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帰りたくない

千夏は顔から湯気が吹き出し、とっさにお湯をかけた。


「あんたのほうこそスケベじゃん」

「ごめん。ほんと、それな」

頭からお湯をたっぷり浴びせられた冬馬が、髪をかき上げて激しく笑う。

「それなじゃない。乙女に向かって」

「ヒャハハハ。ごめんって」

もう一度ザバッと冬馬にかけると、冬馬も両手でお湯をすくい、応戦する。熾烈な掛け合いが始まった。


その後、二人は順番に脱衣所に戻り、館内着として借りた作務衣を着、髪を乾かした。それから廊下に出て、併設のコインランドリーへ向かった。濡れた服を洗濯機の中へ入れ、コインを入れ、洗濯をスタートした。二人の服が仲良さそうに絡まっているのが見え、千夏はやけに照れた。


「乾くまで、何してよっか」

冬馬に言われて、千夏は頭のてっぺんから爪先まで冬馬を見る。悔しいことに、冬馬は作務衣まで似合う。というか何着ても似合う。圧倒的に顔がいい。スタイルもいい。上半身ヌードよりも、むしろこっちの方がセクシーだ。

「あっち。休憩室がある」

千夏がぶっきらぼうに指さした方向へ、二人は歩き出した。


そこは十畳ほどの和室で、窓からは鬱蒼と生い茂る緑が見えた。部屋の隅では座布団が何枚か積まれ、ぽつんと置かれた扇風機が静かに首を振っていて、先客はいなかった。冬馬が座布団を二枚取り、一枚を千夏に渡し、もう一枚を丸め、枕にして寝転んだ。千夏はすぐそばで座布団の上に座り、冬馬を見下ろした。


「今日、連れてきてくれてありがとう」

千夏はブスい顔して礼を言う。冬馬は振り返ってこちらを見、優しそうに笑う。少しはだけた胸元が眩しい。

「よかった」

「アウトドアって普段、やんないから楽しかった」

「千夏は休みの日、何やってんの」

冬馬は肩肘をついて頭を支え、千夏を見上げる。

「何って別に。特に」

本当は色々ある。特にこの頃は。ジムの他に美容室やネイルサロン、脱毛サロン、その他もろもろ、美容に関することに夢中だ。だけど、言ってもからかわれる気がする。

「冬馬は?」

「ドライブとか、美術館行ったりとか。バレーボールしたり、友達と飲んだり」

「冬馬って友達、多そうだね」

「うん。多い」

「女友達が特に」

「それも多い」

聞くんじゃなかった。冬馬に悪気はない。だけどムカつく。千夏は意図せず顔がむくれていく。


「そういえばこないだ友達に面白い動画見せられてさ。これ」

千夏のむくれっぷりに気づかず、冬馬はスマートフォンの画面を見せる。どうやらショート動画投稿アプリ「TokTik(トックティック)」の動画らしい。映っているのは冬馬と同い年くらいの綺麗な女の子で、誕生日ケーキを食べて鼻の下に生クリームがついているのに、経済にまつわる真面目な話をしている。どうやら本人は酒も飲んでいたらしく、周りの声が耳に届いていないようだ。

「生クリームって反則だよな。誰でも可愛く見えちゃうからさ」


冬馬がくすくす笑いながら言う姿を見て、千夏の気持ちが急激にしぼんでゆく。そうか。生クリームはこないだ自分も顔につけた。生クリームがついていれば誰でも可愛く見えるなら、千夏だけが特別に見えたわけではない。ということはアレか。冬馬の前で生クリームつけた女は全員、間接キスされるって話か。千夏は冬馬へ曖昧に頷くも、気の利いたコメントはできずにいる。


「朝早かったから、眠い。ちょっと寝ていい?」

冬馬があくびをするので、千夏は頷く。冬馬は肘を伸ばし、そのまま横向きの状態で目を閉じる。千夏はその寝顔を見て、しぼんでいた気持ちが再び膨らんでくる。ああ。どうせだったら膝枕してあげたい。してほしいって言われたら、すぐにでも応じるのに。千夏が正座したまま悶々としていると、冬馬が突然、目を開ける。

