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マス釣り

翌朝の土曜日、午前六時半に、千夏のアパートの前に冬馬が迎えにきた。


「本当に六時半にくるとか思わなかった」

千夏があくびしながら笑うと、冬馬も爽やかに笑い返す。

「早く行かないと混む。乗って」

冬馬はアパートの前に横づけした黒い車へ乗るよう、ドアを開ける。

「へえ、かっこいい車、持ってんだね」

千夏は助手席に乗り込んでドアを閉め、シートベルトを閉めながらちらりと背後を見る。後部座席を倒して後ろの荷室を拡張したSUVタイプの車で、コンテナやトートバッグ、クーラーボックスが積まれている。冬馬も運転席に乗り込んでドアを閉め、シートベルトを締め、エンジンをかけた。

「カーシェアしてるやつ。いくぞ」

「言われた通り動きやすい格好してきたけど。どこ行くの?」

「俺と一緒でも太らないとこ」

「どこ、それ」

千夏は眉間にシワを寄せる。

「マス釣り」

「釣り? 私、やったことないよ」

「難しくないよ」

冬馬は楽しそうに笑い、ルームミラーの角度を調整する。それからシフトレバーをパーキングからドライブに切り替え、アクセルペダルを踏む。


千夏の心は弾む。釣りにはまったく興味ない。でもそんなことはどうでもいい。好きな人と車で出かける。そう。これは間違いなくデートだ。冬馬が選局したラジオ局から、藤井風の「きらり」が流れてくる。まるで自分達がデートをしているのをラジオパーソナリティが察したのではないかと千夏が錯覚するほど、ドライブには最適な曲だ。


梅雨時でもこの日はちょうど、晴れ間が見えた。冬馬は首都高を抜け、中央道に乗った。高速道路は多少混雑していたものの、何とか午前八時に現地へ到着した。到着した先は、東京都あきる野市の秋川ふれあいマス釣場だった。


駐車場から出て、小さな事務所で受付を済ました。冬馬は千夏に網とバケツを持たせ、自分は釣竿二本と重たそうなトートバッグを背負い、釣り場を目指して歩き出した。明るい初夏の陽光を浴び、鬱蒼とした広葉樹の森に囲まれた石段を下り、川原にたどり着いた。


秋川には翡翠色に輝く水が絶え間なく流れていた。透明な翡翠色のその中には、紡錘(ぼうすい)型で深緑色の、何かがうごめく姿があった。体長三十から四十センチほどのニジマスで、それらが活発に泳ぎ回っているのが千夏にも見えた。


「すごい、いっぱいいる。マスって、鮭みたいなやつだっけ」

千夏は両膝に手をついてかがみながら川の中を覗き込み、冬馬に尋ねる。釣りには興味なかったのに、実際に生きている魚を見ると急にワクワクし出す。冬馬が反応しないので振り返る。冬馬はそばの石の上にしゃがみ込み、釣竿にリールを取り付け、ガイドに糸を通している。

「うん、そう。海釣りの方が面白いけど、こっちもなかなか」

冬馬はワンテンポ遅れて答え、釣り針に白い幼虫を取り付ける。

「何それ」

千夏はその虫を不気味がる。

「ブドウ虫。釣り餌だよ。はい」

冬馬は釣竿を千夏に持たせる。千夏は竿を持ったはいいものの、どうすればいいか分からずにいる。

「じゃあ一緒にやろ」


冬馬は周りに人がいないのを確認してから、千夏のすぐ後ろに立ち、竿を一緒につかむ。竿の先端を背後に向け、終端を軸にして、半円を描く。釣り糸が放られ、餌が着水した。

間髪を入れず、付近のマスが一斉に寄ってくる。竿はしなりながらグイグイと水中に引っ張られ、千夏は軽くパニックを起こす。

「どうすんの」

「かかった。リール、巻いて」

千夏はリールを巻く。モタモタやっているところを、冬馬が千夏の手を握って加勢し、高速で巻き始める。

「そのまま巻きつづけて」

冬馬が手を離す。千夏は言われた通り、フラフラしながら一人で巻く。かかったマスは活きが良く、千夏は巻くのに必死だ。冬馬は魚獲り用の網を持ち、浅瀬に手繰(たぐ)り寄せられてきたマスをさっとすくい上げた。


