残業
それから数日間、冬馬は外出していてほぼ会社にいなかった。なんでも正秋や長谷川と一緒に出回っているらしかった。千夏は制作部の仕事に追われながらも、日々、冬馬のことを考えずにいられなかった。
また抱きたい、とか何。ラーメン屋で言うセリフか。しかもその直後、バーカ、本気にすんなよって笑われた。ムカつく。ムカつく。キラキラ王子、死ぬほどムカつく。相手は百戦錬磨の冬馬だ。私など暇つぶし相手にはちょうどいいんだろう。千夏は自分の立ち位置を卑下しながらも、冬馬の本気にもわずかに期待した。
水曜の夜に、正秋にはメッセージを返信した。謝り倒す数々のメッセージに対して、もういいよ、今までどおり同僚としてよろしく、と打った。友達として、とは打てなかった。
正秋からはすぐに返信があった。ちゃんと顔見て謝りたいから日曜日に会って、とあった。それを突っぱねる気持ちになれないことと、本人の「トックリヤシ」の具合が気になっていたことも事実で、千夏はいいよ、と返した。
木曜の夜八時過ぎのことだった。社内はほとんどの社員が退勤しており、制作部に残っていたのは千夏と白井、黒岩だけだった。この日は沢井モーターへ初校の提出日に指定されていた。初校とはデザインした制作物を初めてクライアントに見てもらうことを指し、正秋が受注した翌日以降、白井はよりクライアントの意図に近づけるべく、デザインのブラッシュアップを図っていた。
「天野さん。PDF、できました」
ブラッシュアップが完了したらしい白井が、千夏に声をかける。
「オーケー。私にメールで送って」
「はい」
千夏は受信ボックスを開き、白井からのメール受信を確認する。PDFの中身、デザインの良し悪しについては長谷川がすでにチェックしているので、自分は特に詳しく見ない。ただ、一つ気になることがあった。
「ねえ白井君。申し送り、これだけ?」
千夏は自分に届いたメールを見る。メール本文に「申し送り」と題された一文があり、「A案:センスある貴社をイメージしました」「B案:シンプルにまとめました」と書かれている。
「え?」
白井は素っ頓狂な声を出す。
「『申し送り』はちゃんと書いておかないと、後々めんどいことになるよ」
横から口出しするのは黒岩だ。
「うん、本当にそうなの。せっかくA案、B案ってつくってくれてもさ。何をイメージしてつくったか、言葉にしてやんないと、素人には分かりにくいんだよ」
千夏は黒岩の意見に賛同しながら白井の席に歩み寄り、パソコンのモニターを一緒に見て説明する。
黒岩も自分の椅子を寄せ、白井のつくったPDFを見、A案のほうを指差す。
「センスある貴社、って何。A案の表紙のほうは何をイメージしたわけ」
黒岩のそれは、まるで日本語を喋れない外国人に日本語語テストの誤りを問い詰めるような言い草だ。
「えーと。カッコいいイメージです」
白井は背中をボリボリ掻く。
「は?」
黒岩は眉間にシワを寄せ、口を台形に開いて突っ込む。
「じゃあB案は?」
千夏は黒岩の容赦ない突っ込みに笑いそうになりながらも、まじめに尋ねる。
「こっちも…ちょっと違うけど。洗練されててカッコいいイメージです」
白井の言い方は自信なさそうだ。黒岩は椅子を回転させ、深くため息をつく。
「イミフ。あんたねえ、それじゃ全然、クライアントに伝わんないよ。『カッコいい』って一番抽象的で、一番分かりにくい言葉だから。でもデザイン自体はいいから。こじつけでいいから、申し送りの文、しっかり書きな」
黒岩は手厳しい。だけど当然だと千夏は同意する。デザイナーという人種は頭の中でイメージが固まっていて、何を表現したか自分では理解しているものだ。だけどそれを言語化しないから、あるいはできないから、見る側、つまりクライアントには分からないし、伝わらない。ましてや素人にはますます意味不明なのだ。
「じゃー私は今日、予定あるんで上がりまーす」
黒岩がそう言って椅子を戻し、自分のパソコンをシャットダウンする。千夏は少し恨めしそうに黒岩を見る。黒岩は後輩の面倒見がいいタイプではないのは知っている。だけど、意見したなら、手助けしてやってほしい。きっと少なからず、黒岩は白井に嫉妬しているんだろうと千夏は推測する。沢井モーターのような大口顧客のコンペで勝ち抜いたのがベテランの黒岩ではなく、同じくらいのキャリアを持つ冬馬でもなく、若手の白井だったからだ。
千夏は白井のパソコンのディスプレイに目を戻す。
実際に白井のデザインはいい。千夏はデザインの勉強などしたことがないが、日頃から社内外問わず、デザイナー達の制作物は山ほど見ている。そのなかでもベテランで安定感のあるデザイナー達よりも、白井の方がいいときが結構あるなと、ふと思う。白井のつくるものは理解されないことも多い。だけど千夏に言わせればフレッシュで、枠に囚われてなくて、デザインの対象が生き生きして見えるのだ。冬馬より粗野だし、黒岩のような繊細さはなくとも、白井らしい良さがある。
だからこそ、白井が初めて手にした大仕事で、どうかつまづかないでほしいと願う。新規の大口顧客だし、配慮の行き届いた仕事ぶりをアピールすることも大事だ。どうしたもんかと、千夏は腰に手をあてて思案する。
「あれ? 二人だけ?」
その声に、千夏と白井は顔を上げる。制作部のドア口に、冬馬が立っていた。




