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豹変

千夏の言葉を受け、正秋はソファを立ち上がった。


「じゃ、お言葉に甘えて」

正秋はキッチンへ行き、冷蔵庫からビールを取り出す。ソファに戻って千夏の隣に座りこみ、缶ビールのプルタブを開け、グラスへと傾ける。八割ほど注いで缶をテーブルに置き、グラスを手に取る。喉を鳴らし、グラスの分を飲み干していく。千夏は缶を手に取り、おかわりを注ぐ。


「ありがと。それでその、じいちゃんの話の続きなんだけど。おかげで俺、無駄に植物に詳しくなっちゃってさ。小学校の時のあだ名が植物博士だった」

「ハハハ。植物博士。なんか、それっぽい」

「ぽいとか、言うな。ねえ、千夏も一杯くらい飲んだら」

「私はいいよ」

そう言って飲ませる作戦か。千夏は顔に貼りつけた人工笑顔の裏側で、巣穴の子を守る野ウサギばりに警戒する。


「ビール苦手だったよね。缶酎ハイとかもあるよ」

「ありがとう。でもいい。お茶とかない?」

「ある。待ってて」

「うん」

正秋は立ち上がり、キッチンへ向かう。引き出しから茶筒を取り出して匙で茶葉をすくい上げ、耐熱グラスに入れると、ポットから熱湯を注ぎ入れる。

「ありがとう」

正秋にお茶を差し出され、千夏はグラスを受け取る。再び千夏の隣に腰を下ろすと、ビールが入った自分のグラスを手に取り、あぐらをかく。


「なんで植物博士にならなかったの」

「んー。それじゃ食えないだろ」

正秋はケタケタ笑う。

「確かに工学博士とか、医学博士とかの方が食えそうだよね」

千夏は大真面目な顔して腕を組む。

「調べてないから分からないけど。あ、でも弟は植物園で働いてるよ」

「何それ。笑える」

千夏は両手を叩く。

「だよな。小学生の団体とか来ると、植物の解説ツアーとかやってるって、張り切ってた」

正秋は手に旗を持って仰ぐふりをする。

「おじいちゃん喜びそう」

「もう死んじゃったけどね」

正秋は遠い目をして言う。千夏は正秋の横顔を見た。ほんのり赤くなっている。血色がよく、自分より幼く見える。


「正秋はなんで広告制作会社で営業なんかやろうって思ったの」

「んー。なんでだろ。なんとなく」

「えー。私と一緒じゃん」

「そうなんだ。俺、別にこだわってない。でも、会社も営業職も俺に合ってると思う。他で働いたことないから分かんないけど。売って売って、とにかく売り続ける。そんな人生。悪くない」

正秋の言い方は投げやりなような、どこか冷めた感じを千夏は受ける。同時に、営業部のエースとして確実に成果を出し続けている、そんなカッコよさも感じられる。


「私も。今更、他のところに転職する勇気なんかない。どうせ定年まであそこにいるよ」

千夏は苦笑いし、牛肉を箸でつまむ。正秋は千夏の方を見て、明るく頷く。

「定年まではいないんじゃない?」

「そうかな。いそうだなって、思っちゃう。会社に飼われてる自覚、あるし」

千夏の言葉に反応せず、正秋は立ち上がる。冷蔵庫を開け、缶ビールのお代わりを持ってくる。千夏が注いであげようと、缶を正秋の手から取り上げる。正秋はそれをサッと取り返す。


「いいよ。自分でやるから」

「ダメ。注がせて」

千夏は再び缶を奪い取る。

「会社の飲み会みたいになっちゃうから、しなくていいよ」

「手酌はやめた方がいいよ。出世しないって、社長が言ってた」

千夏が缶のプルタブを開けると、正秋は笑った。

「分かった。お願いします」

「次は、目指せ課長だね」

千夏は空いたグラスにトクトクとビールを注ぐ。正秋がまたじっとこちらを見つめてくるのに気づく。本当に、何なのかな。その目、やめてくれないかな。千夏は敢えて無視してグラスに集中する。


「俺が出世したら、嬉しい?」

「そりゃあね。同期として嬉しい」

千夏は軽い調子で答える。

「千夏に注いでもらうほど出世すんのかな」

正秋はグラスを手に取り、ぐいっと傾ける。千夏は缶ビールを手に持ったまま、ソファの上で体育座りすると、隣の正秋の方に向き直る。正秋は一気に飲み干してしまった。

「そうだね。制作部の天野さんのお酌を受けると、大出世間違いなしですよ、安田係長」

千夏はおどけた口調で言い、正秋の顔を見る。先ほどよりさらに赤い顔で、少し涙目をしていて、やけに可愛い。熱が出て泣く幼子のようだ。正秋が酔い潰れたタイミングで、自分はお(いとま)しよう。


「課長になったら、会社じゃなくて、俺に飼われてくれる?」

正秋は少し目をトロンとさせ、千夏の手首を掴んでくる。千夏はギクリとして、やけに背筋がしゃんとする。ほら、雲行きが怪しくなってきた。この先はあまり刺激しない方がいいだろう。千夏は用心しつつ、それを悟られないよう、そっと手を離させ、わざと明るく笑顔を振りまく。

「前向きに検討しとくわ」

「そうか。じゃあ、どんどんお代わりもらおうかな」

正秋は空いたグラスを千夏の手元へ突き出した。


その一時間後のことだった。


正秋はソファに背中を預け、完全に酔い潰れている。千夏は空き缶と食器類をキッチンに運び、せっせと洗い物を始める。それが終わると正秋の顔を遠巻きに見る。まだ寝ているのを確認し、こっそり冷蔵庫を開けてみる。先ほど使ったと思われる牛モモ肉の残りがパックに入っていて、ラベルを見るとスーパーの名前が表示されている。さらに「おつとめ品」のシールがデカデカと貼ってある。千夏が普段から利用している激安スーパーの別店舗で、なんだか嬉しい。


さらに他もジロジロ見てみる。下ごしらえしたらしい野菜がタッパーに収まり、整然と並んでいる。調味料もドアポケットに綺麗に収まっていて、使いやすそうだ。千夏はいたく感銘を受ける。林が正秋を「嫁にもらわれる側」と皮肉ったのはあながち嘘ではないようだ。それからキッチンを出て、テーブル前に戻る。千夏は正秋の両脇に手を差し込み、ソファのすぐ隣にあるベッドまで正秋を引き上げ、仰向けに寝かせる。


「おーい。係長ー」

千夏が呼びかけるも、反応はない。仕方がないのでキッチンへと向かう。冷蔵庫のドアを開き、ミネラルウォーターのペットボトルを見つけ、手前に引きずり出す。洗いかごからコップを見つけると、それに水を注ぎ、正秋のもとへと運ぶ。


「係長。お水ですよー」

再び呼びかけるも、反応はない。急性アルコール中毒ではないか、心臓が止まっていやしないかと、千夏は少し不安になる。コップをテーブルに置き、自分もベッドに乗り、正秋にまたがりながら上体を倒すと、そっと正秋の胸に耳を当てる。心臓が鼓動する音が聞こえてくる。よかった。死んでない。千夏はほっとして、正秋の胸から耳を離す。


千夏が帰ろうと、自分のバッグに手を伸ばしたときだった。急に何かに背中を押され、再び正秋の胸に顔を押しつけられた。とっさに顔を上げると、仰向けになっている正秋が千夏を抱きしめ、下から見上げていた。

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