カルボナーラ
千夏は困惑しながら、内側ロックをかけた状態で、少しだけ玄関ドアを開けた。
「なんできたの? なんで住所知ってんの?」
「総務の理乃さんに聞いた」
矢継ぎ早に尋ねる千夏に、冬馬は少し目を伏せ、呆れた調子で答える。千夏は冬馬の顔色を伺いながら、仕方なく頷く。悔しい。恥ずかしい。同時に、嬉しい。千夏は再び正面にいる冬馬を、複雑な思いで見上げる。
「こんなボロいアパート、誰にも見られたくなかったのに」
千夏は恥じらいながら言う。
「つーか、なんだよ。結構、元気そうじゃん。心配して色々買ってきたのに」
冬馬はそう言って、スーパーのレジ袋を見せる。何やら食材が入っているらしい。千夏は不思議そうにそれを見おろす。
「元気そうって?」
「だって会社休むから。具合、悪いんだろ」
冬馬の言葉に、千夏は再び顔を上げ、狐につままれたような顔をする。
「悪くない。今日、有休だよ」
「えー?」
そんなの聞いてないぞとばかりに、冬馬は困ったように笑う。
「何だよ。とりあえず開けろ。特別サービス。飯、作ってやるよ」
「いいよそんなの。帰って」
本心は帰ってほしくない。が、とりあえず言ってみた。
「いいから」
「すっぴんだし」
「気にしない。あのさ、俺も腹、減ってんだけど」
千夏は少しの間、迷う。このままこのドアを開けていいものか。正秋のマンションだって、入るのにも躊躇したのだ。その結果があれだ。だけど、今度の相手は正秋ではない。自分の一番好きな人なら…。
幾分の期待を勝手に膨らませ、千夏はドアを開ける。
「やー、マジでボロアパートだな」
冬馬は靴を脱ぎ、千夏の脇をすり抜けるように室内へ入る。室内をキョロキョロ見回す。
「おい、何だよ、その水着のねーちゃんは」
冬馬は壁にデカデカと貼ってある吉高由里香のポスターを指さし、激しく笑った。
「いいの、大人の事情なの」千夏は顔を真っ赤にしてポスターの前に双手を上げ、仁王像のように立ちはだかる。「きっと杉崎大先生は、さぞやご立派な豪邸にお住まいなんでしょうね」
「豪邸じゃないよ」
「どんな間取り? 築年数は? 家賃は?」
「1LDK。築三、四年くらい。家賃はここよりは高いと思う」
聞いてて腹が立つ。明らかに自分よりいいとこに住んでるんだろう。千夏の様子を見ながらひとしきりからかうと、冬馬はそれに飽きたのか、今度はキッチンに戻る。レジ袋を床に置き、すぐそばの戸棚を開け、中の食材を物色する。
「ボロアパートに住んでるから貯金できるの。ねえ、ちょっと、勝手に色々みないでよ」
千夏は怒りながら歩み寄り、冬馬の着ているジャケットの袖をつかむ。
「ふーん。金貯めて何、やんの」
冬馬は戸棚から使いかけのパスタを取り出し、今度は冷蔵庫を開ける。
「別に。マンション、買いたいだけ。あと、夏休みに旅行いきたい。ってほら、冷蔵庫も勝手に開けないで。それで何、探してんの」
「粉チーズ。できればベーコンも」
冬馬は庫内をジロジロ見る。千夏は庫内に手を伸ばし、粉チーズとももハムをつかむと、冬馬に手渡す。
「はい。ベーコンはない。パスタ、何作るの?」
「お、ももハムいいね。カルボナーラだよ。またダイエット中だからー、とか言うなよ」
「言わないよ。週に一度はチートデイだもん」
冬馬は千夏をちらりと見て、意外そうに笑う。それから鍋を見つけて水を流し入れ、火にかける。さらにレジ袋から卵を取り出して割ると、ボウルの中でカチャカチャとかき混ぜる。千夏はその横顔を見つめ、自分の脳内が騒がしくなるのを聞く。
この状況。何だか同棲しているカップルのようではないか。仕事上がりの彼氏が家に来て、夕食を作る。俺の得意料理だよ、とか言って。正秋と違って、こちらのダイエット云々には一切、気を遣うつもりはないらしいけど。
