間接キス
白井と入れ違いに、冬馬が話しかけてきた。
「天野先輩はまだ帰んないの」
「これ送っちゃったらね」
千夏は画面上でメールの新規作成画面を開く。白井から届いたPDFをそのメールに添付し、さらに先ほど作った申し送りの文章をメール本文に貼りつける。冬馬は立ち上がると、千夏のすぐ隣の椅子に座り、それを横から見つめる。
「この会社はデザイナーのそういう面倒も、進行担当がみるわけ」
「違うよ。こんなの、本当は先輩デザイナーがみるの」
千夏は口調に「お前が面倒みろよ」という意味合いを込めながら、メールの冒頭に定型の挨拶文を書き添える。
「黒岩先輩はもう帰っちゃったしな」
「杉崎先輩が面倒みてくれればいいじゃん」
「俺、そういうの苦手。申し送りって要らなくね? 見りゃわかるし」
冬馬は面倒臭そうだ。
「わかんないもんなんだよ。素人には」
これだからデザイナーは。芸術家気取りで、いちいち腹たつ。
「なら、それやるからもっと給料上げろって社長に言えば」
「言えたらね」
千夏はどうせ無理だとばかりに言い返す。それからメールの文末に署名をつけ、送信ボタンをクリックする。ふと、あたりを見回した。耳も澄ました。しんと静まり返っていて、自分たち以外の声がしない。千夏は急にドキドキし出す。
「営業部とか総務部とか、まだ残ってる人、いるかな」
「あー、他の部屋、全部真っ暗だったよ」
冬馬がなんでもなさそうに言い、パソコンに向かってあくびをする。
「居残り組だねー」
そう言いながら、今は会社に自分たち二人きりなのかと、千夏のドキドキはスピードを増す。
「ねえ。俺のも初校出すとき、申し送り書いてよ」
面倒ごとを押しつけるように、冬馬はニヤニヤしだす。
「やだよ。あんた経歴、長いんでしょ」
「でもいつも『ご確認ください』だけで済んでたよ」
「よくそれでクライアントが何も言わなかったね」
「そういや、チーフが間に入ってなんかやってとき、あったかも」
冬馬はぼんやり、過去の仕事を思い出しながら言う。
「ほら。これからはちゃんとやってよね。うちのクライアントは厳しいよ」
そう。厳しいだけならいいが、いちゃもんつけてくる曲者もいる。そういうのと上手く渡り合うには口八丁手八丁でなければならない。申し送りとは言い訳とほぼ同義だ。繊細ちゃんが多いデザイナーを護る盾の役目も果たす。
「天野先輩の方がそういうの得意じゃん」
「その言葉そっくりそのまま返すわ」
「俺、説明下手だし」
「どの口が言うの」
千夏はだんだんおかしくなってきて笑う。日頃の白井へのアドバイスぶりや黒岩のおだてぶりを見ていれば、まったく説得力がない。
「この口です」
「お金払ってくれるならいいよ。高いよ、私」
ついでに私と付き合ってくれるならね。千夏は脳内で言葉をつけ足す。
「ねえ。これ食べちゃわない? 今日中に食えって書いてあった」
冬馬は急に話題を変える。その手には、いつの間にかシュークリームが二つ、乗っている。
「やめとく。太るもん。月曜もラーメン食べたし」
本当なら今すぐ食べたい。時刻はもう午後九時近いし、千夏はさっきからぐうぐうお腹がなっている。話題の店のシュークリームなら、さぞや美味しいことだろう。
「それと餃子な」
「いいの。とにかく食べない」
千夏が少し怒ったように言うと、冬馬は不敵に笑う。それからセロファンを剥がし、シュークリームを食べ始める。千夏は恨みがましい目でそれを見やる。
「ムカつくほど美味しそうだね」
「美味しいよ」
「でも食べない」
千夏は意地を張ってパソコンに目を戻す。すべてのアプリケーションを終了し、パソコンを終了させる。冬馬も一緒に帰ってくれないかな。そんな期待を少ししながら、あえてつれない態度に徹する。
「ふーん。じゃあひと口だけ」
そう言う冬馬の言葉を無視し、千夏はパソコンを見つめ続ける。ふいに、半開きになった口に何かがねじ込まれた。
「ん」
千夏は冬馬を睨みながらも、それを不覚にも美味しい、と思ってしまう。同時に「甘いものは週一なのに」と脳内で発狂する。さらに、ねじ込まれた冬馬の指の感触に興奮している自分にも気づく。
「あはは。口についちゃった、クリーム」
冬馬は意地悪く笑う。
「やだ」
千夏が赤面し、箱ティッシュからティッシュを一枚とろうとすると、冬馬がその手を押さえる。
「取ってやるよ」
冬馬は千夏の唇についたクリームを自分の指で拭いとる。千夏が見ていると、冬馬はそれを自分の口に運び、長い舌で舐めとった。




