった、になるだろう。ということは元カノは三人以上いたということになる。どうりで女の扱いが上手いわけだと、千夏は妙に納得する。
千夏はコーヒーに目を戻す。砂糖は完全に溶け切ったらしい。もはや飲む気にはならない。なので、おもちゃにすることにした。千夏はさらにスティックを開封し、かき混ぜていく。
「いいな。私も二十代のときに恋愛したかったな」
千夏はやや猫背になって頬杖をつき、やさぐれて窓の方を見る。
「なんでそんなに二十代にこだわるの」
「ダイエットしてて悟ったんだ。今更頑張ってもあんま意味ない。肌のハリは戻らないし。毛穴もたるんでそのまんまだし」
「そんなの、どうだっていい。会社の奴らに余計なこと言われすぎて、そう思い込んでるだけだよ」
「どうでもよくない」
「二十代のときに俺が告白してたら、何がどう変わったんだよ」
千夏は少し思案する。思いっきり変わったに決まってる。少なくとも笑顔でいる時間は、圧倒的に長かったはずだ。
「きっと今より豊かな人生になってたと思う。正秋、優しいもん。きっと調子に乗って、ワガママ言いたい放題で楽しかったと思う」
「そんなの今からだって豊かにできるよ」
正秋はテーブルの上で拳を握りしめる。
「そう?」
自分で言っておきながら、豊かにするとはどういうことなのか、千夏はよく分からない。分からないまま、コーヒーをかき混ぜる。
「千夏のワガママ、全部聞きたい。収入が多い方がいいとか言ってたよな。俺、もっと売り上げ立てて急いで課長になる」
「ははは。さすが営業部のエースだね」
そこまで言えるだけ、正秋は人として立派だ。とても尊敬できる。どうして自分のような女がいいのか、千夏は分からなくなる。
「あとは何? どうしてほしいの」
「どうって言われても。もっと他にいい人いたんじゃないの」
「だから、いないって言った」
正秋はピシャリと言う。その圧に負けて、千夏はたじたじだ。
「千夏が恋人に求めるものって何なの」
「え…」
「どんな男がいいの」
「どんなって言われても」
「身長と年齢だけはどうにもならないんだけど」
正秋は伏し目がちになり、自分のコーヒーを飲む。千夏はそんな正秋をまじまじと見つめる。正秋は明らかに、自分より背が高くて若い冬馬を意識して言ってる。そんなことを言ったら皆そうだ。身体的なことは変えようがない。
「それでも。俺にできることなら、なんだって叶えてやる」
正秋は顔を上げ、精悍な顔つきで真正面から千夏を見る。
うわ。これはもう甘々どころじゃない。激甘。いや、極甘だ。この糖分は致死量だ。もう耳が溶けてなくなる。千夏はさらにシュガースティックを開封する。何袋まで溶けるのか、見届けてやることにした。




