ウブ
食事が終わり、後片付けをした。千夏はよく冷えた麦茶の入ったグラスを二つ、テーブルに置いた。冬馬はクッションの上であぐらをかき、遠い目をした。
「ねえ、冬馬はいつか独立したいとか、そういうのあるの」
「あるよ」
「へえ、すごい。起業するの」
「うん。いずれフリーランスになりたい」
冬馬は窓辺のバラの鉢植えを見やりながら言う。
「私はそういうの、ない。いいな」
「デザイナーならみんな考える。自分に裁量ある方がいい」
「え? うちだけに振ってくれる仕事、営業に取ってきてもらえる方がラクとか、前に黒岩さんに話してなかった?」
「あれは黒岩さん用の会話」
冬馬はこともなげに言う。千夏は腑に落ちて、麦茶を飲む。
「営業と外出して、どうだった」
「マサさんのこと? あの人すごいよね」
冬馬は急に目を輝かせる。そんな冬馬を、千夏は複雑な気持ちで見る。
「どんなふうにすごいの」
「溶け込み方が半端ないっていうか。空気と同化すんのが上手い」
「何、空気って。居ないも同然じゃん」
千夏はおかしくなってくすくす笑う。
「そういうのと違う。客にとっては当たり前の、なくてはならない存在になるのが上手いっていうか」
「えー?」
千夏にはよく分からず、腕を組む。
「しかも俺のこと客の前ですげー褒めんの。テンション低めな感じで」
「低めなんだ」
「そう。でも、客はそういうの、すげー喜ぶんだよ。期待してますって」
「それって冬馬にはプレッシャーじゃない?」
「うん。普通はそうなんだけど。マサさんが言うとそれ感じない。マサさん、すげーカッコいいんだよ」
「へえ。どんなところが?」
千夏は興味津々で耳を傾ける。正秋はどんな思いで冬馬を立てているのか。少しだけ胸が痛む。
「やり過ぎてもいいから振り切ったデザインやってくれ。クレームがきても、ケツは俺が持つから、って言ってくれんだよ」冬馬が充実した顔でグラスを手に取り、麦茶を飲む。「本人、可愛い感じなのにな。フツーに惚れるよな」
千夏もグラスを手に取り、麦茶をひと口飲む。
そうだったのか。だけどそんな話は初めて聞いたと千夏は思う。ほとんどの場合、営業が客先にデザイナーを連れて行くことはしない。行くとしたらディレクターだ。それが正秋の新しい営業の仕方なのかもしれないし、冬馬をうまく利用しているとも言える。冬馬の外見がいいのも、デザイナーにしては珍しく社交的なのも、使い勝手がいいのかもしれない。それでも実際に正秋がやってることはカッコいいと、千夏自身も認める。
「前から聞きたかったんだけど、冬馬のご両親って何してる人?」
「親父は会社経営。母さんは専業主婦」
冬馬の言い方はとても退屈そうだ。
「すごいね。なんの会社?」
一方の千夏は、前のめりになって聞く気満々だ。
「んー。何やってんのかよく分かんないけど、そんなに大きくない商社だよ」
なるほど。そんな親を見て育てば、自分に裁量ある方がいいと思うのも頷ける。なんとなく滲み出ている育ちの良さも納得できる。
「家。継がなくていいの」
冬馬が家業を継いで、その冬馬と結婚すれば自分は社長夫人だ。と、勝手な妄想を千夏は慌てて振り払う。
「うん。興味ない」
「冬馬ってきょうだい、いるんだっけ」
「いない」
冬馬がマイペースな理由が、なんとなく分かった気がした。千夏はベッドに寄りかかり、頬杖をつく。
「ねえ。それ、ご両親に感謝した方がいいよ。冬馬のそういう、立ち回りが上手いところ、絶対にお父さんの影響が大きいよ」
「それはあるかも」