「やったー」

千夏は釣竿を持ったままバンザイする。

「結構でかいな」

冬馬も嬉しそうに、ジタバタ暴れるマスを両手で掴み上げる。

「すんごい楽しい。冬馬のおかげ。ありがとう」

千夏が満面の笑みで礼を言うと、冬馬は一瞬真顔になり、なぜかそっぽを向く。それから自分の竿にもブドウ虫を取り付ける。

「どんどん釣ろう」


冬馬からレクチャーされて、千夏はだんだん一人でも釣り上げられるようになった。経験者の冬馬は手慣れていて、要領よく釣り上げていった。それでも釣り始めから二時間もしないうちに、二人はそれぞれ十匹ずつ、マスを釣り上げた。マスをバケツに入れて屋外調理場に運び、串を刺して塩焼きにした。他の訪問者達とともに焼き場を囲み、焼けたマスを頬張ると、千夏は思わず唸った。


「こんなに美味しいの初めて」

「それ、昨日も言ってた」

冬馬が苦笑いしながら言う。

「一生懸命釣った後だから最高に美味しい。それに」

「それに?」

「冬馬の言う通りだよ。タンパク質だし、食べても太らない」

千夏がまた満面の笑みで言うと、冬馬はまたそっぽを向いた。


焼いて食べきれなかったマスは、プラスチックのパックに入れて持ち帰ることにした。千夏は満足して、川原のそばにある大きな石の上に座った。冬馬はその近くで小石を拾い、「水切り」をし始めた。水切りは川面に向かって平たい石を投げ、それが何回跳ねたかを競う遊びだが、冬馬はそれがとても上手だった。川幅が狭いというのもあったが、投げるたびにチャッチャッと跳ねながら川面を横断し、対岸の石ころの中へ消えていった。千夏は下手で、石はドボン、ドボンと水中へ沈んでいった。


上手に投げられなくとも、千夏は楽しかった。天気はいいし、川の水色は綺麗だし、サラサラと流れる音はいつまででも聞いていたくなるほど心地よかった。ずっとこの時間が続けばいいのに。そう思いながら、いい加減に石を投げ続けた。


「なんか、私達の生き方みたい」

千夏は石を放りながら、大声で言う。冬馬は黙って千夏の方を見てくる。

「なんでも器用な冬馬と、不器用な私」

千夏はまた投げる。石は水中へドボンと沈む。沈んだ瞬間に変顔をしてみせ、ニホンザルのようにキーキー騒ぐ。

「本当は不器用でもいいって思ってるからじゃね」

「えー?」

よく聞き取れなくて、千夏は耳に手のひらを当てる。冬馬は石を拾い上げて投げる。再び、チャッチャッと水面を跳ねてゆく。

「不器用な自分が好きなんだろ」

冬馬の笑い方は、幼稚な小学生に付き合うような笑い方だ。千夏は少し膨れる。


急に空が暗くなってきた。二人は空を見上げる。

「なんか、降りそう」

千夏は不安な気持ちでつぶやく。

「早く車、戻ろう」

冬馬が素早く荷物をかき集める。千夏もそれを手伝い、駆け足で車へと戻るも、ザーッと雨が降ってきた。

「急げ」

「うん」

二人はスピードをあげ、車に駆け戻った。


荷物を運び込み、それぞれ運転席と助手席に乗り込む。強烈な雨粒を全身に浴びてしまい、千夏はバッグからタオルを取り出すと、冬馬に手渡す。

「いいの?」

「うん」

千夏が言うと、冬馬はそれで体を拭き始める。千夏はそれを見ながらクシャミする。

「あ、ごめん。返すわ」

冬馬は自分を拭くのをやめ、千夏にタオルを突き返す。

「私はいいから。風邪ひくよ」

「そっちこそクシャミしたじゃん」

「大丈夫」

互いにタオルを押し付け合い、譲ろうとしない。冬馬は少し怒ったようにじっと千夏を見つめる。濡れ髪はいつも以上にセクシーで、髪越しに見えるその切れ長の目に、千夏はドキドキした。

「運転手は健康第一だよ」

そう言いながら、千夏の唇は震える。冬馬の瞳に自分が映り込んでいるのが見える。

「分かった、行こう」

冬馬は千夏から目を離し、ハンドルを両手で軽く叩く。

「どこへ」

「温泉」

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