今はまだ
後頭部を押さえつけられ、鼻同士がくっつきそうな距離に動揺した千夏は、ただただ正秋の顔を見下ろすしかなかった。
「な、何」
「帰らないで」
部屋はしんと静まりかえる。千夏は壁の方に顔をあげる。壁かけのアナログ時計は、十時半をさしている。いつの間にかテレビが消されていて、いつ消したのか思い出せない。そういえば話が盛り上がったとき、正秋がリモコンを向けて消したような。そんなことを、千夏は正秋の腕の中で考える。
どうしよう。どうしよう。真下から見上げてくる正秋の表情に、千夏は戦慄する。当然、もう少年の顔ではない。男の顔になっている。正秋は酔いながら表情を緩ませ、不敵に笑う。自分の両肩は、正秋の両手でがっちりホールドされ、身動きは取れない。
逃げられない。怖い。どうして私は家に着いてきた。マンションの入り口で回れ右しなかった。逃げることはできたのに。これは自業自得か。私が悪いのか。その気にさせたつもりはない。正秋は友達に手は出さないって言っていた。なのに──。正秋は目が据わっている。千夏は全身が泡立ち、急に寒くなった。
「ねえ、千夏」
正秋はいつもと違う声を出す。甘く柔らかく湿度の高い、やけに粘り気のある声だ。
「な、なに」
想像以上に切羽詰まった声が、千夏の口から飛び出す。
正秋が千夏の両肩を掴んだまま、勢いよく横向きに寝転がった。素早く千夏を仰向けにさせ、自分は千夏の上にまたがる。上体を倒し、千夏を見下ろす。メガネをはずし、テーブルの上に置く。
「すんごく。すんごく、綺麗になったね」
正秋の言葉と、メガネをはずした素顔に、千夏は引き込まれた。やっぱりメガネがない方がずっといい男だ。そのいい男の切なげな表情が、少しずつ、目の前に降りてくる。どんどん近くなり、小さかった顔が大きくなってゆく。背後に見えていたはずの天井がもう見えない。千夏が何か言う前に、二人の唇が重なった。
逃れようともがく千夏の頭と肩を押さえ込み、正秋はなかなかキスをやめてくれない。
「やっ」
千夏はなんとか顔を横にそむけ、唇を離す。ハアハアという正秋の酒臭い、生温かい吐息が耳元にかかる。千夏は正秋の肘のあたりを掴み、肩から手を引き離そうとする。正秋はますます手に力を込め、それを阻止する。
「ダメだってば」
「千夏」
「やめて」
「好きだ」
千夏は息をあげ、心臓をバクバクさせて正秋を見上げる。二人の顔と顔の距離は二十センチもない。正秋は瞬きひとつせず、千夏を見つめる。口元に、どちらのものとも分からない唾液が糸を引いている。
「これ以上はもう無理。限界」
「わ、私」
千夏が言いかけると、正秋は千夏の片手をぐいっと掴み、その手で千夏自身の口を塞がせる。
「いい。何も聞きたくない」
口を塞がれ、体を拘束され、千夏は目を見開いて恐怖する。なのに、恐怖以外の感情も湧き起こってくる。千夏はそれが何なのか分からない。正秋は千夏の耳にねっとりとしたキスをする。千夏はビクッとして頭を左右に揺らす。
「最高に可愛い。ヤバい、興奮する」
正秋は息を荒げながら千夏の手をどけると、再び唇を強引に押しつける。千夏の口の中に、熱い舌がにゅるりと滑りこんでくる。
「んー。んー」
千夏はなすがまま、どうすることもできず、手足だけを闇雲にばたつかせる。正秋は自分の舌で千夏の舌にいやらしく絡みついたまま、千夏の両腕を掴み、その両足は自分の下半身とベッドで強く挟み込む。正秋の手が、千夏の頬を怪しげに撫でる。その手つきはゾクゾクするほど優しい。首筋、鎖骨へと徐々に降りていき、千夏のワンピースに手を滑り込ませ、胸に触れた。
「んんー」
アルコールの匂いのなかに、あの甘い、いい香りがする。確か観覧車で抱きしめられたときにも嗅いだ、正秋の匂いだ。千夏の脳裏に、このまま流れに身をまかせた方がいい、という声がした。自分は彼氏いない歴三十二年、もうじき三十三になる。正秋は悪い男じゃない。むしろ将来有望株だ。顔はタイプじゃなかったはずなのに、メガネを外せばなかなかイケメンだ。だったらいいじゃないか。このまま抱かれてしまえばいい。千夏は長くて濃厚なディープキスをされながら、自分に言い聞かせる。
正秋は千夏の唇を解放すると、今度は首筋にキスをする。同時に生温かい吐息も浴びせられる。ふと、冬馬の姿が視覚をかすめる。天野先輩と軽口を叩き、細い目をより細めて笑う仕草も、描いてくれた似顔絵も、自分でつくった「冬馬座」も思い出す。みるみるうちに目に涙が滲んだ。正秋の輪郭が、涙でぼやけていく。鼻がつうんとして、胸が痛む。呼吸が苦しい。もう、息もできない。
正秋のことも嫌いじゃない。日ごと、「好き」は膨らんでる。でも、正秋だけを見られない。だって私は。私は。今は、まだ。
「愛してるよ」
正秋は切なげな顔を向け、息を荒げながら、ブラジャーごしに千夏の胸をまさぐっている。その隙に、千夏は彼の股間のあたりに手を伸ばす。すでに硬くなった正秋のそれを力の限り、ぎゅっと握りしめた。
正秋が絶叫し、体をのけぞらせる。千夏はその隙にベッドから転げ落ちる。バッグを手に掴み、玄関めがけてダッシュし、すぐさま靴を履くと、勢いよくドアを閉めた。