「やっぱそう思う?」
「親父がよく、自分の領分を見つけたら、そこで人の百倍努力しろって言ってた。俺の領分はデザイナーだから、ここで努力する。で、黒岩さんのことはまだ立てておく。だからつまんねー話も笑って聞いてやってる。盗めるもんは全部盗む」
「すごい。お父さん様様だね」
千夏は大いに笑う。最近の冬馬が回してる案件の数といい、長谷川からの評価の高さといい、黒岩とはそもそも器の大きさが違う。きっと冬馬が黒岩を追い抜く未来はそう遠くない。
ふいに、冬馬が千夏のパーマのかかった黒髪を撫でる。千夏はびっくりして手を振り払う。
「ちょっと」
「まあまあ。でも、よかった。俺が原因で会社休んだのかと思った」
冬馬のうぬぼれた様子に、千夏は急に顔が赤くなる。
「だから、今日は有休だって」
「俺よりお姉様のくせして。間接キスごときで、男と付き合ったことない女子高生みたいな顔、すんのな」
冬馬は鼻で笑った。
「悪い?」
「悪くない。可愛い」
「それ以上可愛いって言ったらタダじゃおかないよ」
「へー。何してくれんの」
冬馬は腕組みしてあぐらをかき、ごくごく楽しそうだ。千夏も怒っているのがバカバカしくなり、つられて少し笑う。冬馬はテーブルに手を伸ばしてグラスをとり、喉を鳴らして麦茶を飲む。
「千夏がなんで可愛いのか分かった」
「何よ」
「ウブだから」
冬馬はますます笑う。細い目がますます細くなり、その顔に愛しさを覚える。抱きしめたい衝動に駆られる。
「でもよく考えて。俺ってお前が一度、試着した相手だよ」
試着。言い得て妙だと、千夏は舌を巻く。そう。私たちはお互いの体を「試着」している。ただの知り合いでもない。セフレではないが、一回寝たのは確かだ。冬馬はつまり、だからこそフランクに付き合おうとしているのだろうか。お互い飾らず、気負わず接することができる、友達として。
「やっぱり可愛いなー千夏は」
冬馬はくすくす笑う。
「やめて。じゃあなんで、あんなことすんの」
千夏は怒って声を張り上げる。冬馬は少し驚き、瞬きを繰り返す。
「あんなこと?」
「ねえ、冬馬」
「何」
「あの日。私に初めて会った日。あの後、何で連絡してくれなかったの」
聞くつもりはなかった。なのに、言葉が自然と口をつく。直後、急に不安に襲われた。千夏はおそるおそる冬馬を見つめる。冬馬は無表情になった後、物憂げな表情に切り替わる。
「シラフで話すのは嫌だな。なんか酒、ないのかよ」
「ないよ」
本当は冷蔵庫に巨峰サワーの缶がある。だけどアルコールは与えたくない。正秋のときと同じ展開になったら。飲んだ勢いで適当に抱かれたら。私は都合のいい女になりたくない。千夏は正座すると背筋を伸ばす。
「こうしない? 今度、飲みに行こうよ」
千夏はビクつく自分を抑え込み、すました顔をつくり、余裕ぶって言う。
「いいよ」
冬馬からは即オーケーをもらえたのが嬉しくて、千夏は思わず表情がゆるむ。
「何だよ、その顔」
「別に。飲みに行くの、約束だよ」
千夏は微笑む。心からの笑顔だ。
「うん」
「冬馬といると、太ることばっかりやってる気がする。蕎麦とかラーメンとかパスタとか」
「俺、麺類好きなんだよ」
「それで太らないとかずるい」
「そういえば明日、暇?」
冬馬が唐突に訊くので、千夏は面食らった。
「え? あー、うん」
「朝から出かけよう。迎えにくるから」
冬馬はジャケットとバッグを手に取ると、足早に玄関を出た。取り残された千夏はぽかんと口を開け、その後ろ姿を見送った。