「何、見てんだよ」

「見てたわけじゃないし」

「先輩の視線、感じるんですけど」

冬馬はくすくす笑って千夏の手首を掴むと、自分の頭を千夏の膝の上に乗せる。千夏はびっくりして硬直する。

「私の膝枕、高いよ」

願ったり叶ったりの状況だ。なのに、素直になれない。

「いくらでも払うよ」

「本当? 京都の芸者ガールばりに高いよ」

「うんうん、分かった。料金、後払いね」

冬馬はそう笑って目を閉じ、すぐに静かになった。微かに寝息を立てている。


千夏は猛烈にキュンキュンしながら、冬馬の整った顔立ちを穴が開くほど見つめる。この状況、どうしてくれる。この距離、もう好き? だよね? 私の勘違いじゃないよね? 千夏は冬馬の髪を撫で、肩を撫で、その温かい体温を感じる。しびれた足を少し崩し、壁に寄りかかったまま、千夏も目を閉じた。眠れそうになかった。


どれくらい時間が経った頃だろうか。冬馬のスマートフォンが、畳の上でバイブした。


千夏はその画面を見て目を見開く。冬馬は起き上がってスマートフォンを手に取り、画面を見る。急に表情がこわばった。

「服、乾いたかな」

冬馬の言葉に、千夏はさらに打ちのめされる。

「ああ、見にいこっか」

二人は立ち上がり、休憩室を出る。廊下を通り、コインランドリーへ入る。乾燥機は止まっていて、冬馬は中の服を取り出す。

「乾いたね。悪い。用事できたから。着替えたら帰ろ」

「帰りたくない」

言うつもりはなかった。なのに、言葉が口をついて出た。


「千夏…?」

きょとんとする冬馬の前で、千夏は背筋を伸ばし、向かい合う。感じたことのない勇気が突然湧いてくる。

「ねえ。春菜に会うの」

言いながら、先ほどの冬馬のスマートフォンの画面を脳内再生する。確かにはっきり映っていたのだ。「新着メッセージ:松下春菜」と。

「え。ああ、うん」

冬馬はこともなげに言う。そんな言い方をされて、千夏はまた一つ、傷つく。それでも聞かなければならない。

「どうして」

「どうしてって。ちょっとトラブってるみたいだから」

トラブル。本当はそうじゃないんだろ。なんで今日、私がここにいると思っている。昨日、なんで部屋に入れたと思う。混浴は。膝枕は。なんで。なんで。千夏は脳内で叫んだ。

「私、行ってほしくない」

千夏は脳内での叫びとは裏腹に、努めて穏やかな声で切り出す。冬馬は怪訝な顔をして見つめてくる。

「私が冬馬を好きだから」


戸外で雨音が強くなる。千夏はその音に耳を預け、半ば放心する。どうして。なぜ。どんな理由で私は今、このタイミングで言った。言っても無駄だ。冬馬と目を合わせられない。なんとなく冬馬の手元を見ると、広げていた手が握り拳になっていくのが見える。


「ごめん」

冬馬は千夏に向かって、深く頭を下げる。

「ごめんじゃなくて。ねえ。私って、単なる友達?」

「単なるじゃないよ」

「じゃあ、何」

「俺の中では。俺にとっては。数少ない、信頼できる、大事な友達」

冬馬は区切りながら、ゆっくり言う。まるで自分に言い聞かせているような言い方だ。千夏は唇が波打ってくるのを感じる。自分が可哀想と、泣いてやりたい。でもそれ以上に、こんなことで泣きたくもない。


「へええ。じゃあやっぱり、春菜とは付き合ってんだ」

自然と声が上ずり、震える。

「付き合ってないよ」

「じゃあ、何なの」

千夏は自分の声の大きさに驚く。慌てて周りを見る。近くに利用客はいない。それから歯を食いしばり、冬馬の顔を見上げる。その顔は思慮深そうに、でも憂いも込めながら、ひそやかに笑みをたたえる。

「あいつも友達だよ」


雨音がいっそう強くなる。遠くから利用客の笑い声が響く。千夏は目を離さず聞いていたのに、冬馬の方が目を逸らす。


同じ友達なら、どうして春菜の方を優先するのだ。なぜ目を逸らすのだ。冬馬は正直じゃない。きっとそれは本心じゃない。千夏には確信がある。冬馬は、春菜に恋している。

千夏は目に溜まった涙がこぼれ落ちないよう、木目の天井を向く。鼻がつうんとして、木目の輪郭がぼやける。

「ごめん。近くの駅まで送ってく。急ぐから、悪いけど電車で帰って」

冬馬はもう一度、千夏に頭を下げた。

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