千夏は無意識ににやけた。冬馬はその様子に不審な目を向けながら、粉チーズを溶き卵に混ぜ入れる。
「マンションのためか。なんだ、事業でも起こすのかと思った」
「実業家じゃあるまいし」千夏は我に帰り、真面目ぶった調子で返す。「私は別に、ディレクターでもないしデザイナーでもない。専門的な技能とか、何も持ってない。独立とか一生、できないから。きっとずっと、あの会社だよ」
千夏は投げやりになる。口にしてみると、実につまらない人生だ。
「いいんじゃん。住宅ローン組むなら正社員で雇われてるうちが正解。包丁はどこ?」
冬馬は辺りをキョロキョロ見回す。
「はい。だよね」
千夏はシンク下の扉を開け、包丁を手渡す。
「サンキュ。地に足がついてていいと思う」
「そう?」
千夏は少しだけ照れるが、顔には出さないようにする。
「入社十年だっけ? 自分に合ってる会社なんだな」
「うん。多分」
「合わなかったらとっくに辞めてるしな」
冬馬はやけに肯定しながら、等間隔でももハムを切る。それからフライパンをガスレンジに置く。その鍋肌にオリーブオイルを垂らして火をつけ、ハムを入れる。ジュージューと音を立てながら、ハムに焼き目がついてゆく。
「旅行はどこ行くの」
冬馬がフライパンを軽く振りながら尋ねる。
「鳥取砂丘」
「砂漠?」
「うん。一回行ってみたかったんだ。なんの生き物もいない、灼熱地獄みたいなとこ、最高」
千夏は両手の指を組み、宙を見ながら微笑んでみせる。
「真夏に地獄へ行くのかよ」
「そう。最高でしょ」
冬馬と一緒ならもっと最高なのに。俺も一緒に行きたいと言ってくれないかな。言わないかな。千夏は一縷の希望を持って返事を待つ。
「そっか。楽しんでこいよ」
無味乾燥した言葉に、千夏はがっくりする。
「私、洗濯物、取り込んでくるね」
「おう」
冬馬はフライパンから目を離さずに答え、千夏はベランダへ向かった。
その後、料理は無事に完成した。先に千夏だけテーブルの前に座らされた。目の前に出てきたのはももハムがたっぷり乗った、濃厚そうなカルボナーラだった。
「私が病人だと思って買ってきた食材が、パスタの材料だったわけ」
千夏はテーブルの前で皿を見下ろし、苦笑しながら尋ねる。
「買ってきたよ、レトルトのお粥とかリンゴとかも。あとで食えよ」
冬馬は部屋の隅に置いたレジ袋を指さす。千夏が普段利用しない、ちょっと高めのスーパーのものだ。
「うん、ありがとう。いただきます」
千夏は食べながら、脳内が再び激しくおしゃべりを始めたので、それに耳を傾ける。
昨日、間接キスしたのはなぜ。可愛いってどういう意味。好きでなくてもできるし言える。それは分かる。だけど嫌いだったら絶対にしない。
私が年のわりに幼く見えたとか。応援してやりたくなったとか。いや、でも。でも。本当は好き? 聞きたい。聞けない。怖い。
「味、どう?」
悶々とする千夏に気づく様子もなく、冬馬が尋ねる。
「うん。めっちゃ美味しい」
感情を押し殺した千夏の声は、事務的にしか出てこない。
「そう? 硬水で茹でなかったし、チーズもペコリーノチーズじゃないけど。ありがとう」
冬馬は機嫌よく、爽やかに笑う。千夏はその笑顔に悩殺され、咀嚼するのを数秒、忘れる。それに気づき、咀嚼を再開する。
「硬水で茹でるの? ペコリーノチーズって何?」
「ペコリーノは羊乳。とにかくまあ、美味いやつ」
「何それ。よく分かんないけど高そうだね」
「値段はパルメザンと大差ないよ」
冬馬はわりと食にこだわりがあるらしい。千夏はパスタの表面をまとうチーズをじっと見つめる。
「へえ。水もチーズも何でもいいよ。お店、出せそうじゃん。こんなに美味しいの、初めて」
「ありがと」
冬馬は満足そうに笑い、勢いよくカルボナーラを食べ進めた。




